雪山にて 2
「雪、というものは、歩き、づらい、ものなのだな」
シャイードを背負って雪山をゆくアルマは、独りごちた。
雪質はさらさらとしている。長衣の裾にべたべたと張り付いてこないのは救いだが、一歩ごとに足が沈むので、移動速度は遅い。
一時間ほど歩いたところで、アルマは飽きた。
最初は雪を踏む感触が面白かったのだが、もうこの情報は充分だと思う。
魔杖かエニシダの箒があれば飛行術が使えるが、持ち合わせがない。真夏でも雪が降る高山なので、周囲には樹木も生えていない。
シャイードが起きていれば、魔導書の姿に戻って彼に運んで貰えば良いが、今のところ目を覚ます様子がない。
(どちらにせよ、あの場所へ向かう方が良いだろうな)
アルマは立ち止まり、空を見上げた。今は晴れているが、風が先ほどよりも強くなっている。天気が崩れるかも知れない。
「あまりぐずぐずはしておれぬ」
彼は呪文の詠唱を始めた。完成したのち、慎重に一歩を踏み出してみる。
「うむ。やはり」
両足が沈まない。
掛けたのは、水上歩行の魔法だ。上手く行くかは分からなかったが、雪も元を正せば水だ。
「これでだいぶ歩きやすくなったぞ」
近くに浮かびながら様子を見守っていたフォスに話しかける。フォスは一度明滅した。
アルマは再び、北を目指して移動を開始する。
昼になる頃に、天候が急激に悪化した。
雪がちらつき始めたと思ったら、あっという間に本降りになり、視界が白く染まった。風はさらに強まっている。
水上歩行の魔法があるので、雪の上を歩くことは出来ていたが、横殴りに吹き付ける雪を防ぐ効果はない。深く被った帽子や身体に、払っても払っても雪が積もる。
アルマは呼吸法を駆使して体温を保っていたのだが、それにも限界があった。身体が動きづらくなってきたのだ。
「肉体というのは実に脆弱でやっかいなものだな」
シャイードは相変わらず目を覚まさない。
「む……?」
そこで気づいた。シャイードの身体は、背負ったときにはいつもよりも熱っぽいくらいだったのだが、今は冷えている。
首の後ろに緩慢な呼吸を感じてはいるが、ドラゴンはあまり寒さに強くないのではないかと思い至った。氷竜というドラゴンもいるが、シャイードは黒竜だ。
「天候が回復するまで、待った方が良いかもしれぬ」
アルマは周囲を見回した。当然、都合良く洞窟などがあるわけはない。
「なければ作るまでのこと」
アルマは風下にあたる山肌に岩を探し、雪を払いのけた。露わになった表面に手を触れて、岩に魔術的な印をつける。それから数メートル離れ、引き寄せの魔法を掛けた。岩はすぐ傍に出現する。
岩が埋まっていた場所は、山肌に穴が開いて丸い空洞になっていた。
出来上がった避難所に、フォスが先に入っていく。アルマも身を屈めて続いた。それでも帽子の先端が折れ曲がる。内部は両手をめいっぱい伸ばすことも叶わぬ程度の、ごく狭い空間だ。だが二人が座っていることは出来る。
シャイードを座らせ、アルマは隣に腰を掛けた。
「扉が欲しいところだな」
丸く開いた入口から、轟轟とうなりを上げて吹きつける雪が見える。風下のため、雪はさほど入ってこないが、寒さは容赦なく忍び込んできた。
アルマは何か応用できそうな魔法がないか考えた。
最初に考えたのは岩壁を生やす魔法だが、この場所で使うと地盤のバランスが崩れて穴が埋まる可能性がある。消費する魔力も大きい。もっと繊細で、ささやかな魔法が必要だ。
「氷で作るのはどうであろうか?」
図書館で情報を食べた一般的な魔導書の中に、水を使って氷の彫刻を作る魔法があった。氷の芸術家イーサン・ハル・クーロなる魔術師の著作だ。
水ならシャイードが持っていたはず、と彼の水袋を探ったが、カチカチに凍っている。それに思ったより残量が少なかった。
「いや」とアルマは考える。「水を氷にするよりも、雪を氷にする方がおそらく容易い」
しかも雪なら周り中にあるのだ。
ふと、ラザロが使っていた集水の魔法を思い出す。微細な水の粒を集め、鍋を満たすあの魔法は、雪の粒を集めるのにも応用できそうだ。
アルマは二つの魔法を元に、術式を組み立ててみた。氷の粒を集め、任意の形に成形する魔法だ。それを自らの本性である魔導書の中に記載して、検証してみる。矛盾はなさそうだ。
早速唱えてみた。
開いていた丸穴の周囲に、雪が次々に集まって圧縮されていく。中心は空気穴として穴のまま残し、避難所の氷の蓋が完成した。
アルマは氷に触れ、できばえに満足する。
「うむ。これならば温かい」
両膝を抱え、くぐもった嵐の音を聞く。甲高い風の音に、微かに獣の遠吠えが混じっていた。
「あれは狼であろうか」
フォスに尋ねるが、光精霊は光量を落としただけだ。そのままふわふわと飛んで、シャイードの両手の間に収まる。
「前から思っていたが、汝はシャイードに随分なついておるな。なぜだ?」
フォスの光量は変化しなかった。
「黙秘権を行使したのか。汝を喰えばわかるのだぞ?」
やはりフォスは反応しない。アルマは鼻を鳴らした。
「はったりは効かぬか」
アルマは両膝をかかえ、その上に顎を載せて氷の蓋ごしに外を見る。そのまま雪嵐が過ぎるのを待った。
風雪が収まったのは夕暮れだ。
アルマは避難所の氷の蓋を蹴破り、外に出てくる。風下とはいえ、数時間のうちに蓋にも少しずつ雪が付着し、外が見えなくなっていた。嵐が通り過ぎたことは音で知った。
雪はまだちらついていたが、進むのに問題はなさそうだ。
山肌から掘り出した岩も、すっぽりと雪にくるまれてなめらかな突起に姿を変えていた。その様子は、帝都の王宮で食べたケーキに似ていたが、夕日のせいで景色は赤みがかっている。
彼は帽子を被り直し、凝り固まった腕や首をぐるぐると回した。
一度穴に戻ってシャイードを背負うと、フォスと共に再び外に出てきた。水上歩行の魔法を掛け、北に向かって歩き始める。
陽が沈んだあとも、フォスの明かりを頼りに雪の上を進んだ。
水上歩行の魔法は切れる度にかけ直していたが、その度に雪に腰まで埋もれた。
魔法は、熟練した術師ならば任意で、その威力や効果時間や効果範囲をアレンジできる。しかし、それにも限度があった。
ゴムを想像してみて欲しい。引っ張ればある程度は伸ばすことが出来る。だが引っ張りすぎると千切れてしまう。
魔法も同じで、ある程度までの効果時間延長は可能だが、本来の効果時間を大幅に超えて延長すると魔法自体が壊れてしまうのだ。
効果時間が一時間の魔法と、一日の魔法は、たとえ同じ効果を持っていても、初めから別の魔法として組み立てる必要がある。
テントとして家を建てるか、コテージとして家を建てるかの違いのようなものだ。
効果時間が一日ある水上歩行の魔法を創出すべきかと考えているとき、また遠吠えが聞こえた。
山々にこだまして、どこから聞こえてくるのかよくわからない。
「このような雪に埋もれた山で、何を食べて生きておるのであろうか」
その疑問の答えを、アルマは数十分後に知ることとなった。




