無貌の男
その小ぶりな兵舎には人の気配がなかった。
この時間なら、兵士たちはまだ練兵場だろう。フォレウスは、そう言えば昼飯を食べ損ねたと上の空で考える。
先ほど、トルドに出たお菓子を掠め取ったが、もうすっかり消化してしまった。
男は入口にほど近い部屋の一つに入っていく。内部はこぢんまりとしていて、寝台と机と椅子が一つずつしかない。狭い部屋だ。
(ここの住人だろうか?)
そうではないような気がした。部屋は空き部屋のようだ。荷物が何もない。
「ああ、扉を閉めて貰えますか?」
フォレウスが内部を見回していると、先に中に入って椅子に腰掛けた相手がいった。フォレウスは頷き、ドアを閉める。
「まあどうぞ?」
謎の男に寝台を勧められる。仕方なく、そこに腰掛けた。相手より、やや目線が下になる。
「お前さん、誰だっけ? 俺の知ってる人?」
フォレウスは腰掛けるなり、両手を挙げて降参した。どうしても記憶にない。
相手は眉尻を下げ、傷心した表情を作った。
「いやだなぁ、忘れてしまったのですか?」
「悪いが、全く記憶になくてな」
フォレウスは肩をすくめる。男は頷いた。
「私は貴方のことを良く存じておりますよ、フォレウス=エル・エステモントさん? 悪名高きエステモント家の長男で、軍へは十六歳で志願して入隊しておりますね? 前皇帝の遠征に従軍し、トーラス公国戦では」
「ストーーップ!!」
フォレウスは両手を突き出した。
「俺のことは良いんだよ。もう知ってるから。聞きたいのはお前さんのことなんだが」
「んっふっふ。私は声なき声の代弁者。顔なし男とでもお呼び下さい?」
「ノーフェイス? って、どこかで……あっ!」
フォレウスは大きく目を見開いた。相手は口元に、立てた指を一本当てている。瞳が面白そうに煌めいていた。
六将の一人であるにもかかわらず、ソノス・ノーフェイスの名は一般に知られていない。それもそのはず。彼は諜報の将なのである。
将とつくからには一軍の長であるはずだが、諜報活動に従事する軍人の数は明らかになっていない。兵舎などもなく、その活動がどこで行われているかは極秘となっている。フォレウスも知らない。
外国に潜伏している者たちも多いだろうし、しれっと通常の兵士に混じっている者の他、一般市民として帝都のあちこちにも散っているだろう。
ソノスがフォレウスを待ち構えることが出来たのも、門番の中に諜報部隊所属の兵がいたからに違いない。
当然、徽章も階級章も嘘っぱちだ。フォレウスは猫背をしゃんと伸ばした。口元も引き締める。
「失礼いたしました」
ソノスは首を振る。
「いやいや、どうぞそのままで? 今日の私はほら、貴方と同格の下士官ですからね?」
「あー、そうぉ? じゃあ、まあ」
フォレウスは猫背に戻った。ぐう、と盛大に腹が鳴る。フォレウスは両手で腹を押さえた。
ソノスが笑う。
「情報通りの、面白い人ですね? エステモントさん?」
「そうぉ?」
フォレウスは嬉しそうな顔で、後頭部に右手を添えた。渾身のギャグも、部下には余り受けないので、自分にはお笑いの才能がないのではないかと少しだけ考え始めたところだ。だが、そうでもないらしい。今の流れの、どこが面白かったのかよくわからなかったが。
「それでもまだ、ヴィヴィさんを笑わせることは出来ませんか?」
フォレウスはこの言葉に凍り付いた。
手を下ろし、瞳を逸らす。
口の中に、苦い味が満ちた。
ヴィヴィはもうじき10歳になるフォレウスの養女だ。数年前、フォレウスは任務で彼女の両親を暗殺した。帝国内にて敵対的な活動を行っていたからだ。
そしてその場面を、予定外に彼女に見られてしまった。以来ヴィヴィは心を閉ざし、全く笑うことがない。
そのような私的なことまで、目の前の相手に知られていることにフォレウスは寒気を覚えた。
ソノスは何事もなかったかのように先を続ける。
「直前のお仕事はクルルカン遺跡での調査でしたよね? その後は、怪我をされて現地で休養されていた?」
「お恥ずかしい。……」
その件についても、余り突っ込まれたくはない。ドラゴンの発見という大きな秘密を胸にしまっていた。フォレウスの瞳が揺れたことにソノスは気がついたが、笑みを貼り付けた表情は動かない。
フォレウスも、瞬時にいつもの仮面をかぶり直した。
「今は一時的に、無所属ですね?」
「あー、うん。あの時のボスは幻惑の魔女様だったんでな。療養の間、無事だった部下は、彼女の直接の指揮下に入って貰ったんだわ」
「それで今日は帰還の報告と、新たな配属先を確認しに来たわけですね?」
フォレウスは頷く。
「なんつーか、俺の部隊は軍でも遊撃隊的に使われることが多かったんだよね。この」と、彼は腿に装備した二挺の魔銃を軽く叩く。「”双牙”は強力すぎて、魔銃部隊の足並みを乱すから。まぁ、今の皇帝はイケイケで戦争するようなお人柄じゃないから、この先はどうなるのか知らんが」
「んっふっふー?」
「な、なんだ?」
ソノスが含み笑いをしたので、フォレウスはややのけぞる。凄く嫌な予感がする。今すぐ逃げた方が良いと、野生の勘が告げていた。
ベッドから腰を浮かせようとしたところ、ソノスが素早く腿の上に片足を乗せてきた。
「流石に察したのでは?」
「……。察しました」
フォレウスは目蓋を瞑り、浮いた腰を落とした。鼻からため息をつく。
「それで? 俺ァなにをすりゃいいんで?」
「多分、貴方が適任だと思うんですよね? エステモントさん?」
続いて、ソノスは未来を予告した。




