ヨルの祈り
どれほど深く下ったころか。螺旋階段は、小部屋で行き止まった。目の前に扉がある。
シャーク船長は、迷いなくその扉を押し開いた。
その途端、内部から明るい光が零れ出す。
海賊は戸口で立ち止まり、まぶしさに目を細めた。室内に入っていく。
ディアヌは警戒しつつ、彼に続いた。
一瞬、彼女は海の中に入ったように錯覚する。
直径十メートルほどのドーム状の空間だった。
床も壁も、先の小部屋までは加工された石で出来ていたが、ドーム内は削りだしただけの天然の岩だ。
その壁全体に、水の模様が浮かび上がり、揺らいでいた。
それもそのはず。
中央に直径二メートルあまりの水の球体が浮かんでいるのだ。
いや、一見は水に見えるが、水かどうかはわからない。透明なガラスに閉じ込められた煙のようでもあり、どこかから投影された幻のようでもある。球体は明るく輝いており、その色は万色にゆっくりと移り変わっていた。
「これは一体……」
ディアヌは驚異に打たれ、水球に視線を釘付けにして進み出た。
風もないのに、表面が揺れている。同心円状の輪が幾つも広がったかと思えば、海のようにさざ波立つ。内部では、空気の泡が踊っていた。
見つめていると、いつかどこかで見た風景が脳裏に蘇ってくるような気がする……
「出口だ」
「出口? これが?」
ディアヌのオウム返しに、海賊は頷いた。彼の顔の上でも、水の縞が揺らいでいる。死霊はその太い右腕を、水球に翳した。触れようとして、ためらう。
「これは扉。この世界の、その先へのだ」
「どうして知っているのですか?」
「だから、知るわけがねえっての」
海賊は眉を持ち上げ、口をへの字にした。
「言っただろ。ただ『わかる』んだ」
海賊は彼女を振り向いた。
「てめえには何も感じられねえのか? 冥界神の声とか」
「……」
ディアヌは黙し、耳を澄ませてみた。何も聞こえない。彼女は目を閉じ、首を振る。
「おめえはどうだ?」
海賊は明後日の方向を見遣った。
その言葉にディアヌは目蓋を開き、海賊の視線の先を追った。誰もいない――、いや。
何かがぼうっと姿を現した。
空に浮いた、半透明の姿。草木染めのマントと衣服を纏った、プラチナブロンドの青年は、沈んだ表情をしていた。
「き、キールスさん? いたんですか!?」
「先にここに来ていたようだぜ。なにか未練でもあるのか? エルフの姉、じゃなくて兄ちゃんか?」
『……』
「じゃあ、もじもじしてねえで、早く行けよ」
『……』
「誰だそりゃ? ああ、もしかしてさっきのエルフの兄ちゃんか」
「イールグンドさん? イールグンドさんがどうかしましたか?」
キールスは何かを話しているようだが、ディアヌには聞こえない。攻撃的な幽霊の叫びやうめき声は聞こえることもあるが、キールスは静かだ。それにその姿もごくごく薄く、辛うじて見える程度。
キールスはディアヌを見た。愁いを帯びた表情だ。
『……』
「それは無理なんじゃねえか? てめえだって、生まれてくる前のことは覚えちゃいなかっただろ?」
(そうか。この門を通ると、記憶を失ってしまうんだ)
二人のやりとりを見ていたディアヌは、海賊の言葉から推測する。
冥界神ヨルは、死者の記憶を奪うと教えられていた。魂から重荷を剥ぎ、輪廻の流れに戻す。そうでなければ人も動物も魔物も、記憶や罪の重さで溺れてしまうからだ。記憶の剥奪は、ヨルの恩寵であり、慈悲である。
キールスはラザロとイールグンドの葬送を受けて、ここまで辿りつくことが出来た。次の世界へ行くためには、この光の水球を通る必要があるが、そうすると記憶を失うことが『わかった』。
それで彼はためらっていたのだろう。
「おいおい。前世への執着が酷いと、この世界から出られなくなるぜ? わかってるだろ?」
『……』
キールスは俯いた。辛そうだ。
ディアヌは戦棍から手を離し、胸に握った拳を寄せた。
(死にゆく者の心に平穏をもたらすことこそ、冥界神の神官たる者の務め。彼を迷わせてはいけない)
唇を引き結ぶ。
(でもどうすれば、大切な記憶を手放させることが出来るんだろう?)
揺らぐ水球を見上げた。
キールスを笑顔で見送ろうとしたイールグンドの勇気を、高潔さを、無にしてはいけない。
(慈悲深きヨルよ……! どうかお導き下さい。奇跡をお恵み下さい。彼の心に安らぎをもたらすために私は、どんな言葉を送れば良いのですか?)
彼女はヨルを讃える印を切り、水球を見つめた。
水球は穏やかに光り、静かに波立つ。
ゆったりと色を変え、優しく揺らぐ。
ディアヌは必死で祈りを捧げた。
やがて水球の光が、みずみずしい新緑の色に変わった。重なり合う葉の間からまだらに降り注ぐ、それは木漏れ日だ。
森。
美しい森の風景。
水の泡がその映像を乱し、新たな景色が生まれる。
窓際に座って、外を見つめる一人のエルフの姿。ゆったりと裾の長い白ローブを身につけている。真っ直ぐなプラチナブロンドが、風に揺れた。
振り返った顔は、目蓋が閉じられたままだった。どことなくキールスに似ている。しかし女性のようだ。
彼女は微笑みを浮かべていた。愛しい人に、名前を呼ばれたのかも知れない。
細かい泡が幾つも乱れ飛び、風景をかき消した。
(今のは……?)
ディアヌがもっと何かないかと、水球の中に瞳を泳がせていると、視界の端で動きがあった。
キールスだ。
『……!』
驚いた表情をしている。今にも水球に手を触れそうだ。
「キールスさん! 彼女を知っているんですね?」
キールスは頷いた。
『……』
「姉だと言ってるぜ? 何か関係があんのか?」
「もしかしたら……。いえ、きっとそう!」
ディアヌはキールスに向き直った。
「キールスさん。残念ですが貴方は、記憶を失うでしょう。けれど今、冥界神は引き替えに希望をお示し下さったのです。貴方が新たな、……愛しい記憶を紡いでいく世界について」
ディアヌはベルトポーチの蓋を外し、一番上にちょこんと乗った小さな緑の葉を取り出した。Y字の形をした、ヤドリギの枝葉だ。
それをキールスに差し出す。
「冥界を訪れる英雄が、無事に地上に戻れるように、ヤドリギを持っていったという伝説があります。これを貴方に。貴方の森のヤドリギですから、きっと道標になってくれるでしょう」
キールスはヤドリギに手を伸ばした。
ヤドリギが光り、ディアヌの指を離れる。キールスはそれを、両手を椀にして受け取り、胸にそっと押し当てた。
『……』
彼は穏やかな顔でディアヌに言った。そして水球を見つめたあと、意を決して飛び込んでいく。
水球が泡立ち、輝き、彼も光の泡になった。
今のは、聞こえなくても何と言ったのかわかる。彼の言葉が、ディアヌの胸をぎゅっと締め付けた。
唇が歪む。視界も歪む。
瞳が水の膜に覆われた。
ふと思う。出口は、扉は、水球は、水ではなく涙で出来ているのではないか。
去りゆく者の涙、残される者たちの涙、そして……輪廻の先で、愛し子を迎える喜びの涙。
ディアヌはヨルの恩寵が、身を包み込むのを感じた。法悦に震える。
冥界神の存在を、これほど身近に感じられたことはない。
「俺もそろそろ行くぜ。前世に未練なんて、ねえからよ」
海賊の死霊の言葉で、我に返る。
「……はい」
一歩、水球に近づいた死霊に、ディアヌは涙声で答えた。
海賊は揺らぐ水面に手を翳す。そこでふと、振り返った。
「ああ。いや、ひとつだけ。頼まれちゃくれねえかな? あいつらのこと」
「あいつら?」
ディアヌは瞬き、怪訝そうに眉をひそめた。海賊は視線を壁へと流す。
「なんでもよぉ。湿地に? 俺の手下どもがうろついてるらしいじゃねーか。今もいるのかわからねえけどよ。悪い奴らじゃねえんだ。――いや、違ぇな。世間的に見りゃ、そら完全に悪い奴らだし、中にはどうしようもねえクズ野郎もいる。けど、なんつーかな。……ほとんどの奴は、上手い生き方を知らなかっただけなんだ。ちぃっとばかり運が悪かったりとかな。だからよ、てめえが道を教えてやってくれねえか」
「私が……」
ディアヌは絶句したあと、考え込んでしまった。まだ迷いがある。
悪人は嫌いだ。悪人が幸せになるなんておかしい。救われるべきは正しい道を歩もうとした者、少なくとも、過ちを正そうとした者であるべきと感情は叫ぶ。
けれど、人の心はそんなに単純だろうか。
簡単に悪と決めたり。
即座に敵と判断したり。
誰かの言葉一つで、或いはたった一つの行動で、その人全てを理解できるものだろうか?
私はそれほど賢いか?
自らの正義を正義と信じて疑わないことは、悪ではないのか?
ディアヌの脳裏に、死霊術師の姿が浮かんだ。
悪であるはずの彼が、キールスを見送ったときに見せた存外優しい表情が。
(何でここで、あの顔が浮かぶんだろ! 腹立たしい!)
(けれど私もあんな風に、誰かを見送れたら)
海賊はそんなディアヌの葛藤を知ってか知らずか、ニヤリと笑う。
「ま、気が向いたらでいいさ。少なくとも俺は、ヨルの神官に送って貰える。今度こそ良い人生になるかも知れねえな。期待してるとするぜ。じゃあな!」
海賊が水球に手を入れると、その身体はあっという間に光に吸い込まれた。
ディアヌは戦棍を抜き、柄を上にして立てた。葬送の鈴の音を鳴らす。
「お二人とも、どうか、安らかな旅路を……!」
身体を満たすヨルの祝福が、祈りとなって死者たちの行く道を照らした。
(私がここでするべきこと……)
ディアヌは湿地で今も迷い続ける、多くの魂を思った。




