荷運び
小麦粉をパン屋に納品した帰り道。ニキビ面の男は周囲を警戒しながら、路地裏に荷車を押していった。
緑色に塗られた木製扉の前に、荷車を止める。そして戸口を、三回、二回、三回とノックした。
数秒ののち、頬の肉が垂れた陰気な男が、細く開いた戸の隙間から顔を覗かせる。
二人は頷きあい、粉引き奴隷の方が背後の荷車を立てた親指で示した。
陰気な男はまた頷き、一度奥に引っ込んだ。次に戻ったとき、男は大きな麻の袋を持っていた。ニキビ面はずっしりと重いそれを受け取り、両腕に抱えて荷車へと運んだ。戸口に戻ると、陰気な男は別の袋を差し出してくる。先の物と同じような袋だ。
ニキビ面は何度か扉と台車を往復し、荷物を積み上げた。その間、全く会話を交わさない。
作業を終えると、片方は何事もなかったかのように扉を閉め、もう片方は荷車を押して表通りへと戻っていった。
奴隷の男は俯いたまま、道の端を通っていく。石畳を踏んで、車輪がガラガラと鳴り、両手に絶え間なく振動が伝わってきた。
耳の奥で、心臓の鼓動がバクバクと聞こえている。気持ちが焦る。けれども男は、表面上は平静を装って、ゆったりとした足取りを心がけた。人に荷車をぶつけないように、慎重に進める。トラブルは最も避けたい。
目的の水路が近づいて来たとき、向こうから二人組の兵士が歩いてくるのが見えた。
粉引き奴隷は思わず左右を見回した。右に路地がある。一旦そちらへ曲がってやり過ごそうか。
いや駄目だ。いきなり進路を変えたら、その方が怪しまれる。
敢えて顔を上げ、堂々とした態度で荷車を押していく。
おかしなものは何も運んでいない。
納品に行くときの気持ちを思い出せ。
しかし心音は、そう素直には騙されてくれない。
兵士たちが近づいて来た。彼らの視線が、道の中央からニキビ面の男へと移り、荷車を捉える。
二人は何か、会話を交わした。
見るな。こっちに来るな。俺を気にするな。
男は心の中で必死に念じた。
「随分と重たそうだが、何を運んでいるんだ?」
兵士の片方が話しかけてきた。ニキビ面は、心臓が口から飛び出すかと思った。
今、一番聞きたくない言葉だったのだ。
愛想笑いを浮かべながら口を開こうとして、喉の奥が張り付いてしまったかのように言葉が出ない。うめき声のようなくぐもった音が出ただけだ。もう一人の兵士が、隣に並んでつまらなそうに荷物を見遣っている。
ニキビ面は咳払いをした。
「これは兵士様がた。お役目ご苦労様です。主人の言いつけで、農具を研ぎに出しておりました。それを引き取ってきたところです」
「改めても良いか?」
「もちろんでございます」
ニキビ面は荷車を固定し、自ら一番上の麻袋を開いて中身を見せた。なるほど、確かに中身は磨かれた農具だ。牧草をかき集めるのに使うフォークや、土を耕す鍬、スコップに鎌など。
「随分と沢山あるな」
「大きな農場ですので」
嘘を重ねながら、ニキビ面は首が絞まってくる思いだ。こんな時のために、農場の名前は予め用意してある。できれば聞いて欲しくなかった。確認などされようものなら一巻の終わりだ。
「綺麗に磨かれているな。どれも新品みたいに刃先が鋭い」
「どこの研ぎ屋だ?」
質問は予想外の方向だった。男は一瞬、頭が真っ白になる。
「ええと……、工房街の」
工房街にはほとんど行ったことがない。暑さのせいではない汗が噴き出すのを感じた。手がべたつき、脇が濡れてくる。
兵士たちは平坦な表情で見つめてくる。
工房街の方を示した指先が、中をうろうろとした。
「その、行くときにも迷いまして」
こめかみを汗が流れ落ちた。万事休すだ。
そのニキビ面は、突然背後から腰を叩かれて飛び跳ねた。
振り返ると見知らぬドワーフが立っていた。縮れた黒髪と、立派な髭を持っている。
「すまんすまん。釣り銭を間違えとったわい」
ニキビ面は突然差し出された硬貨を、訳もわからぬまま受け取る。ドワーフが兵士たちを振り返った。
「わしゃあ工房街で農具専門の研ぎをやっちょるダンカンっちゅーもんじゃ。兵隊さんがた、何かあったのかの?」
兵士の一人が「ああ」と言ったあと、農具にぽんと片手を置いた。
「もしも武器の手入れも出来るようなら、覚えておいて頼もうかと思っただけだよ。腕の良さそうな研ぎ師だと思ってね。農具専門とは残念だ」
そして兵士二人は目配せし、「邪魔したな」と離れていく。
硬貨を握ったまま放心していたニキビ面は、慌てて離れていく二人に頭を下げた。まだ心臓がバクバクしている。この数分のやりとりで、何年分も寿命が縮んだ気がした。
漸く頭を上げたとき、兵士たちは影も形も見えなくなっていた。見知らぬドワーフが、つまらなそうに兵士たちの去った方を眺めている。
「あの、ダンカンさん、」
何かを言いかけた男に、ドワーフは片手を立てた。
「そんな名は知らん」
「えっ?」
「わしとおぬしはここで会わんかったからの」
ドワーフは言って、踵を返した。ニキビ面はぽかんと立ち尽くす。数歩進んだドワーフが振り返って、片手を追い払うように前後に動かした。
「はよ行かんかい」
促され、奴隷は慌てて頷き、農具を包んだ麻袋を元に戻す。荷車の横棒に手を掛けようとして、硬貨を握り込んだままだったことに気づいた。
しかし、振り返ったときにはドワーフの姿は人波に紛れている。男は首を傾げた。
おそらくは彼も仲間なのだろう。それならばまた、会う機会があるはずだ。
ポケットに硬貨を押し込み、男は水路へと向かった。次の運び手へ、武器を渡すのだ。




