空中戦
先を行くイヴァリス、それを追うシャイード。
その差が、少しずつ縮まっていく。
単純な飛行ならば、シャイードの方が若干速いようだ。
(追いつける!)
シャイードは猛追しながら、口の中の魔導書を舌で奥歯と頬の間に押し込んだ。
本に戻ってしまったアルマは、現世界には何も影響を及ぼせない。その代わり、現世界からも何も影響を受けない。
それはビヨンドである彼の弱みであり、強みでもあった。
眼下の景色は後ろへ吹っ飛んでいく。
森を越え、湖の端をかすめて、荒野を飛ぶ。やがて海へ出た。
こんな時だが、シャイードは開放感を味わっていた。力強く羽ばたく翼。耳元でヒュウヒュウと鳴る風音。雲を切り裂く感触。
その上、追いかける相手よりも速いとわかったのだ。気分が良い。
(もう、手が届く!)
炎は意味がない。
シャイードは上下に揺れるイヴァリスの尻尾を捕らえるべく、口を開いた。
当然、兄が迫っていることに弟も気づいている。
右に左に、身体をぶれさせるが、シャイードはぴったりと張り付いていた。
逃げ切れないと悟ったイヴァリスは上に大きく身体を捻る。シャイードの背中を、上空から狙う気だ。
(させねえ!)
シャイードも同じく、身を捻って彼を追う。地上と空が、大きく転換する。地平線がぐるぐると彼らの周りを回った。
二頭は空中で再びぶつかった。爪でひっかき、噛みつき、尻尾で払う。
やはり、接近戦となるとイヴァリスに主導権を握られてしまう。彼だとて、ドラゴンの姿で戦うことに慣れてはいないだろうが、実戦の経験値が違う、そんな気がした。
「うわっ!!」
今も尻尾で片翼を打ち付けられ、シャイードはバランスを崩した。
イヴァリスは追撃をしてこない。シャイードが姿勢を取り戻し、彼の姿を見つけるまでの間に距離を稼いでいる。
夢中で追跡と接触を続けた。下はとうに海ではなくなっている。
今いる場所は随分と北の地だ。地上には、万年雪を抱いた山脈が連なっている。イヴァリスが急に旋回した。
(何だ?)
変則的な行動が読めなくて、シャイードは反対方向に旋回し、距離を取って飛びながら警戒する。赤竜は戸惑っているように見えた。
視線を上げたシャイードは、浮島が見えなくなっていることに気づく。
現在この上空に、雲はほとんどかかっていない。
月のない暗い空で、七色の光に包まれていた浮島は、どこに行ったのか。
(まだ魔法は、完全には解けていないのか)
とにかく少し安堵する。
イヴァリスは浮島探索を断念すると、シャイードに向けて再び方向転換した。
シャイードも、彼に向けて速度を上げる。
(ここで決着をつける。ここなら人家はなさそうだし、落っことして落ち着かせて)
シャイードはイヴァリスの翼に狙いをつける。すり抜け様に、爪を引っかけて被膜に傷をつけるつもりだ。一度で落とせなくとも、速度さえ殺せれば、そのあと何度でも攻撃を当てられる。
二つの巨影が交差する直前。
イヴァリスは、シャイードに向けてほとんどノーモーションで短く炎を吐いた。
(目くらましのつもりか!? こんなもの)
シャイードは避けることすらしない。狙いは敵の翼。
しかし吹きかけられた熱は、目蓋に張り付いて固まった。
(熱っ!! なぜ炎が張り付く!?)
いや、違う。それは
――溶岩だ。
(しまった!)
イヴァリスはクルターニュ山で倒れた際に、口の中に溶岩を含んでいた。じっくりと熱してどろどろに溶かしたそれを、目くらましではなく目つぶしとして使ったのだ。
シャイードは両目を塞いだ熱い塊を、剥がそうと試みる。それは致命的な隙だ。
翼に激痛が走る。遅れて、骨を折られたとわかった。
さらに蹴りか尻尾か、強烈な一撃が横腹に当たる。
重力が牙を剥いた。
シャイードはなすすべもなく、地上へと落下していった。
◇
その少し前。
痩せ男と小太り男は、クルルカンの埃っぽい通りを千鳥足で歩いていた。つい先ほどまで、行きつけの酒場で夕食をとっていたのだ。料理は美味い、酒も美味い、おまけに看板娘が可愛い気に入りの店で、二人は上機嫌だった。
安アパートの近くまできた時、二人は何かのジョークに笑いながらふと空を見上げた。
北北東の空がやけに明るく思えたのだ。
二人は同時に足を止め、ぽかんとする。外見も性格も正反対の二人だが、その表情だけは兄弟のように似ていた。
痩せ男は自分の目をごしごしと擦り、もう一度、森の向こうに頭だけ突き出ている山を見遣る。
「なあ? マーロン。西ってあっちだっけ?」
「違う気がするぞ、ピップ。それにもうとっくに夜だ。夕陽じゃねえよ?」
「てえことは?」
「てえことは、山が燃えてるんじゃねえか?」
「クルターニュ山が? まさか。上の方にゃ木が生えてなかったはずだぞ」
「じゃあ、……噴火か?」
「噴火!! そういや、最近、大きな地震があったな」
「ああ。あん時はびっくりしたよなぁ。危うく生き埋めになるところだった」
「ほんとほんと……、じゃなくて! 今は噴火の話だろ? どうするよ、おい」
ピップはわたわたと周囲を見回した。まだ宵の口だが、この辺りは町の外れで、住宅しかない。
「広場に戻って、ギルドに知らせるか?」
マーロンはピップが慌てている間にも、山の方を見つめて首を捻っていた。
「噴火かなぁ? 音も何も聞こえないけど。あっ!」
「なんだなんだ、今度は何だ?」
ピップがマーロンの背後に隠れる。マーロンは気にせず、額に片手でひさしをつくって目を凝らした。
「……消えたなぁ?」
「ほんと?」
マーロンが頷き、ピップはその後ろから顔を出す。山は静かになっていた。
二人はしばらく、その場に立ち尽くして山を見つめる。いま見た現象について、一つの可能性に思い至ったが、どちらも口にはしなかった。
◇
海沿いの寒村では、ベッドを抜け出した幼い姉弟が、開いた窓から水平線を見つめていた。
夜釣りをする船の明かりを数えていたのだが、ごうっという大きな風の音を聞いて顔を上げた。
空の星を遮り、黒い大きな影が二つ、猛スピードで北西へ渡っていく。あっという間に小さくなり、見えなくなってしまった。
「あんな大きな鳥、見たことないや!」
弟は興奮して、つい声が大きくなる。「しっ!」と窘められた。背後を振り返ると、母が布団の中で寝返りを打っている。姉弟は固まって、その様子を見つめていたが、それ以上の動きがないことに安堵した。
「ばかね。鳥じゃないわよ。尻尾が長かったもん」
「じゃあなに?」
当然の質問に、姉は答えに詰まった。弟の意見を否定した以上、何か答えないと姉としての沽券に関わる。弟は、姉なら正しい答えをくれるだろうと見つめてくる。
なんだろう。空を飛ぶ、鳥ではない大きな生き物?
一つの答えが、心に浮かぶ。
「あれは……あれは、ドラゴンよ! きっと」
「ドラゴン!?」
弟の目は満月のように丸くなり、姉は満足げに頷いた。
◇
その北西。フロスティア王国では、二つの影はさらに多くの人々に目撃されていた。
影がそこそこ大きな町の上を飛んだためだ。
ただ飛んだだけではない。争う様子を見た者もいる。
今は夜。
幾人かは酒のせいだと思い、幾人かは夢を見たのだと考える。
だが朝になり、他人の口からも噂を聞けば、目撃者もまた――




