解放
旧都グレゴを襲った死霊の群れと、住民との戦いは、四日目に突入していた。
死人や骸骨、食屍鬼など、実体を持つ死霊が都市へ進入する事態は防げている。城門は強固で、石積みの城壁は古びているが耐えた。
問題は幽霊たちだ。
憑依された者が暴れたり、魔法によって混乱がもたらされた。
頼みの綱は神官だ。特にヨルの神官は対死霊の神性魔法に特化している。ただしどちらも絶対数が足りない。いきおい、出現の報告があってから討伐に向かう形となってしまう。
幽霊は町中に散っていた。襲撃を受けた場合、人々は神官隊が到着するまでの間、配られた聖水を使って凌ぐしかない。
一人でいると憑依されたときに身を守れない――自傷したり、高いところから身を投げてしまったりする――ため、必ず数人以上で集まって過ごした。
幽霊は狡猾で、神官が到着すると姿を消してしまう。
倒せるときもあり、倒せないときもあった。被害を防げるときも、防げないときも。
それでも、少しずつ数を減らしている手応えはあった。大量の死霊に襲撃を受けた宵以降、第二波・第三波が来た様子はない。
都市に入り込んだ幽霊を駆逐しきれば、幾らかは安心して救援を待つことが出来る。
希望はあった。しかし、眠れぬ夜々を重ねた人々に、疲労の色が濃く出始める頃でもある。敵の侵入を一部許している時点で、通常の籠城とは違うのだ。
早く、早く救援に来てくれ――
領主フラメント公も、兵士も、住民も、避難民も、願いは一つだった。
そしてついにその宵――。東の方に、待ち望んだ救援が現れた。
若き皇帝レムルス率いる救援隊だ。東から共に引き返してきた魔銃兵と魔法兵、くわえて帝都で重装騎兵と神官を新たに編成していた。どの兵種も、数は少ないが精鋭だ。
まずは魔銃兵による一斉射撃と、魔法兵による戦術魔法で、門の傍に集まっていた死霊の数を減らした。討ちもらした死霊も、重装騎兵によって間もなく駆逐される。
外壁の上で見守っていた兵士たちは歓声を上げた。門が開かれ、最後は都市内部の幽霊たちを、魔法と神性賦与を受けた武器で各個撃破して作戦は終了だ。
既に東の方が白んでいた。
「陛下! まさか直々にお越し頂けるとは……!」
旧王宮の執務室で、フラメント公とレムルスは握手を交わした。
二人とも、目の下に酷い隈ができている。彼らは顔を見合わせるなり、笑った。
「畏まらぬでもよい。そなたも疲れておろう? 余も楽にさせて貰う」
言ってレムルスはソファに腰掛ける。フラメント公も、恐縮しつつ向かいに腰を掛けた。
護衛官のクィッドは、椅子を勧められても頑として立っていた。
「道すがら、平原をうろついていた死霊どもと何度か遭遇した。見かけたものは倒したが、しばらくは周辺の村落に被害が出るかもしれない」
「落ち着いたら討伐隊を派遣する必要があるかも知れませんね」
「うむ。……。エルフたちはどうした? 姿が見えなかったが」
「彼らは数日の間、警戒を続けてくれました。ですがご覧の通り、最後に大量の死霊が溢れて、手に負えなくなったようです。あの数ではやむを得ないでしょう。梟で知らせてくれたので、準備をする時間はありました」
「そうか。……彼らは約束を果たしてくれたのだな。余も、精一杯急いで戻ったのだが、負担を掛けたようだ」
「ふふ、ご尊顔を拝すればわかりますよ。どうぞ、今夜の所はゆっくりとお休み下さい。……っと、もう朝でしたか」
「そうさせて貰う。兵士たちのことも、ねぎらってやってくれ。特に魔銃兵と魔法兵は、夜を日に継いで馬を走らせたのだ」
「心得ております」
レムルスは疲れた様子で立ち上がった。疲労でふらついてしまう。クィッドがすかさず肩を支えた。
フラメント公も立ち上がり、扉の前へと先行した。そこで彼は思い出したように振り返る。
「陛下。実はこの度の騒動で塩を大量に消費し、不足が生じております。ザルツルードが海上封鎖を受けたと耳にしたのですが、本当ですか?」
「残念ながら事実だ。だが、既に対処出来ているはず。ぼ……、余も、帝都で報告を受けている時間がなかったのだが、塩の不足ならば追って解消されるだろう」
「それを聞いて安心いたしました。では、部屋にご案内いたします。湯浴みのご用意も整っておりますよ。軽食もお届けいたしますか?」
「いや、」とレムルスは首を横に振る。彼は不意に、子どもらしい笑みを浮かべた。「今はとにかく、横になりたいよ」
◇
黒の城の回廊から、ディアヌは中庭の池を見下ろした。
白い小舟に、仲間たちが乗り込んでいく。船頭を務めるのはラザロ自身だ。
(咄嗟にあんなことを言ってしまったけれど、今になって少し不安になってきたな)
石造りの窓枠に片手を添え、黒いローブ姿を目で追う。
(あの人が本気で悪いことをしようとしたら、私の力では止められない。それはわかっているけど……)
悔しそうに唇を噛む。
(また、あの時と同じ)
ディアヌは母のことを思い出した。
スラム育ちだった彼女には、母と幼い妹がいた。貧しいけれど、それしか知らない彼女は苦に思うこともなく、それなりに楽しくやってきた。
けれどあるとき、母と妹が流行病で死んだ。あまりにもあっけなく。
ディアヌは二人の死を認めがたくて、ただ眠っているだけだと自分に言い聞かせ、誰にも相談しなかった。
そしてある日、母は”生き返った”。
母は妹の遺体を食べた。それでもまだ、お腹を空かせていた。ディアヌは、変質してしまった母を恐れつつも、どこかで嬉しかった。母がまだ、傍にいてくれることが。
ディアヌはスラムを歩き回り、死体を見つけては――それが人間であれ、動物であれ――母に運んだ。
結局、最後はヨル神官に見つけられ、母は死んだ。ディアヌの目の前で、二度死んだのだ。
心に傷を負い、天涯孤独の身となったディアヌは、孤児院へと連れて行かれた。
ヨル神官は、その後も何度も孤児院を訪れ、彼女の心を信仰の光で救ってくれた。
(ラザロさんも、……母と同じなんだ。私はまた、同じ事をしようとしている?)
彼はディアヌの目の前で死に、指輪の力で蘇った。
ディアヌは彼を恐れつつ、同時に、そこにいることにほっとしている……。何も学んでない。
身に染みこんだ教義は、彼を”きちんと殺さなければならない”と教える。それが彼にとって救いだ。ヨルの恩寵だ。……そのはずだ。
けれども、死王である彼を殺したら、この湿地帯からは再び死者が溢れ出てしまう。
それを留める力は、ディアヌにはない。彼にはある。
だから今、彼を倒すのは”正しくない”。
「どうしたらいいの……」
深い吐息とともに、悩みを吐き出した。
ここで自分が何をすべきなのか、わからない。ラザロを監視はする。けれど、いざその時がきたとして、自分にラザロを殺せるのか。
(私はイールグンドさんのように、高潔じゃない)
ため息が零れる。迷えば迷うほど、ヨルの御心がわからなくなった。底なし沼にずぶずぶと沈んでいく。
(……)
彼女は自分を鼓舞するように、激しく首を振った。
(けれどヨルの神官として、少なくとも今、死霊術師を野放しにはしておけない。それだけは確か)
彼女はぐっと握り拳を作った。
(腕っ節勝負の純粋な喧嘩なら、昔から自分より大きい男にだって負けなかった。いざとなったら)
「ぶん殴ってでも、止めるっ!!」
声に出していた。
聞こえたはずはないのだが、眼下ではラザロがびくっと肩をふるわせるのが見えた――気がする。
殺気を気取られたのかもしれない。
「ぐはは! 威勢が良いな!」
突如、すぐ傍から声がして、彼女は飛び退きざまに身構えた。丸い目で見つめる先を、大柄な影が歩み寄ってくる。
開口部からの外光で、足元から順にその姿が明らかになった。
「貴方は……!」
「よお。まだ生きてるみたいだな」
黄色い歯茎をむき出しにして、海賊が笑った。
(どうする? 気力は少し、回復しているけれど)
戦棍の柄に手を添えて、油断なく死霊を睨む。ところがシャーク船長は、両手を肩の高さに持ち上げた。
「おっと! ピカッて奴、やるんじゃねえぞ? 別にてめぇをどうこうする気はねえんだ」
「……」
ディアヌは硬い表情を崩さぬまま、片眉を持ち上げた。
「ちいとな。行きてえとこがあんだよ」
海賊はディアヌの後方に人差し指を向ける。ディアヌは瞳を揺らした。
身構えたまま何も返事をしない彼女を見つめた後、海賊は首を振って歩き出した。ディアヌのすぐ脇を通り抜ける。
本当に、何もしてこない。
「待って!」
ディアヌはその背中に声を掛けた。海賊が足を止め、肩越しに振り返る。
(彼はこの城に出口があると言っていたっけ)
それが気にかかった。この城の作りは全然把握できていない。ラザロがいない今が、あちこち見て回る良い機会だ。
幸い、死霊たちはすっかり大人しくなっていた。
「私もついて行きます!」
海賊は眉を持ち上げ、唇を歪めただけで何も言わずに歩き始めた。
ディアヌは海賊の後ろから、戦棍の柄に手を掛けたまま進んでいく。少しでも不審な動きがあれば、すぐに殴りかかれる間合いだ。
廊下を進み、曲がり角を幾つか過ぎ、階段を下りた。
ドアを潜って、螺旋階段を下る。
下る、下る。
どんどん城の深い部分へ向かっていた。
城の壁には、所々に紫色の陰気な明かりが灯っている。ラザロという新たな死王を迎え、城が息を吹き返したかのようだ。
空気は濁り、黴臭い。
二人分の足音が、狭い石の階段に不気味に響き渡った。
「い、行き先は、知っているの……?」
「知らねえよ?」
振り返らずに、海賊が答える。ディアヌが絶句して立ち止まると、前を行く肩が揺れた。
「だが、わかる。不思議とな」
海賊は足を止めずに下りていく。ディアヌは慌てて後を追った。




