エローラ
フロスティアの王宮では、エローラが婚礼衣装を身につけていた。細かい調整を終えたドレスは、メリハリのある彼女の身体にぴったりとフィットしている。
エローラは両手を軽く広げ、その場でターンしてみた。長い裾が、空気をはらんでふわりと踊る。
「まあまあ、姫様。何と可憐なのでしょう。まるで雪割草のようよ」
「ありがとう、ばあや」
エローラは幼い頃から世話をしてくれている、小柄な老女に笑顔を向けた。小さな花にたとえられたことがとても嬉しい。周囲の侍女たちにも次々に褒めそやされ、頭一つ分長身な姫は白い頬を染めた。
ドレスは母から受け継いだもので、所々に雪の結晶の意匠があった。ティアラと一体化したヴェールの端にも、六花が咲き乱れている。
ドレス本体の色は一見して純白だが、一番外側の布はヴェールと同じ透ける素材で出来ており、内部のアイスブルーが光の角度によって美しく浮かび上がった。
冷たく見えてしまいそうな衣装だが、エローラのふわふわとした桃色の髪が氷の雰囲気を緩和している。
彼女の人並み外れた長身と相まって、女神像のようでもあった。
フロスティア王国の前身であるシルヴェン魔法王国は、氷の魔女王が治めた王国だ。
大陸の北方に位置し、土地が痩せて冬の厳しいこの地を、魔女王は霜の巨人を使役して切り開いたという。
彼女は大地に深く穴を穿ち、湧出した温泉を国内にくまなく巡らせた。これは人々を寒さから守ると同時に、建物内での農作物生産を可能にした。また温泉施設には治療院を併設し、病や怪我を癒やすために集まる人々を通して、魔法薬も盛んに研究された。
宮廷魔術師に研究を命じて、多くの産業も興している。中でも有名なのが、洞窟キノコと良質な毛織物だ。
ビオルネー山脈の東側では今でも、洞窟キノコの栽培が行われている。
フロスティアの産業を支える雪山羊も、かつては山脈に棲むどう猛な魔獣だった。魔法王国の時代に、今のような温和な家畜へと改良されたのだ。当時は魔法の織機も発明されて、今よりもずっと多くの毛織物が生産されていたが、厄災による破壊でほぼ全ての織機は失われてしまった。王宮には完全な形で一台だけが残っている。
雪山羊は、蜜のように甘い乳を大量に出す。これはそのまま飲まれたり、発酵させてヨーグルトやチーズ、雪山羊酒になった。
厄災による破壊は、シルヴェン魔法王国の上にも容赦なく吹き荒れた。
彼の王国は長きにわたって氷嵐に閉ざされて孤立した。その中では、全ての魔法が力を失ったという。魔法に頼り切っていた人々に、抗うすべはなかった。
雪はとめどなく降り注ぎ、人々の命の火は日を追う事に消えていった。やがては王国は静寂に支配される。
厄災が封印され、空が数年ぶりに晴れ渡ったとき、そこにはどこまでも続く雪原が残るばかりだった。
滅びた魔法王国の跡地に集まった人々は、洞窟キノコを発見し、山へ逃げて生き延びていた数頭の雪山羊を再び家畜化して、少しずつ文明を取り戻した。
失われてしまったものも多いが、温泉や魔法薬の研究所などは雪の下の遺跡から発掘され、フロスティア王国の発展に寄与している。
扉の外の衛兵が、王の来訪を告げた。侍女たちは一斉に顔と上半身を伏せて身を引く。入室した王は、娘の晴れ姿を見て、灰青の目を細めた。彼女に向かって、両手を持ち上げる。
「何と美しい! お前は亡くなった后に、日に日に似てくるようだ。今さらだが、帝国の坊主にお前をやるのが惜しくなってきたよ」
「ありがとうございます、お父――陛下」
「父様で良い。今はプライベートだ」
エローラは春の木漏れ日のような笑顔で、優雅に腰を折った。髪は母譲りだが、瞳は父王と同じ色だ。
「ですが、私の夫となる方を坊主などと呼ぶのは、これを最後にして下さいませね?」
「おお、すまんすまん」
父王はばつが悪そうに頭を掻いた。民の前では威厳に満ちた王も、愛娘の前ではただの甘い父親になってしまう。
エローラは頷き、遠く南の方角を見遣った。
「アーテマ卿からは、今の皇帝陛下はとても賢明で温和なお方と聞いておりましたが、東部民族の反乱においては、自ら兵を指揮なされて見事な勝利を収めたとか。ですが未だ南方の王国とは、領土の問題を抱えて不穏なようです」
「ああ、うむ」
父王は、娘が婚姻に不安を抱えているのだろうかと心配になり、上目遣いになる。ヒールを履いた今、エローラと中背でがっちりとした父との身長差はさらに広がっていた。
彼女の母、亡くなった后も同じようにいろいろ大きい体型で、嫁いだばかりのころは「霜の巨人族の血を引いているのではないか」と陰口をたたく者もいた。
その者はとっくに雪の下だ。
エローラは父を振り返った。
「けれどもご安心下さいませ。嫁ぐからには全身全霊をもちまして、レムルス陛下をお支えいたしますわ。このフロスティアと帝国の架け橋となり、両国の繁栄に必ずや寄与して参ります」
「よくぞ申した! それでこそ誇り高きフロスティアの王女よ」
父王は娘の言葉に感じ入った。
エローラは口先ばかりの人間ではない。柔らかで慈愛に満ちた雰囲気の内側に、鋼の意志を持ち合わせた淑女だと評価していた。やると言ったら、頑としてやり遂げる。
ただ、それ故に心配もしていた。
皇帝ともなれば、この政略結婚の他に、今後は多くの妻を娶ることだろう。現に前皇帝は公私に渡って多くの妻を持ち、当のレムルスも身分の低い愛人の子だという。
約束を盾に正妻の地位を認めさせることには成功したが、目の前で別の者を愛される苦しみに耐えられるのだろうか。
娘を手放す父として、当然の心配だった。
「だが、もしも」
父王は言いかけて口を噤む。もしも辛ければ帰ってきても良い。そんな風に言ってやりたかったが、王家同士の結婚はそのような簡単なものではない。
絶対にないと思いたいが、万が一、帝国と戦争にでもなれば、娘は敵に回ってしまうのだ。
父王はその想像に身が竦む思いがした。
エローラは父の次の言葉を待った。
しかし続く言葉がないと知ると、優しく微笑んだ。
「何も心配要りませんわ、お父様。わたくしが全て、ちゃんといたしますから」
「うむ……そう願っておる」
「帝都はどんな町なのでしょう。夏がとても長いと聞きましたが」
「ここよりはどこだって、夏がずっと長いと思うぞ。エローラよ」
「ふふっ、そうでした」
エローラは白い手袋を着けた手で、口元を抑えて肩を揺らした。
「温泉はあるのでしょうか。オーロラは見られます? サンドゥイグのお祭りや、ピリカンテの花、翼耳うさぎの群れ……」
エローラの瞳から、ぽろりと滴がこぼれ落ちた。彼女は自分で驚く。
「いやだわ、私ったら。嬉しいことなのに」
「姫様……」
ばあやが涙声で、ハンカチを差し出した。彼女は礼を言ってそれを受け取り、そっと目元に押し当てる。
父王が優しく肩に手を置いた。
「嫁いだとて、縁が切れるわけでもない。架け橋になってくれると言ったであろう? いつでもまた、遊びに来なさい」
「……はい。もう決して、自分のためには泣きません。これが最後です」
エローラは顔を伏せ、身をふるわせた。
翌日、帝都に向けた輿入れの隊列が、厳かにフロスティア王国を南下した。




