新たな姿
明けて翌日。
「い、いいか。やるぞ」
黒竜姿のシャイードは、温泉湖の岸辺に腰掛けてそう言った。
アルマは鼻を鳴らす。
「そう口にして何度目だ。さっさとやるがよい」
「だってなあ。心の準備が……!」
シャイードは胸に手を当てる。フォスがすぐ傍をうろうろと飛んだ。シャイードは激しい心音を抑えようと、深呼吸を繰り返す。
今朝ももうもうと立ちこめる湯気で、周囲は白く塗りつぶされていた。
「よよよ、よし!」
心を決め、目蓋を閉じる。
脱皮が完全に終了して、これから初めて人間の姿を取るのだ。
(格好いい青年姿、格好いい青年姿、渋い大人でもいいぞ!)
真っ先に思い描いたのはイヴァリスの姿だったが、髭を生やし、もう少し年上にしたところをイメージした。兄らしく。
そしていつものように、ドラゴンの身体を折りたたんでいく。
人の姿になった。
変わらず岸辺に腰掛けた姿で、シャイードは固く目を瞑っている。両手も両足も、ぎゅっと握り込んでいた。
「……ほう。これが汝の新しい姿か」
すぐ傍で、アルマの声がした。シャイードの目蓋が閉じたまま、ぴくっと動く。
「ど、どうだ? 格好いいか?」
「我には何とも言えぬ。汝の求める”格好いい”が、よくわからぬゆえ」
「お前はそういうやつだよな」
シャイードはため息をつき、意を決して目蓋を開いていった。片方ずつ。
そしてまず、両手を見下ろした。
(さほど違和感はないな。もっとも、手なんてそうでかくなるもんでもないか。手足は長くなった……気が? するぞ!)
続いて湖を覗き込んでみるが、沸き立つお湯は鏡代わりにならない。
結局、ボディバッグから探索に使う手鏡を取り出した。
鏡面を見る前に何度か深呼吸をして、それから勢いよく覗き込む。
「……っ!」
(……ん?)
「……」
(あれ?)
シャイードは何度か鏡を近づけたり遠ざけたりして覗き込み、意味もなく上下に振ってみた。
アルマを振り返る。
「なんか、鏡の調子が悪いみてぇなんだけど」
「どういう意味だ? 写らぬのか?」
「いや」シャイードは首を振る。「俺が写ってる……」
アルマは隣にしゃがみ、シャイードの額に手を当てた。目を閉じて首を振る。
「やはりアホの子になっておったか」
シャイードはその手を振り払った。
「いや待ってくれ! なんで、……なんで顔が変わってねえんだ!? 背は伸びたのに……」
「背も伸びておらぬであろう」
「いや、伸びてるだろ! 現に手足が長くなっている……あれ?」
「なっていない」
シャイードは目を擦った。さっきは長くなっているように見えたが、断言されると気のせいに思えてきた。
いや、完全に気のせいだった。
「待て……っ!」
「誰に言っているのだ」
アルマは首を傾げる。別に置いていこうとしていなかったからだ。
「話が違うじゃねえか! 脱皮したら大人のドラゴンになるんじゃなかったのか?」
シャイードはアルマの胸ぐらをつかみ、がくがくと揺すった。
「成竜になれば、と言ったであろう」
揺すられて、アルマの声には後付けのビブラートが掛かった。
「なってねえの!?」
「ドラゴンが何度脱皮したら成竜になるのかなど、我は知らぬ。本に書いてなかった」
シャイードはショックを受けた顔で手を離し、がっくりと肩を落とした。フォスがゆっくりと飛んできて、その頭の上に乗る。ぽんぽんと跳ねた。
「なんでだよーーーーっ!!」
温泉湖に、絶叫が響き渡った。
◇
身体は元気になったものの、心に大きなダメージを負ったシャイードを、アルマはなんとかなだめすかし、イ・ブラセルへの門を開かせた。
フォスはしばらく頭の上で跳ねていたが、今は静かに乗っている。
妖精樹はひと月半前に見た時よりも明らかに枝葉を増やし、丈も伸びていた。ロロディとローシを初め、”さいけん”で手伝っている妖精たちのお陰だ。
ロロディはシャイードの姿を見るなり、駆け寄って際限ないお喋りを開始し、ローシはそれをいさめる。
本来ならばほほえましい風景なのだが、やさぐれた気分のシャイードは、むっつりと黙り込んでいた。果ては順調に成長する木にさえ嫉妬してしまう。
「俺は小、……変わらないままなのに」
アルマはシャイードがうっかり”小さい”と言いそうになったことに気づいたが、突っ込まないでおいた。精一杯の優しさだ。
シャイードは近づいて妖精樹の幹に指先で触れた。
『…………ド……』
「えっ」
すぐ傍で誰かに声を掛けられた気がして、手を離す。振り返って仲間たちを順に見つめたが、誰も口を開いていない。
ロロディすら、目を大きく開いていても、口は噤んでいた。
(まさか)
最後に、妖精樹を見上げる。今度は両方の掌を幹に当てた。
「……」
何も起きず、気のせいだったかと思い始めたとき。
『シャイード?』
「!」
確かに声が聞こえた。声は、頭の中で響いたように思う。
しかもどこか、聞き覚えのある声だ。舌足らずで、幼い。誰の声だったか……
『わたし、あなたを感じる』
シャイードはハッとした。木に取りつき、左耳を幹に当てた。
「その話し方……! お前、イレモノか!?」
『そう、かも……? でも、違う』
「シャイード、妖精樹の声がわかる?」
一歩近づいたロロディが、シャイードのマントの裾を引いた。シャイードは困惑しながら耳を離した。振り返って頷く。
「妖精樹っつーか、死んだはずのやつの声が聞こえるんだが」
『わたし、死んだ?』
「覚えてねえのか?」
問いかけに返事はない。
「おーい? イレモノ?」
シャイードは両手で軽く幹を叩いたり、耳を当てたり離したり、梢を見上げたりした。
『シア』
再び声が聞こえた。
「しあ?」
『わたし、の、名前。最初の』
「そうなのか。お前、奴隷だっつってたもんな。つーか、勝手に名前まで変えられてたのかよ!」
シャイードの心に、今さらながら彼女の主たちへの憎しみが浮かんだ。眉間に皺が寄り、眼が鋭く細められる。
『ひぅ!』
妖精樹からか細い悲鳴があがった。シャイードからは見えなかったが、数枚の葉がしおれて茶色く変色し、風もないのに散り落ちる。
ローシが慌てて一歩踏み出した。
「こりゃ! 何をしておる!」
地妖精は持っていた杖の頭にシャイードの脇腹を引っかけ、手前に引き寄せた。シャイードはバランスを崩して背後に尻餅をついてしまう。フォスは直前に、ふわりと浮き上がっていた。
「ってーな!! なにすんだ、いきなり!」
シャイードは怒りにまかせて立ち上がった。アルマはその様子を、一歩引いたところから観察している。
シャイードはローシを睨んだが、小柄な地妖精はまったくひるまない。落ちた枯葉を拾い上げ、彼へと突きつけた。
シャイードは気圧されて、顎を僅かに反らせる。今の悲鳴と枯葉は、すぐに結びついた。
「妖精樹に負の感情は御法度じゃぞ。特に、この木はまだか弱いんじゃ」
「そうだよ、シャイード。オイラたち、大事に育てているんだ」
「うっ……」
二人に畳みかけるように言われ、シャイードの怒りは罪悪感に変わる。
彼らはシャイードが燃やした妖精樹を、元に戻そうと手を尽くしてくれているのだ。知らぬこととは言え、その努力を踏みにじるようなことをしてしまった。
シャイードは唇をへの字にし、視線を逸らす。一度、息を吸い込んで吐き出した。
「今のはまあ、俺が悪かった。気がする。……すまん」
シャイードは胸に激しい屈辱を覚えながら、それを理性で押さえつけて謝った。こうするのが正しいと頭ではわかるが、感情は全力で拒んでくる。両手はきつく握られた。
しかし彼はなんとかやってのけた。
ローシはもさもさの眉毛を上下に動かした。
「いや、先に言っておくんじゃったの。わしの思慮も足りんかったわい」
「オイラ、シャイードにわかって貰えて嬉しいよ!」
彼らが次々に言葉を返すと、シャイードの心のもやもやは温水に沈めた氷のように溶けて消えた。
アルマは片手を顎に添えて無言で眺めている。シャイードは小さく息を吐き出した。
(やっちまえば大したことねえのに、どうして謝るのは毎回、難しく感じるんだろうな)
シャイードは一度目を伏せた後、妖精樹に向き直った。両手を摺り合わせてから、恐る恐る幹に触れる。
「悪かったな。イレモ、……シアだっけ?」
『もう平気。シャイードの心、穏やか』
「ああ」
『シャイード、悪くない。わたしのため、怒った。そうでしょ?』
「べ、べつに、そんなんじゃねえけど!」
『ふふっ。つんでれ』
「なんて?」
シャイードは瞬いて、聞き逃した言葉を拾おうとした。しかし、妖精樹は黙ったままだ。ただし今度は、ころころと楽しげな震動が伝わってくる。梢が心地よく揺れていた。
笑っているのだろう。
シャイードはわざとらしく唇をとがらせて鼻息を荒くしたが、今度のはただの照れ隠しだ。
笑いが収まると、妖精樹は改めて『シャイード』と彼の名を呼んだ。
『わたし、あなたに、助けてほしい。お願い、いい?』
「うん? なんだ、水が欲しいとかか? 時間の掛かることなら、今はちょっと難しいぞ」
『ううん。助けてほしいこと、シャイードのやろうとしてることと、同じみち』
「どういう……」
『厄災。封印したいの』
「!!」
『わたし、たぶんそのために、戻ってきた。ちから、ぜんぜんたりない、けど。シャイード、助けてくれれば、たりる。きっと』
妖精樹はシャイードの脳裏に、雪山のイメージを送った。




