妙手
レムルスはぼやけた視界を調整しようと目を瞬いた。執務室に籠もってから、もう何時間も経過している。その間、彼はずっと書類と格闘していた。
書類は通常の決裁の他、東と南の戦費に関わるものや、先日の地震による被害報告など、追加のものが膨大だ。帝都を離れていた分、溜まりに溜まっている。
頭の芯がずきずきする。気づけば首や肩も岩のように固まっていた。
「陛下。座りっぱなしは、お身体に触ります」
クィッドが控えめに、けれども心配そうに声を掛けた。
レムルスは「そうだね」と同意して、椅子から立ち上がった。組み合わせた両手を頭上でひっくり返し、大きく伸びをする。
「ふうっ! シャイードは起きたかな? 様子を見てから大分経つし、また見てこようかな?」
首を左右に倒し、肩を軽く回したところで、ノックの音が響いた。ため息と共に返事をすると、現れたのは書類を持った文官ではなく、宰相のナナウスだ。
「陛下。お疲れですか?」
ナナウスは爬虫類めいた顔に、僅かに笑みを浮かべて問う。口調は優しいのに、顔はちょっと怖い。
レムルスは蛇に睨まれた蛙の気分で、慌てて椅子を引く。
「今、続きをやろうとしていたところだよ。すぐに」
「責めてはおりません。むしろ、少し休まれた方がよろしいかと」
ナナウスは一重まぶたを半眼にして、じっと見つめてきた。怖い。
「そ、そうか。ではそうさせて貰おう」
引いた椅子から手を離し、レムルスは座るべきか立っているべきか迷って立ち尽くした。
ナナウスはレムルスに瞳を向けたまま黙っている。
気まずい時間が流れた後、レムルスは片手を前に突き出した。
「お前が気になって、あまり気が休まらない。何の用だったんだ?」
側近たちしかいないこの場では、レムルスは素に近い喋り方で会話をした。
ナナウスは後ろに組んでいた両手をほどき、胸に片手を当てた。
「では、ご報告を先にさせていただきます。フロスティアへ外交に出ていたアーテマ卿が、先ほど戻られました。陛下に謁見を申し込んでおります」
「ああ、ヴァルキリー隊か。あれっ? フロスティアってことは」
「はい。例のお話を詰めておりました」
レムルスは途端に、気持ちが重くなった。
「やっぱり。僕にはまだ早いと思うんだけど」
「そのようなことは決して」
ナナウスは真顔で首を振る。そして一礼した。
「おめでとうございます、陛下」
「うん……」
例の話というのは、婚姻のことだ。
レムルスには、帝国の北にあるフロスティア王国に婚約者がいる。第一王女のエローラだ。
彼女はレムルスより十ほども年上なのだが、それもそのはず、元々は皇位継承権がもっと上の、兄の婚約者だった。
当事者が亡くなり、レムルスが皇位を継いだ折り、フロスティアの国王が懇願してきたのである。
「第一王女は貴国の都合で婚姻を待ち、結果、婚期を逃してしまった。前皇帝の約束を、なにとぞ誠実に履行されたし」と。
ちなみにレムルスは、まだ一度も彼女に会ったことがない。
姫の人となりは、貞淑で花のように美しく、気立てが良く、包容力のある女性とのこと。熱心な慈善活動を行っており、国民の人気はとても高い。伝え聞く言動はまさしく聖女のごとしであったが、どこまで信じて良いのかわからない。
だが問題はそこではない。
レムルスは、自分の方に問題があると考えていた。
「陛下。考えようによっては、これは好機です」
ナナウスの言葉に、レムルスは黙考から引き戻された。
「というと?」
宰相は、ゆっくりと一度瞬きする間をおき、口を開く。
「お耳に届いていることと思いますが、このところ凶事が度重なり、民の間に不安が広がっております」
レムルスは深いため息をついた。
「ソノスからも報告が来ている。一部の奴隷たちの間で、不満が高まっているとか。確かに、このところ色々ありすぎた」
「はい。それに一段落したとはいえ、ミスドラの動きも不透明です。人心を落ち着け、ミスドラへの牽制となる一手。それが、フロスティアの姫との婚姻なのです」
「なるほど……」
レムルスは片手を顎に添え、頷いた。
「婚礼ともなれば、大きな祭りになる。経済が潤い、人々の気持ちが前向きになるな。フロスティアは寒冷だが国土が広く、兵は粘り強いと聞く。南と事を構えるにせよ、回避するにせよ、北との同盟を盤石にするに越したことはない」
「おっしゃる通り。それにどのみち婚姻は、帝国の統治を安定させるために、避けては通れぬ道です」
「うん。頭ではちゃんとわかっているよ、ナナウス。覚悟が出来ているかは疑問だけれど」
レムルスはクィッドを振り返った。
彼はまじめくさって前を向き、微動だにしていない。
クィッドにもどう思うか聞いてみたかったけれど、宰相を前にしていては、答えて貰えない気がした。
諦めてナナウスに向き直る。
「ファティマ・アーテマと会おう。準備が出来たら呼んでくれ」
「かしこまりました」
ナナウスは一礼して立ち去っていく。
◇
レムルスが謁見の前に到着すると、ファティマは玉座の前に片膝をついた。背後に部下を数名、従えている。
玉座についたレムルスは、「面を上げよ」と命じた。ファティマが立ち上がり、顔を上げる。部下達も続いた。
”才媛”ファティマ・アーテマは六将の一人で、二十代後半の女性だ。しかしその姿は一見して、美青年にも見えた。
すらりと背が高く、身体にぴったりと合った軍服を身につけている。金髪を短く切りそろえ、瞳は青緑色。同色のハーフマントを纏っていた。芯が強く、取り巻く雰囲気はどこか氷を思わせる。腰には細身の剣を佩く。帝国でも数少ない魔法剣士で、愛剣は精霊銀製だった。
彼女は帝国貴族の子女だが、若くして就いたその高い地位は、前皇帝に実力を認められてのものだ。非常な努力家で、自分にも部下にも厳しいが、弱者には寛大だという。
彼女に従うヴァルキリー隊は、そのほぼ全員が女性だった。ごく少数の例外さえも、心は女性という者たちだ。それというのも、ファティマの唯一の弱点が、男性嫌いということなのだ。
女性は軍の中では立場が弱くなりがちだが、結成当初はともかく、今では彼女や彼女の部隊を馬鹿にする者は一人もいない。理由は単純。
――精兵揃いだからだ。
その彼女の表情が、ふわりと優しい雰囲気に変わった。
「早々に謁見の機会を賜り、心より感謝いたします。陛下」
「うむ。遠方への外交任務、ご苦労であった」
「敬愛する皇帝陛下に、喜ばしき成果をお伝えする栄誉を、指折り数える帰途でありました」
レムルスは無言で頷いた。
ファティマは男性嫌いであるが、子どもはその範疇に入らない。レムルスへ向けられる優しい瞳も、彼を子どもとカテゴライズしてのものだ。
レムルスにはそれがわかっており、複雑な気分だった。
いずれ自分に向けられる瞳から、あの穏やかさは失われてしまうのかも知れない。けれど、早く一人前の男として認められたい気持ちもある。例え嫌われたとしても。
(いや、嫌われるのは嫌だな……。ユリアの姿なら、いつまでも好きでいて貰えるのかな……)
レムルスは半分上の空で、残りの半分で彼女の報告を聞く。
フロスティアも今は夏で、西の山脈以外は雪もなく、過ごしやすい時期だということ。
エローラは噂通り美しく優しい、素晴らしい女性であったということ。
婚礼についての話し合いも概ね合意に達しており、後は皇帝陛下自身の決断を待つのみだということ。
「私といたしましても、このめでたき巡り合わせが、一日も早く結実することを願うばかりです」
「うむ。そのことなのだが、ファティマ。余はこの婚姻を、すぐにでも行うべきと考えている」
「なんと!」
この答えは意外だったようだ。ファティマは驚き、すぐに微笑んだ。彼女は胸の前で手を重ね、深々と一礼した。
「流石でございます、我が君」
「うむ」
彼女は多くを語らなかったが、その態度に称賛が宿っていた。留守にしていても、帝都の状況は伝え聞いていたのだろう。
彼女はおそらく、このタイミングでの婚姻の効果を誰よりも理解している。
それを年若き皇帝と共有できたことを、喜んだのだ。
「そなたに指揮を一任する。必要な人材を、どこからでも好きなだけ引き抜いて良い。早々に詳細を詰めてくれ」
「光栄にございます。このファティマ、帝国のために尽力いたします」
「頼んだぞ」




