重たい目覚め
【第四部あらすじ】
冥界と現世界を隔てる世界膜が破れ、帝都の地下や西の湿地帯に死霊の群れが溢れ出した。
しかし帝国はすでに南と東に問題を抱えており、西に兵力を割けない状態であった。
事態を重く見たシャイードとアルマは、西の森から使者として来た二人のエルフと、魔術の将ラザロと共に湿地帯に向かう。
途中、死霊の襲撃を受けた村で骸狩り神官のディアヌを迎えるものの、エルフの一人、キールスをビヨンドに奪われてしまう。
一行はぎくしゃくしながら冥界へと足を踏み入れた。
帝都の南の海上で、或いは東の戦場で人が死に、湿地帯の死霊は数を増していく。
さらにはシャイードまでもが死の魔法に倒れ、アルマは不調に陥ってしまう。
ラザロの魔術によって一時的に死を保留したシャイードだが、復活のためには”死王の指輪”が必要だった。
多大な犠牲を払いながらも事態を解決し、現世界に戻ってきた二人の目前に、とうとう浮島が姿を現した。
厄災を封じた千年前の魔法が、ほとんど消えかかっている。アルマの説明を聞きながら、シャイードは身体に異変を感じ、倒れてしまった――
果たして竜と魔導書のコンビは、厄災の復活を食い止め、世界を救うことが出来るのか。
いつも同じ夢を見る。
薄暗がりの、薄明かりの、ぬくぬくとした温かさの、穏やかな日々の――、
――終わりが来る夢だ。
知らない音が外殻を通して伝わってくる。母のものではない複数の鳴き声。
嫌な声だ。ガサガサとしていて尖っていて、周囲にあるものを突き刺し、跳ね返って互いを突き刺す。
無力な自分はただ、身を縮こませた。
かあさん。
なにかへんだよ。
伝えようとしたけれど、母は傍にいないようだった。なんて間が悪いのだろう。
きょうだいたちも、異変に気づいていた。
困惑と怯えと母を呼ぶ思念が伝わってくる。
悲鳴が混じった。
そして、気配が消えた。
ひとつ、またひとつ、またひとつ――
在ったもの、在るはずのもの、在るであろうものが、虚無へと帰す。
それは、初めからないのとは違う。ひどく、違う。
何も持っていないと思っていたのに、亡くしてみて初めて感じた。喪失感。
きょうだいを、奪われた。
とうとう自分の番がやってきた。
まだその時ではないのに、衝撃が、殻を破る。
閉じた世界に唐突に、現実が押し入ってきた。鋭い光と、死の臭い。
こんなはずではなかった。こんな始まりは望んでいなかった。こんな終わりも。
嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ!
破れた殻の隙間から、二つ並んだ目がのぞく。
内側からのぞき返した。
他のことは認識できない。ただ、その目だけを認識した。
こいつのせいだ。
こんなことになったのは、こいつのせい。
直感が告げた。そしてそれは正しい。
恐怖は後退した。代わりに、心に炎が宿る。
こいつは敵だ。
自分の敵だ。自分たちの敵だ。きょうだいたちの、母の、みんなの。
初めて見る世界は、怒りで赤く縁取られていた。
自分は――わたしは、哭いた。
◇
目蓋を開いたとき、最初に見えたのは白い顔の中にある二つの黒い瞳だ。
(……母さん)
霞の掛かった頭で、ぼんやりと輪郭をなぞる。僅かな歪みも誤りもない完璧な曲線を、月光をくしけずった長い髪が縁取る。
黒い瞳には光がない。
近づけば、あらゆるものを吸い込んで離さない、真の暗黒がそこにあった。
(母さんじゃない)
「起きたのか? シャイード」
顔のすぐ傍で、白いものが揺れた。手だ。彼の身体に繋がっている。銀糸の装飾と縁取りのある黒い長衣に。
「アルマ……」
幾ら寝ぼけたにせよ、アルマを母と間違えるとはあんまりだ。そんなことは、今までに一度もなかった。シャイードは額に右手を載せた。
何か夢を見ていた気がするのだが、忘れてしまった。精神的に疲れている。余り良い夢ではなかったのだろう。
次第に頭がはっきりしてくると、現実が周囲を取り巻いた。
跳ね起きる。アルマが身をひいた。布団の上に乗っかっていたフォスが、ころころと転がり落ちてふわりと浮いた。
「今日は何日だ?」
「海風の月、第七の日。もう夕方だ」
「俺、そんなに!?」
思ったよりも日にちが経っている。言葉は不完全だったが、アルマは主の誤解に気づき、首を振った。
「汝が眠っていたのは二日ちょっとだ。日付が進んでいるのは、冥界にいる間に、時間が経過したせいだ」
「そうなのか」
シャイードは幾分安堵し、息を吐き出した。見下ろすと、ゆったりとした生成りの貫頭衣を身につけている。簡素だが、質の良い布地だ。
心臓が跳ねた。鍵……!
それは胸元にちゃんとあった。
「安心するが良い。我が着替えさせた。他の者は見ていない」
「そ、そうか」
頭に手をやると、帽子をかぶせられていた。ナイトキャップのようだが、言葉通りなら角を見られることもなかったのだろう。
部屋はこぢんまりとした正方形で、絨毯の色や柱の装飾に見覚えがあった。
布団もやけに心地よい。最高級の羽布団に、清潔なシーツ。シャイードは上掛けを引っ張って匂いを嗅ぎ、「帝都の王宮?」と呟いた。
「正解だ。気を失った汝と馬とをどうするか思案していたところ、旧都から出てきた騎士たちに保護された。そこでレムルスと合流し、あやつの隊と共に帝都に戻ってきたのが今日だ」
アルマはシャイードの額に手を伸ばした。
シャイードは反射的に目を瞑る。
「熱があるな」
「ああ。自分でも感じる。どうも風邪を引いたらしい」
「これは風邪なのか?」
「たぶん……。引いた覚えがないから知らんが」
シャイードは自信がなさそうに言う。引き上げ屋時代、同業の人間が風邪について語るのを聞いたことがある。熱っぽくてだるくなり、咳が出たり鼻水が出たりするらしい。
今の自分に咳や鼻水の症状はないが、熱っぽくてだるいのは当てはまる。
ドラゴンが風邪を引くことがあるのかはわからないが。
「ニンゲンは、空腹と疲労と寝不足が揃うと、風邪を引くらしい。俺も全部重なっていたからな」
「その上、汝は死んでもいたからな」
アルマの言葉と、シャイードの腹の虫が鳴る音が重なった。
「まあ、俺の場合はメシさえ喰えば、大抵の不調は治る」
「そうか。汝が起きたことを伝えれば、レムルスが用意してくれよう。あやつも心配しておったぞ」
「アイツが?」
シャイードは意外そうに瞬いた。アルマは頷く。
「忙しい公務の合間を縫って、何度か様子を見に来た」
「そう、なのか」
シャイードは手元に視線を落とした。目元は和らぐが、心はチクチクと痛んだ。
アルマが部屋の扉から外に何かを伝えると、しばらくして食事が運ばれてきた。
ベッドの上にテーブルが置かれ、クロスが掛けられる。わくわくするシャイードの目の前に、湯気を立てるプレートが置かれた。
ミルク粥だ。蜂蜜が別添えになっている。それと、野菜のジュース。
「えっ、これだけ?」
シャイードは愕然とした。給仕に向けた瞳に、絶望が満ちていたのだろう。お仕着せ姿の女性は、笑みを堪えていた。
勝手に口を利くことは許されていないようだ。シャイードの問いに答えはなかったが、眉尻を下げた瞳がそうだと語っている。
「我が汝を、病気だと言ってしまったのだ。現にずっと眠っていたしな。……元気になれば、沢山出して貰えるであろう」
「うう……。だから喰わねえとその元気もでないっつーの」
シャイードは匙を手に、しおれた表情で粥をつついた。
アルマが、猫背ぎみになっていた主の背を叩く。
「あとで我の食事をわけてやる。とりあえず、喰っておくのだ」
「うーーー……。にく」
「わかった、わかった」
シャイードはしぶしぶミルク粥を口に運んだ。




