必死
海上は酷い有様だった。
所々で火が燃えている。死体が流れてくる。血の臭いに惹かれた人食い鮫まで現れ始めた。
帝国艦隊と海賊艦隊は入り交じって争い、頭上を矢と炎が飛び交った。
(死ぬ……!)
トルドは狭い樽からオールを出して、左右の水を必死に掻いた。だが、周囲の船が作り出す波に翻弄され、むなしく上下するばかりだ。少しでも進んでいるのか、それともあらぬ方へ流されているのか、さっぱり分からない。
目的地は遠くに見える島影――タタ島だ。
果てしない。先ほどからまるで近づいた気がしない。
それでも、腕がちぎれるかと思うほど夢中で水を掻いている。
原動力は恐怖だ。
同じ樽に背中合わせで乗っているフォレウスは、樽の蓋を縁に立てて盾にしている。飛んでくる流れ矢を防ぎながら、左手に持った魔銃で飛びかかってくる人食い鮫を撃ち殺していた。忙しそうだ。
(みんな、なんで戦ってるんだ!? お頭は死んじまったのに……、早く逃げれば良いのに……!!)
海賊たちは風を読んで巧みに操船しているが、”海の火”だけはどうしようもない。一つでも帆に当てられればやがて航行能力を失い、足止めされたところを帝国艦隊に囲まれ、一斉に矢を放たれた。
一隻、また一隻と、航行不能にされていく。
一方、ミスドラの獣人兵は敵艦に移乗攻撃を仕掛けていた。帝国船の甲板上で激しい戦闘が繰り広げられている。猛禽の獣人に帆を切られた帝国艦は、やはり航行不能に陥った。
帝国海軍は弓兵を多く編成したらしく、接近されると脆さを露呈した。接近戦は想定外だったのだろう。
(獣人兵なんて置いて、逃げちゃえば良いのに……!!)
トルドは泣きたくなった。
みんな、誰のために戦っているんだろう。
何のために戦っているんだろう。
命より大切なものなんて、世界にあるのか?
分からない。
分からないけれど、トルドは死にたくなかった。分からないからこそ、死にたくなかった。
「駄目だなこりゃあ……」
隣から匙を投げたような言葉とため息が聞こえ、トルドは手を止めた。
頼みの綱の大人が、生きることを諦めてしまったのかとドキリとしたのだ。
「船から落ちた奴のことなんざ、誰も気にしている余裕がないらしい。照明弾を撃ってみたが、放置だ」
「や、やめろよ! 見つかったら殺されるだろ!?」
トルドの声は裏返った。フォレウスは肩越しに振り返り、眉尻を下げて片方の口角を持ち上げる。
「俺が殺させやしないよ。だが実際問題、この状況で戦を止めるのは無理そうだ」
後半はため息混じりで首を振った。
「おっさん一人で、こんなの止められるわけないだろう! 正気か!?」
「そうなんだがなァ……。こうなってしまっては、一体こりゃあ、誰のための何の戦いなんだかわかりゃしねぇ。ザルツルードの封鎖を解くという帝国側の目的は、戦いの前に果たされていただろ? シャーク船長さえ生きてりゃ、交渉の余地があったかも知れないのに、なぜ獣人兵は暴走したんだ……?」
「俺に聞かれても」
困惑したトルドは止まっていた手を、再び動かし始めた。
「獣人兵たちがどんな目的で船に乗り込んでいたかなんて、俺は知らねえし」
「ふぅむ……。なんかこう、……気持ちが悪ィんだよな。どちらも誰かに目隠しをさせられて走らされているような」
流れ矢を、トスンと音をさせて樽の蓋で受け止めながら、フォレウスは首を傾げた。
背後の呟きが聞こえても、トルドは何も答えなかった。難しいことは分からない。
ただこの戦いが、とても馬鹿馬鹿しいものなのだというのは、少年にも察せられた。おそらく、この場にいない誰かによって企図され、この場にいない誰かにとってだけ意味のある戦いなのだろう。
ここにいるのは、訳も分からず動かされているコマに過ぎないのだ。
(冗談じゃねえ! そんなやつのために死んでたまるか!)
トルドは改めて、生きることに闘志を燃やした。彼にとって正しいのは、生きるための戦いだ。これまでずっとそうしてきたのだから。
オールを握り直した彼の髪を、強風が撫でる。
風向きが変わった。追い風だ。
(よし、いいぞ。おっさんの蓋で風を受ければ……)
希望に目を輝かせ、トルドは波を掻いた。心なしか、海流までもが彼の味方を始めたように思う。その矢先。
「イテッ」
頭に、コツンとなにかが当たった。初めは矢が当たったのかと思ったが、弾かれて海に落ちたのは小石のような小さな粒だった。
トルドは頭をさすったが、その頭上に樽の蓋がさしかけられた。いつの間にか、フォレウスはトルドの方に向き直っている。
コトコト、コトトト。
蓋の上に、何かが降り注いだ。
「なに、」
「雹だ。雹が降ってきた」
フォレウスが言った。見ればそこかしこの波の上に、小さな白い飛沫の王冠が生えている。
トルドは一番近い帝国艦を見遣った。そこでの戦いは続いているが、何人かは気を削がれている様子だ。
「なんだあ、ありゃ……」
フォレウスが頭の上で呆然と独りごちた。
トルドは彼の顔を見上げ、その視線の先――進行方向を見遣る。
そして、これ以上ないくらいに目を見開いた。
垂れ込めた雲の下に伸びる、白い筋が見える。
それは生き物のようにうねうねと動きながら、海上に迫った。
海上からも、まるでその白い手を歓迎するかのようにそっくりな手が伸ばされていき――
「竜巻だ!!」
(本当に嵐が来た!!)
トルドは驚きと共に叫んでいた。フォレウスの胸ぐらをつかむ。
「やばい、おっさん!! あれに巻き込まれたら、確実に死ぬ!!」
天と海の手は繋がり、猛烈な勢いで海水が巻き上げられる。竜巻はまだ遠い。しかし風が、波が、船が、樽が、竜巻に向かってゆっくりと吸い寄せられ始めた。
◇
森を抜け出して湿地に戻ると、霧が深く立ちこめていた。
「……これは酷い」
黒馬の上で、ラザロが呻いた。今や霊体となったシャイードも全く同感だ。
霧の濃さではない。
さまよえる魂がそこかしこにいたからだ。
帝国の兵士らしき者や、異国の戦士、人相の悪い船乗り、武装した獣人、緋色のローブを着た者たち……
ここがどこか分からぬ様子で、ぼんやりと辺りを見回している者もいれば、固まって歩いている者もいる。手当たり次第に周囲の者に襲いかかっている者も。
斬り合ってもお互いに霊体なので、霧散してはまた別の場所に現れる。
みな少なからず混乱している様子だ。
”おこりんぼ”の先導に従って慎重に道を選びながら、ラザロは右肩の少し上に浮いているシャイードを見上げた。フォスはその向こうに、シャイードに寄り添うように飛んでいる。
「病死や老衰の霊は、ああはならん。すぐに死を理解し、受け入れるからな」
『傷を負っている者が多いな。黒焦げのやつもいる。戦死者たちか』
ラザロは顔を正面に戻して頷く。
「南と東の、死にたてたちだろうな。この数では遭遇を避けるのは無理だ。話の通じる者がいれば良いが……」
『まさか! 死者の全てがここに集まってくるのか!?』
「冥界はどこにでもある。我々の世界と常に重なってな。死ねばすぐに認識できるはずだ。それでも、この場所にこうも集まってくるのはおそらく……」
「ビヨンドの仕業であろうな」
アルマが口を挟んだ。ラザロは頷く。
「吾輩もそう、目しておる」
一旦言葉を切った後、ラザロは再びシャイードの方を向いた。
「早急に、先ほどの話の続きをしなくてはならんようだ。シャイード、貴様の持つ剣は今、形ばかりのニセモノではないか?」
『俺のフラックスが?』
シャイードは霊体になったときから腰にある、流転の小剣を引き抜いた。
見た目はそのものだが……
『あれっ? 本当だ。これはフラックスじゃない』
シャイードが口にすると、小剣はその手の中で霧になって消えた。
シャイードは焦って、周囲の霧をつかもうとした。
ラザロは鼻で笑う。
「だろうな。服も同じだ。貴様が”身につけている”と認識しているから形を保っている。本物の魔法剣はアルマが持っている方だ」
「我はこの剣を使いこなせぬぞ。普通の剣として振り回すことは出来るが、フラックスの持ち主は妖精王だからな」
アルマは左手に持つ剣を持ち上げ、敢えてシャイードではなく、ラザロの方を向いて言った。
『ということは……?』
「このままでは、魔法剣に宿したヤドリギの力は使えぬだろう」
『!』
指摘されれば確かにその通りだ。シャイードは空になった右手を見つめ、それからアルマの手元にある流転の小剣を見つめた。
『俺が実体化して、剣を振るえば』
「実体化するには強い負の感情が必要だ。恨みや憎しみ、苦しみに未練、悲嘆、絶望。しかし、そういう感情は魂を汚し、転生を遠ざける。貴様の蘇生の難易度も上がるから止めておけ。それよりももっと簡単な方法がある」
『簡単な方法?』
「貴様がアルマに憑依すれば良い」
『!!!』
シャイードは唖然としたのち、ゆっくりとアルマを見遣った。




