邪悪と邪悪
「!?」
「前皇帝は病に倒れたと聞いたが」
息を飲み込んだシャイードに代わり、アルマが問う。イヴァリスは首を振った。
「私の血を飲ませた。ドラゴンは既に滅んでいる。この世に存在しないはずの毒で殺されたのだ。誰にも死因がわからなかった」
シャイードは衝撃を受けた。
確かに。魔女であるメリザンヌですら、ドラゴンの毒について誤った知識しか持たなかった。母が殺されたのは三十三年前のことだが、それ以前に、ドラゴンはもうほとんど見られなくなっていた。それほど遠い存在になっていたのだ。
「だって、お前……。ウェスヴィアはお前にとって、育ての親だろ?」
自分にとってのサレムのようなものだ。
イヴァリスは声に出して笑った。吐き捨てるような笑いだ。
「親だと? あいつが親!? いくら兄さんでも聞き捨てならぬ。卵の割れ目からあいつの瞳を見たその瞬間から、ずっと敵だと思っていた。兄さんなら、褒めてくれると思ったが」
イヴァリスは瞳を逸らさずに、ゆるゆると首を振った。
シャイードは何も言わずにその瞳を真っ向から受け止め、やがて視線を落とした。砂を握る。
――かつて。
ほんの数ヶ月前のシャイードは確かに、その手で前皇帝を殺す気だった。勝手に死んだことを耳にしたとき、やり場のない憎しみに狂いそうになった。
それを弟が成し遂げてくれたというのなら、本来は喜ぶべきなのだろう。
だが……。
幾つかの顔を思い出し、シャイードは胸に激しい痛みを覚えた。首を振る。
(コイツは俺だ。ほんの少し前までの)
シャイードは顔を上げた。弟はまだ、兄を真っ直ぐに見つめている。
「それで? お前の気は済んだのか? ウェスヴィアを殺して、母や兄弟の仇を討って、お前の気持ちは晴れたか?」
「……」
低い声での問いに、イヴァリスは沈黙した。シャイードには、聞かずとも答えがわかっている。
金髪の魔術師グレッセンを爪に掛けて殺したとき、……初めて人間の命を奪ったとき、シャイードが覚えたのは満足ではなかった。
満たされない。
足りない。
もっと殺戮したい。
さらなる犠牲を求めて心を突き動かす、黒い衝動だ。
「必要な、ことだ。兄さん。ウェスヴィアはそうでなくても殺さなくてはいけなかった」
「そうでなくても?」
シャイードが口にし、アルマも片眉を上げる。
イヴァリスは、僅かに目を細めた。
シャイードはそこに、弟の苦悩を見て取る。だがそれも一瞬で、彼の表情は仮面のように硬く冷えた。
「あの男は、千年前の英雄達ができなかったことを、自ら成し遂げようとしていた。再び異界への門を開き、厄災をあるべき世界へと還そうとしていた」
「なん……だと……」
シャイードは息のしかたを忘れた。頭を、巨大な木槌で殴られた気分だ。
「あの男は、正しく英雄だったのだ、兄さん。人間の分際で、世界を救おうとした。そのために王になった。そのためにスティグマータを探した。そのために自らを半神だと騙った。そのために版図を広げ、より多くの人間を集めようとした」
「嘘だ……。そんなこと、あるはずが!」
もしもそれが本当ならば。
最も憎い敵であった人間が、生きていれば手を取り合える仲間だったことになる。
けれど、もしもイヴァリスが彼を殺していなければ、シャイードは自ら手を下していただろう。
シャイードは両手で頭を抱えた。頭が割れるように痛い。吐き気が酷い。
彼は両足を胸に引き寄せて丸まった。
信じられない。信じたくない。
母を殺した憎い敵は、残虐で、冷酷で、無慈悲で、どうしようもない外道で、死んでしかるべき人間であるはずだった。そうでなければならなかった。
それが、全くの幻想などと、信じたくなかった。
背中に手が触れた。
顔を上げると、イヴァリスだ。
彼の表情は再び、兄を気遣う弟のものになっていた。
「けれど、奴がドラゴンの敵であることに変わりはない。王になるために、英雄になるために、半神と信じさせるために、奴は母を殺した。最後のドラゴンを。卵だった兄弟を殺して、ドラゴンを根絶やしにしようとした。だが、生き残った私と目が合ったとき、奴は急に考えを変えたのだ。『ドラゴンにはまだ利用価値がある』と」
「うそだ……」
「人間とドラゴンは、どのみち相容れないのだ、兄さん。ウェスヴィアの守ろうとした世界に、私たちの居場所はない。奴にとってドラゴンは、利用するだけの存在。邪魔になれば、枝葉を打ち払うように首をはねるだけだ。だから同じ目標を掲げながら、サレムと決別してしまったのだ。サレムは兄さんの卵を、ドラゴンの最後の希望を、なんとしてもウェスヴィアに渡したくなかったのだろう」
「希望、か」
アルマが右側から冷静に繰り返した。シャイードは務めてゆっくりと深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。
信じていた世界が足元から揺らいで、心許ない。
だがサレムが注いでくれた愛情と信頼だけは、きっと本物だ。そのサレムが、自分に世界を託した。魔導書を託して、共に厄災を退けて欲しいと願っているのだ。
例えその結果が、ドラゴンの世の終焉であろうとも、やらなくてはならない。育みの恩に応えなくてはならない。
シャイードはぎゅっと目蓋を瞑り、開く。
弟の赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ウェスヴィア亡きあとも、帝国に残り、辺境を守ったのはなぜだ?」
「もはや問わずともわかっているのでは? 身の内を苛む怒りを満たすため――人間を一人でも多く、この手で殺すためだ。敵も、味方も。ドラゴンとして同じ事をすれば、人は私を憎んだだろう。しかし人として行った私を、彼らは英雄と呼んだ」
「お前を苛むのは、”怒り”か。お前は、長い時間をニンゲンと過ごして、彼らに何も感じなかったのか……?」
この問いの答えに、イヴァリスは黙した。瞳が揺れている。彼は視線を落とした。
「兄さん。確かに人は、一人一人は概ね善良なのだと思う。道で見知らぬ老人が転べば、傍にいる者たちは素早く駆け寄って、助力を惜しまなかった。そんな場面を、私は何度も目にした。助け合い、平和を望み、変わらぬ日常を願い、自らの夢と小さな幸せと、愛するもののために戦う強さを持っている。
けれど、ひとたび集団になればその性は邪悪だ。多数派というだけで彼らの自我は肥大化し、尊大になり、属する集団が掲げる正義を盲信する。確かならざる情報に容易く踊らされ、対立するもの、考えの違うもの、少数派、異端者、それらを攻撃し、徹底的に排除し、邪悪な信念を強めていく。彼らは正義だと嘯いて悪事を成す」
イヴァリスは拳を握りしめた。
「その邪悪さが、ドラゴンという美しい生き物を滅ぼしたのだ! どうして許せる?」
「邪悪なのは俺たちも同じだ。ドラゴンは美しいばかりの生き物じゃない。お前こそ、自らの正義を盲信する余り、事実を歪めているんじゃないか?」
「それならそれでもいい。ドラゴンが邪悪だというのなら、そうあればいい」
彼は右手を伸ばし、兄の左手に重ねた。
「兄さん。私と共に厄災の力を手に入れよう。それで人間たちを滅ぼそう」
シャイードは、弟の赤い瞳が怒りに燃え上がるのを見た。
「滅ぼすだと!? お前、何を考えているんだよ!」
シャイードは重ねられた手を撥ね除ける。イヴァリスは眉根を寄せた。
「兄さんは滅ぼしたくないのか、人間を。奴らは私たち種族の仇だ」
「それはっ」
シャイードは戸惑う。後半を否定は出来ない。
アルマが右腕をすっと持ち上げた。イヴァリスを指さしている。
「厄災の力は、ドラゴン如きがどうこうできるものではない。でなければ、千年前に滅ぼされておったはずだ」
この言葉は、シャイードに刺さった。わかってはいたものの、アルマにそう思われていたことを知るのは辛い。
人間たちに滅ぼせなくても、ドラゴンになら滅ぼせるかも知れないと、信じていて欲しかった。
イヴァリスは、そんなシャイードの内心になど気づくはずもなく、続ける。
「手に入れるのが難しいなら、ただ解放するだけでもいい。勝手に人間を、世界を滅ぼしてくれる」
「そのために、世界が滅んでも、いいっていうのか……」
シャイードは呆然として呟いた。
イヴァリスは瞳を横に動かし、自嘲する。
「それはそうだろう。ドラゴンは滅んでしまった。最後に、兄さんだけは生き残っていたと知れて嬉しいが、私たちだけではどうにもならない。それならば、世界が滅んだって同じ事だ」
「馬鹿言うな! お前、そんな……簡単に世界とか! どれだけ沢山の命があると思っているんだ! 現世界だけじゃない。妖精界だって」
「人間に復讐できるならどうでもいい」
シャイードは砂地を叩いた。砂がはじけ飛ぶ。フォスがびっくりして飛び上がった。
「駄目だ。俺が許さない」
「……」
イヴァリスは俯いた。次に口を開いたとき、声が一段低いものになっている。
「兄さんなら、わかってくれると思ったが」
イヴァリスの声が急速に冷えた。
シャイードは半眼になる。
「俺を兄と呼ぶのなら、お前の方こそ俺に従え。俺はドラゴンが滅びたなどと、信じていない。お前がドラゴンであったことにすら、気づかなかったんだ。今や確信している。ドラゴンは、生き残っている。俺はドラゴンを滅亡させない。それが俺の望みだ! そのために世界を救わなくてはいけないのなら、ついでに救ってやる」
「……。私の邪魔をするのだな、兄さん」
「違う! お前が俺の邪魔をしている!」
二人は同時に立ち上がった。間近でにらみ合う。フォスが素早く浮かび上がり、間に入ってシャイードを押した。びくともしない。続いて、イヴァリスを押す。
アルマが立ち上がり、フォスに手を伸ばして引き寄せた。
「よせ。こうなってはもう、我らには止められぬ」
フォスはアルマの指の籠の中で、なんどもなんども明滅する。だめ、だめ、だめ、と必死で否定しているようだ。
その小さな意志は、ドラゴンの兄弟に届かない。
彼らはどちらからともなく洞窟を出て行った。




