絶命
キールスの瞳は、目の覚めるような青色に輝いている。本来の瞳の色ではない。
その瞳がイールグンドを見、唇が大きく開かれる。シャイードの視界が急激にぶれた。
――この感覚は。
「危ねえっ!」
シャイードは咄嗟に白馬の尻を蹴った。白馬は驚いて横に大きく飛び退き、イールグンドは慣性でのけぞる。
一瞬前まで彼の身体があった空間に、キールスの口から吐き出された黒い濁流が殺到した。
濁流はむなしく空を打った後、ぐるりと輪を描いてキールスの身体へと戻っていく。うわんうわんという聞き覚えのある音がした。
「死出虫! 指輪のビヨンドか!?」
「キールスの右手の人差し指に、指輪がある。以前はなかった」
「死王の指輪か!」
指摘されて注視すれば、確かに硬質な輝きが見えた。詳細まではわからないが、アルマの観察癖も、たまには役に立つことがあるようだ。
「なん……、どうして……」
イールグンドは状況が飲み込めず、ショック状態に陥っている。死出虫たちは、彼の相棒の周りを雲霞のごとく飛び回っていた。
キールスは、首と肩と胸が大きく開いた、身体にぴったりした衣服を纏っているように見えていたが、どうやらそれは死出虫だ。白い裸身を、無数の死出虫が覆っているのだ。
キールスの表情はうつろで、それなのに瞳はイールグンドを捉えていた。
『イィィルゥウウ、グンドオォォ……』
不意に名を呼ばれ、イールグンドは身を硬くした。
キールスの唇は、動いていない。
『イィィルゥウウ、グンドオォォ……』
「キールス!? 俺がわかるのか!」
彼の名は、なんとも……なんとも不思議なことに、死出虫の羽音が奏でているようだ。それでもイールグンドは、キールスに名を呼ばれたことで瞳に希望を宿す。
キールスはふわりと空中に浮かび上がる。そして両腕を広げた。身に纏う死出虫が翼のように広がり、イールグンドを包み込もうと襲いかかる。
「キールス! ……くっ!!」
今度のイールグンドは反応できた。剣を構え、襲い来る虫の群れを右に左に、袈裟懸けに薙ぐ。だが虫の群れはひるまず、彼に集った。白馬もたまらず、跳ね回って暴れる。
シャイードも加勢したいところだが、今、イールグンドに近づけば、同士討ちになりかねない。
どうする、と剣を構えたまま躊躇したところで、アルマがキールスを指さした。
「向こうから出向いてくるとは、千載一遇のチャンスだ。終わらせるぞ、シャイード」
「終わらせるって……、キールスを斬るのか!?」
「アレはもはやキールスではない。やつはビヨンドに喰われた」
「……っ!!」
会話の間に、イールグンドの剣が止まっている。死出虫に集られ、身を囓られるままだ。
「まずいんじゃねーか!? アルマ、お前、なにか」
「それよりも早く元を断て、シャイード」
「しかしっ……!」
逡巡しているうちに、イールグンドの傍らに炎が灯った。契約している火精霊だ。
直後、イールグンドを円の中心にして、炎の柱が立ち上がる。火精霊が周囲にいる死出虫を、魔法の炎で焼き払ったのだ。
焼け焦げた死出虫がぼとぼとと地面に落ちていく。残った死出虫も、炎に炙られてキールスの元へと戻りはじめる。
「今だ、シャイード」
「くそっ……! やるしかねぇか!」
シャイードは、ヤドリギの力を宿した流転の小剣を肩の高さに掲げ、キールスへと突っ込む。
狙いは手首だ。
指輪さえ壊せれば、ビヨンドを撃退できる。元に戻せるかはともかく、冥界の領域が拡大するのを防げるのだ。
イールグンドに気を取られていたキールスは、シャイードの接近に気づくのが遅れた。
「捉えたっ!」
その手に向けて剣を振り下ろした瞬間、横から白銀の光が走り、シャイードの小剣を受け止める。
「なっ!?」
イールグンドだ。彼が右手から一挙に飛び込んで妨害した。その間にキールスは、空を滑るように後退してしまう。
「邪魔をするな、イールグンド! あいつはもう、キールスじゃない! ビヨンドだ!!」
「そんなはずはないっ! キールスは生きているっ!! 俺が元に戻す!!」
イールグンドは渾身の力で剣を振り払った。
シャイードは勢いによろけ、栗毛の馬ごと突き放される。イールグンドは馬首をキールスに向けて両腕を広げた。
「やめてくれ、キールス! 俺は、お前と戦いたくない!」
『イィィルゥウウ、グンドオォォ……』
「そうだ。俺だ、イールグンドだ。お前の狩組の。こっちへ来るんだ、キールス。一緒に帰ろう?」
『……』
キールスは何も答えず、少し離れた空中で揺れている。その瞳が、イールグンドからシャイードに、そして彼の持つ剣に向けられる。
『……』
キールスは何かを呟いた。
「なんだ、キールス!? 何と言ったんだ?」
イールグンドが必死に聞き取ろうとしても、今のキールスは彼の方を見ていない。
キールスは小さく首を傾げた。その後、右腕を持ち上げてシャイードを指さす。指輪が、きらりと光った。
途端、シャイードを衝撃が襲った。心臓を、直接殴られたかのようだ。
「……うっ!」
首の後ろで、何かがプチプチと引きちぎれていくような音を聞く。その感覚に覚えがある。末端から這い上ってくる冷えも。
(絶命の魔法!)
もう分かっている。
(俺が死に対して、強く抵抗すれば……)
――ブヅン!
シャイードの首の後ろで、ひときわ大きな音がした。
◇
急に力なく馬の首に凭れてしまったシャイードを、アルマはもてあました。
手綱を握る彼がこれでは、馬が制御できない。
案の定、手綱が離されたことに気づくと、馬は勝手な方向へ走り始めた。最初は虫の音を嫌って元来た方へ。
その後、森の奥には人が沢山いたことを思い出したのか、反転して再び湿地の方角へと戻り始める。
「シャイード、起きろ」
アルマは落馬せぬように前傾して鞍にしがみつきつつ、胸の下の主の身体を揺らすが、まるで起きる気配がない。
シャイードは鞍から滑り落ちそうだ。
「……死んだか?」
そのように見える。キールスに指を差された直後にこうなった。離れていたので詠唱は聞こえなかったが、魔法を受けたのだろう。おそらく、絶命の魔法だ。
「死んだか」
アルマは納得して頷く。それならば、自分の役目もこれで終わりだろう。自分に命じる存在はもういない。シャイードから鍵を回収し、帰還するだけだ。
「……」
顔を上げると、キールスのすぐ傍に戻って来ていた。彼はアルマを見下ろしている。イールグンドがエルフ語で語りかけているが、聞こえていない様子だ。
キールスはアルマを指さした。
『絶命』
力ある言葉は、アルマに対して何の痛痒ももたらさなかった。絶命の魔法は、肉体と魂をつなぎ止めている魂の緒を断ち切る魔法だ。魂のないアルマには、そもそも魂の緒もないのだから、断ち切れるわけがない。
アルマをこの世界につなぎ止めているものは契約であり、制約なのだ。
アルマは、ここで奇妙なことに気づいた。
このビヨンドを見ていると、丹田の辺りが重苦しくなる。
重苦しい?
いや、それよりもふつふつとたぎるような感じだろうか?
彼自身、良く分からなかった。
初めての感覚だ。
それは好ましい感覚ではなかった。
アルマはこの奇妙な感覚を抱えた状態から、通常の状態に戻りたいと願う。そのためにどうすればいいのか、考えた。
そしてすぐに、目の前のビヨンドを排除すれば良いのではないかと仮説を立てる。
ウツシである死王の指輪をビヨンドから切り離すには、ヤドリギの力が必要だ。しかし力を宿した流転の小剣はシャイードの手の中にあり、彼にしか使いこなせない。
けれども、指輪が支配する死出虫の群れやキールスを吹き飛ばすくらいならば、容易くできるだろう。
別にもはやこの世界がどうなろうと構わない。
ただこの不快をもたらすビヨンドを、目の前から消してしまいたい。
アルマは詠唱を始めた。
呪文が完成すると、周囲に幾つもの竜巻が立ち上がる。
イールグンドが、白馬ごと風に巻き込まれそうになりながら、アルマの方を向いて大きく口を開けていた。身に纏う苔色のマントが、右に左に、ちぎれそうに暴れている。風の音で聞こえないが、制止の言葉でも叫んでいるのだろう。
アルマにはイールグンドに従う理由はない。
イールグンドは主ではない。たった一人の主は、死んでしまった。
シャイードは死んでしまった。
アルマは眉根を寄せ、目を細めた。左手で帽子を押さえ、右手は真っ直ぐに持ち上げる。
「切り刻め」
右手を前に突き出すと、竜巻はアルマの意志に沿ってキールスへと殺到した。
キールスは両腕で頭をかばい、死出虫を盾として纏って抵抗の意志を見せる。しかし死出虫の防壁は、暴風にいとも容易く削り取られて、キールスはすぐに無防備な姿を曝す羽目になった。
キールスは左右を見回し、逃げ場を探している。すかさずアルマが腕を動かし、竜巻はキールスを取り囲んでいく。
盤上遊戯の「詰み」のようだ。
四方から迫る烈風が、真空の刃が、キールスの身体をもバラバラに引き裂こうとして――
「やめろぉ!!!」
イールグンドが突然、栗毛の馬に向かって横から体当たりを喰らわせた。
栗毛の馬は大きくバランスを崩し、横様にどうと倒れる。当然、上に乗っていたシャイードとアルマははじき飛ばされ、地面で身体をバウンドさせた。
アルマはごろごろと転がり、近くの木に背中を打ちつけて止まった。
竜巻が衰えた隙をついて、キールスの姿が黒い靄に変じる。
「キールス! 待て! 行くな!!」
イールグンドの叫びもむなしく、死出虫の群れは風の隙間を縫って飛び去った。




