扉神の巫女
洞窟内部に、祈りの声が満ちあふれてこだまする。
声と声、言葉と言葉が重なり合い、響き合い、大きなうねりの中に飲み込まれた。我と彼の境は容易く失われる。つなぎあった掌から、誰のものとも知れぬ思考が流れ込み、また流れ出していく。
フロスティア王国の西側を、南北に連なるビオルネー山脈。
その山の一つに、スティグマータたちは集っていた。およそひと月前の新月の晩に帝都から逃亡し、転移門を抜けてきた八十人も合流しており、その数は倍に膨れあがっている。
長時間にわたる発声で声がかれると、彼らは一人、また一人と静かに輪を抜け出て、居住区へと引き下がった。
休憩を終えた者たちは、再び洞窟へ戻り、輪に加わる。
過酷な仕事に慣れているスティグマータたちでなければ、いつ終わるとも知れぬ儀式に心が折れていたかも知れない。
しかしこれは、彼らが救済されるための最後の苦行。最後の贖罪だ。放棄するわけにはいかない。
彼らは互いを励まし合い、気力を振り絞って、心を一つにした。
そのスティグマータを率いるのは、うら若き巫女だ。耳の下で切りそろえた銀の直毛に、赤い瞳をしている。
今は祈りの場を離れ、籠を片腕に携えてキノコを摘んでいた。これこそが、洞窟内に隠れ潜み、祈りを捧げる間の彼らの糧だ。
肉厚で成長が早く、滋養に富んだ無毒のキノコ。元々は輝きの森に自生していた種だが、雪深いシルヴェン魔法王国の魔術師が洞窟へと持ち込み、一年中収穫できるように改良した。
その魔術師の名にちなみ、ゾーリエと呼ばれている。
輝きの森が厄災による歪みの影響で石と化し、白森と呼ばれるようになった今、ゾーリエは洞窟内にしか残っていないかも知れない。
巫女は一つ一つ丁寧に、内壁に生えた白いキノコを摘んでいく。成長が早いとは言え、いまやここには沢山の同胞が集まっている。
ゾーリエはいつまでもってくれるだろうか。
(これだけ同胞を集めたというのに、未だ扉神は現れない)
巫女の心は沈んでいた。
既に厄災を封じた浮島が、その姿を現し始めている。つい先ほども、出現の気配を感じ取った。彼女以外のスティグマータには感じ取ることは出来ないらしい。けれど彼女は、なぜか『わかる』のだ。その気配が厄災の気配であることも、浮島の出現も。
(前よりも気配が近かった気がする。向こうも、扉神の気配を感じたの?)
だとすれば完全復活まで、もう秒読みだろう。
扉神が現れなければ、厄災を元いた場所に還すことは出来ない。再び、千年前の悪夢が繰り返されることになる。
(死して、未だ戻り来ぬ同胞がいるのだろう。春告鳥とその仲間たちに、見つけ出せなかった同胞もいるはずだ。現にシアとも会えていない。刻印が、足りていない? 伝えられてきた祈りの音律も、誤っているのかもしれない)
巫女は籠にキノコを入れ、かじかむ指先に息を吹きかけた。
(しかし、完全に間違いではない、はず。扉神は、祈りに反応している。時間はかかるかもしれない。いつか祈りが満ちるときが来る。――でもそれでは間に合わない)
巫女は――トウという名の少女は、罪の印が刻まれた赤い瞳を目蓋で被った。
心の中で扉神に呼びかける。
(私の命を捧げます。どうか祈りにお応えください。我らの罪を滅ぼす力をお与えください)
しゃがんだ姿勢で、どれくらいそうしていただろう。十分は経っていないはずだ。突然、微かな揺れを感じた。
予兆の揺れはなく、ずしんと揺れてすぐに収まった。
トウは立ち上がる。このところ、地震も頻発している。天変地異の頻発は、厄災の現れる前兆だ。しかし――
(今のは、少し違った?)
トウは急いでキノコを摘み、籠をいっぱいにして、居住区へと向かう。
居住区の食堂兼厨房ではいつものように、大釜でゾーリエのスープが作られていた。ここは火を焚いているためか、他の洞よりも温かい。天井には小さな空気穴があいており、湯気が真っ直ぐに立ち上っていた。穴は斜めに岩盤を貫いて山腹に繋がっているはずだ。
換気穴は洞窟のあちこちにあいていた。洞窟がゾーリエの栽培場だった頃の名残だろう。
今は倒木を簡単に加工しただけのテーブルや椅子が置かれ、何人かが食事をしている。
十人以上が部屋にいたが、衣擦れの音と作業の音以外は聞こえない。スティグマータはみな無口だ。スティグマータと話した者は、不幸を貰うという迷信が根深いため、余計なトラブルを避けるために無口になるのだ。
作業は黙々と、無駄のない動きで進められていた。
休憩中の者たちもいる。背中に毛布を被り、湯気を立てるスープで疲れを癒やしていた。
ゾーリエは美味だ。
それしかなくとも、粗末な食事で育ったスティグマータたちは誰一人文句を言わない。
(今の揺れに、誰も気がつかなかったのだろうか)
トウは近くでキノコを切っていた女に手を伸ばした。相手が振り返る。二人の瞳が空中でぶつかり合った直後、女はすぐに頷いた。
揺れには気づいたが、小さかったしすぐに収まったので、気にしなかったことが伝わってきた。
そこに、毛皮を身につけた壮年男性が走り込んできた。
「巫女、ここにおられましたか」
彼は口にした。その場にいたスティグマータたちが何人か振り返る。そこで初めて、トウが来ていたことに気づいた者もいた。
トウは毛皮の男に身体の正面を向ける。話を聞く、という意思表示だ。
男は目礼し、再び口を開いた。
「先ほどの地震の直後、のぞき穴から外の様子を窺いました。北の山に煙がたなびいているのが見えました」
トウは首を傾げた。男は両手を鳩尾の前で組み合わせ、指を動かす。
「そのぅ、厳密には煙ではないかも知れません。ですが、地上から噴出して広がった白い靄のようなものが、風に流されていくところでして」
トウは頷く。
対応が必要かと目線で問う男に、巫女は考えてから首を振る。
男は安堵したようだった。もしも確認が必要なら、自分が行こうと思っていたのだろう。一礼して去って行く。
トウは鍋の傍でキノコをカットしている少年の隣へ、籠を置いた。目が合った少年は、にっこりと微笑む。
反対側から、湯気の立つスープを差し出された。トウは会釈して受け取り、あいている椅子に移動して腰を掛けた。スープはまだ、飲むには熱すぎる。けれど冷たくなった指先を温めるのには良いあんばいだ。
トウはくゆる湯気を見つめた。
(揺れに前後して、浮島の気配も去っている。あの震動が厄災が起こした何らかの攻撃だったとしても、私たちには何も出来ない。……けれど)
トウの予感はなんとなく、そうではないと告げていた。
(近い未来に、なにか大きなものと運命が重なる、ような)
ついに扉神が現れてくれるのだろうか。トウは心に浮かぶもやもやとした大きな黒い影に、首を傾げた。




