落丁
アルマはすぐに起き上がり、衣服の汚れを払った。帽子はどこかにすっ飛んでしまったが、まるで気づいていない。
栗毛の馬は、倒れたまま足をむなしく動かしている。首を上げ、悲しそうな瞳でアルマを見た。足を痛めたのか、自力では起き上がれない様子だ。
アルマは周囲を見回し、横臥しているシャイードを見つけるとそちらへ向かった。
彼の傍らに膝をつき、その身体を仰向けに直す。
口元に手を翳すが、呼吸はない。胸も上下していない。
「……」
アルマは、起きているときよりもあどけなく見える主の顔を、じっと見つめた。
眠っている彼の顔を見つめることは良くあった。他にやることがないときなどに。
でも今のシャイードは、眠っているのとはまるで違っている。
褐色の肌からは血の気が失せ、どこか青白い。規則正しい寝息も聞こえない。目蓋の微かな動きもない。温もりが感じられない。
――命が感じられない。
アルマはシャイードの隣に座り、膝を立てて抱え込んだ。膝頭に額を乗せる。
変だ。
自身の状態が、引き続き奇妙であることに気づき、アルマは内面を観察した。
本のカバーは無事なのに、中身が損傷を受けている。どこかのページが破れ、ごっそり抜け落ちてしまった気がする。
どのページだろうか。探すが見つからない。
こんなことは起きたことがない。
対処法が分からない。
修復したい。
修復方法が分からない。
修復できるだろうか。
できないとどうなるだろうか。
アルマは虹を思い描いた。
虹を見てからというもの、たまにこうして心の中に再現してみている。
虹に、分けられた光以上の意味を探しているが、未だに見つかったことがない。
今も虹は、何の情報も与えてくれなかった。
「我は、何もできない」
アルマは俯いたまま呟いた。
そんな風に思ったことは、今までに一度もなかった。なくなったページのせいだろう。
妙だ。
なくなったページの分、身体が軽くなっても良いはずなのに、実際は重くなっている。
動きたくない。
このまま、ここにずっとこうしていれば楽かも知れない――
その手に、何かふわふわしたものが触れた。
知らんぷりを決め込んでいたが、何度も触れるのでしぶしぶ顔を上げた。
光精霊がすぐ傍に浮いている。
「何か用か、フォス。我は今、忙しい」
フォスはすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。
アルマは再び、顔を伏せる。
しばらくして、今度は頭の上に何かが乗った。顔を伏せたまま片手を上げて触れてみる。
三角帽子だった。
◇
『いってて……。……ん? 痛く、ねえな?』
意識を取り戻したとき、シャイードは森の中に立ってた。首の後ろを撫でる。
直後、混乱が思考を支配した。
直前まで何をしていたのか、どこにいたのか分からない。
ここがどこかも分からない。
森だということだけはわかった。頭の中同様に、周囲にもうっすらと霧が掛かっている。
『待て待て、思い出してきたぞ……? ええと……』
彼は額に手を添え、あえて自分に話しかけながら記憶をたどった。
森――、そうだ。エルフの森を出て、冥界に浸食された湿地帯へ向かったんだ。
そこで指輪のビヨンドと出くわして……
『絶命の魔法を掛けられた! で、抵抗して?』
生きているということは、抵抗できたはずだがそこからの記憶がない。
彼はふと、手を離して顔を上げた。
どこからか、温かくて明るい気配がする。良い匂いもする。
思うよりも早く、シャイードはそちらに向かっていた。
森の空き地に、馬が倒れている。その場所には見覚えがなかったが、倒れているのは見知った栗毛の馬だ。
馬はシャイードを見ると、じたばたと足を動かした。自力では立ち上がれないようだ。
シャイードは馬に近づこうとして、近くに呆然と立ち尽くすイールグンドに気づき、ビクッとする。彼は唇を薄く開いたまま、空を見上げていた。
『イールグンド! 平気か?』
話しかけてみたが、反応がない。聞こえなかったのだろうかともう一度口を開き掛けたところで、明かりが近づいてくるのに気づいた。フォスだ。
シャイードは思わずマントの合わせを開き、それからフォスを見た。
『フォス! いつの間に外に出てたのか』
フォスはシャイードの回りをくるりと一周した。
その身体を撫で、ふわふわした感触を味わう。
だがフォスは、すぐにシャイードの手をすり抜けて、来た方に戻って行った。
『おーい、どこ行く……』
光精霊を目で追った先に、アルマが座り込んでいる。
膝を抱え、背を丸めて地面にうずくまっているのだ。
『なにやってんだ、アイツは。そういや、ビヨンドはどこに行った? 倒したのか?』
遅ればせながら気づいたが、周囲の木がかなりの本数なぎ倒されていた。
地面には、折れた木の枝や葉っぱが落ちており、土がえぐれた形跡もある。ドラゴンでも暴れ回ったのかと思うほどだ。
フォスの後を追ってアルマのそばまで来たとき、傍に誰かが寝ていることに気づいた。
――誰だ?
『……って、俺!? 俺だこれ!?』
シャイードは驚愕し、仰向けで眠る自分の傍らに膝をつく。
頬に触れてみようとしたが、手はすり抜けた。
慌てて引き抜く。
『!?!?』
改めて、自身の掌を見る。
掌を通して、眠る肉体が見えた。
『透けてる……!!』
自分自身の身体に手をやると、こちらにはちゃんと触れる。
『なんだこれ、夢? 悪い夢を見てるのか?』
シャイードは頬を引っ張った。まるで痛くない。
やっぱり夢だ。
シャイードはほっと息を吐いた。
『おい、アルマ! 寝てる場合じゃねぇだろ! 起きろ』
シャイードはアルマの肩に手を掛け……ようとして、やはりすり抜けてしまう。
フォスを見た。
光精霊はシャイードの視線を感じると、わかってるよ、とでも言いたげに揺れた。
フォスには認識されているようだから、自分は確かにここにいるはず……
シャイードは鋭く息を吸い込んだ。
『……。死んだのか……?』
無意識に忌避していた可能性を口にする。
言葉にすれば、それが正解だと心のどこかで理解できた。
『絶命の魔法に抵抗できたと思ったが……、出来ていなかったのか? 俺は』
シャイードは呆然として、両手を見つめる。
『俺は、死んだのか……』
ゆっくりと噛みしめるように、目蓋を閉じた。




