転がる岩
「それで私の所に泣きついてきた、というわけなのね」
魔女は立ったまま腰に両手を当て、大きく息を吐いた。それだけでも、突き出した豊かな胸が揺れる。
「呆れたこと」
「面目ない」
彼女の傍で、フォレウスは椅子に腰掛けたまま会釈した。右手を後頭部に添えており、眉尻は下がっている。
ここは旧市街にある彼女の家だ。既に日は暮れており、中庭に面した窓にはカーテンが引かれていた。
その割に、室温は快適だ。部屋の隅に置かれている壺から、ひんやりした空気が流れ出している。
先ほどまで食事をしていた彼女の夫は、軍人が家を訪ねてきたことを知って二階へと引っ込んでいた。
夫と二人きりの時間を邪魔された魔女は、最初、ずっと頬を膨らませていたが、元部下の話に事態の重大さを知ると腕組みを解いてくれた。
目の前の紅茶に手もつけずしおれている彼に、魔女は値踏みする視線を送る。
「ほんと、ギリギリのところで貴方は甘いわね」
「甘くしたつもりはないんですがねぇ」
「知り合いだからって油断してたでしょ? それは甘さよ。――まあいいわ。私としても、国が乱れるのは困るもの。貴方のお願い、引き受けてあげるわ」
「ありがたい!」
フォレウスは胸の前で両手を握り合わせた。その額に、魔女――メリザンヌは人差し指を突き出す。ずんずんと近づいてくる指先に、フォレウスはややのけぞる形になった。それでも最終的に、尖った爪の先が眉間に触れている。ちくりと痛い。
「私が今ここにいるのも、貴方と可愛いあの子に命を救って貰ったお陰だものね。でもこれでもう、貸し借りはなしよ?」
フォレウスはこれを聞いて、口元に笑みを浮かべる。
「俺ァ貸しだと思ったことは一度もありませんがね。ボス」
なにしろ、フォレウスとて瀕死の重傷を負ったところを彼女に助けられているのだ。回復魔法を使えぬ彼女が、どうやって止血をしたのか、彼は未だにわからない。クルルカンの町に戻ってからも、彼女は聞かれたくないようだったから、尋ねてもいない。
目の前の魔女の正体がラミアで、その唾液に止血の効果があるなど知りようがなかった。
「ボスは止めて。美しいメリザンヌ嬢とお呼びなさい」
「ええ、長い……。それに”美しい”に異論はありませんが、”嬢”は流石に欲張りすぎでは?」
「うるさーい!」
メリザンヌの指が、フォレウスの眉間をドスドスと刺した。
◇
同じ頃。
地下の隠れ家で毛布にくるまりながら、クルーセスはじっとしていた。
すぐ傍で、グリフが火をおこしてパンや食材を炙っていた。反対側には濡れた衣服が並び、丁寧に拭われた楽器も置かれている。
ずぶ濡れのクルーセスが隠れ家にやってきた時も、グリフは無言だった。綺麗な水を汲みおいた壺から、桶に水を移して乾いた布と一緒に差し出した。
クルーセスはそれを受け取り、髪や身体を清めて毛布にくるまったのだ。
火が薪を飲み込んでいく様子を見ていると、どこか安心する。
「ほれ」
やっと口を開いたドワーフが、カリカリベーコンの上に溶けたチーズの載ったパンを差し出してきた。
クルーセスはぼんやりとそれを受け取る。受け取ってから初めて、それが食べ物であることに気づいた顔をした。
「明日は大切な日じゃろうが」
食欲なんてないと、顔に出ていたのだろう。グリフがそう言うので、しかたなく口を開いてパンを押し込む。
咀嚼しているうちに、実は腹が空いていたことに気づいた。途中からはがつがつと、夢中になってパンを食べる。
グリフは目を細め、火に薪を足した。
「やるんじゃろ?」
「……。やるよ」
その後はまた、沈黙が流れる。グリフは自分の分のパンを焼き、大きな口で頬張った。
「スティグマータたちと一緒に待っていても良かったんだよ、グリフ」
食べ終わったクルーセスが、また毛布をかき寄せて口にする。腹が膨れたお陰か、気持ちが少し上向いた。
「自分が死んだことになっているこの町には、戻りたくなかったんじゃない?」
「ふん。仕掛けを頼んでおきながら、どの口がいう」
グリフは人差し指を立てて、漠然と上を示した。クルーセスは眉尻を下げて肩をすくめる。
「まあ、それはそう、なんだけれど」
「工房街には行っておらん。あっちには知り合いも多いからの。じゃが人間には、わしらの顔の区別はそれほどつかんじゃろう? ちょいと髭の長さや色を変えれば」
クルーセスはグリフの髭をまじまじと見つめた。
「長さと色が変わっていたとは、気づかなかったよ」
「変えとらん」
ドワーフは眉根を寄せて、パンをかじり取る。
「じゃが、誰にも不審がられておらん」
クルーセスは吹き出してしまい、慌てて毛布で押し殺す。グリフはふんと鼻を鳴らした。
「あんなに恐ろしい思いをして転移門を潜ったというに、全くの無駄じゃったわい」
青年は目元を和らげた。
口には出さないが、グリフはきっと自分を心配してくれたのだろうと思う。
彼もまた、奴隷制に良い思いを持っていないドワーフだ。帝都の中で最も多くの奴隷がいるのは工房街だ。ドワーフたちはこの町が帝都になる前からの住人で、奴隷ではないが、身近で奴隷を見る機会が多い。
奴隷の主人である人間には様々なタイプがいるが、効率重視の主人や、冷酷な主人に買われた奴隷たちは惨めだった。もちろん、殺してしまっては大損なので、最低限の食事や寝床、時には医療を受けることも出来る。しかし、それ以外は馬車馬のごとくこき使われた。短い睡眠時間以外は労働に当てられ、休みは病の時くらいだ。少しでもミスをすれば罵声を浴びせられ、殴られる。例えミスをしなくても、主人の虫の居所次第では殴られた。子どもや若者の目から生気が失われていく様子を、グリフは何度も見た。
奴隷解放戦線のメンバーは、帝都で密かに活動する中で、グリフと出会った。
手始めにスティグマータを解放するという作戦を耳にしたとき、その危険度も顧みず、グリフは志願してくれたという。
ぶちぶちと不平を言う姿からは想像できないが、グリフは温かい心を持っていた。
「敵に手の内を知られてしまったんじゃろ? それでもやるのか」
「丸くて大きな岩が坂道を転がり始めたら、誰にそれが止められる?」
「転がってくるのが分かっておれば、事前に穴でも掘っておけるじゃろ?」
ドワーフの指摘に、クルーセスは小さく頷く。
「確かに。軌道修正が必要だ」
青年はリュートに視線を向けた。ドワーフは彼の横顔をじっと見つめた後、炎に視線を戻す。
「死ぬなよ」
「……うん」




