分断
ラザロは、避けたばかりの沼を横目で見遣る。
水の中から、恨みがましい瞳でこちらを見つめている死者の姿があった。四肢は水分を吸って醜く膨らみ、変色している。髪は海藻のように水面を漂っていた。
水に足を踏み入れたなら、すかさず襲いかかってくるだろう。けれどもどういうわけか、草地の上までは出てこない。
死霊には、奇妙なこだわりがあることも多いので、ラザロは特に気に掛けなかった。
湿地を抜ける行程は、今のところ順調だ。
と、ディアヌが背中をツンツンとつついてきた。私語を慎めと言っておいたからか、彼女は今までずっと沈黙を守っていた。それが、ついに我慢できなくなったのか。
ラザロはうんざりしつつも、上体を捻り、耳を少し彼女の方に向けてやる。
ディアヌは顔をこころもち彼のフードに近づけ、囁いた。
「ラザロさん、今の、聞こえました?」
「……む? ああ。何かカラスの鳴き声みたいな」
「何の音でしょう?」
「さあ」
水の中の死者に意識を取られていたので、初めは何のことだかわからなかった。だが、クワッと鳴いてすぐに聞こえなくなった音を、無意識に耳が捉えていた。どこか、背後の上空から聞こえたように思う。
ラザロは内心、どうでもいい、と思いながら姿勢を戻そうとした。
「あれっ……? ラザロさん、止まって下さい!」
ディアヌが背中を太鼓のように連打し、ラザロは「ごふっ」と地味にダメージを受けつつ振り返った。馬を止めると、”おこりんぼ”も待機状態になる。
「なんだ、小娘」
「……。大変です! シャイードさん達がいません」
「…………。……は?」
振り返れば神官の後頭部が見える。その向こうには、今たどってきた草の道。
見渡す限り、誰もいない。
艶やかな黒髪が揺れ、紫紺の瞳がこちらを向いた。驚いているせいか、普段よりも瞳が大きく見える。
黒猫のようだ、とラザロは思い、それから顔を片手で覆った。
「なんなの……? 馬鹿なの、あいつら。ついてくるだけのこともできないわけ……?」
ラザロは苛立ち、辛辣に呟いた。口調が素に戻っている。ギリッと唇を噛み、大きなため息をついた。
ディアヌは眉根を寄せる。
「そんな言い方しなくとも。何か、不測の事態が起きたのかも知れません」
「……そうならぬように、吾輩は細心の注意を払っていた」
「ですから、貴方が予想しなかった事態が起こったのではないかと、言ってるんです」
「吾輩の言う通りにしておれば、そんな事態は起こらん!」
あくまでも意見を曲げず、ラザロは言い返した。
「でも実際に……、わっ」
ラザロが急に馬の向きを変えたので、ディアヌはバランスを崩した。両腕で空を搔いて姿勢を取り戻すと、”おこりんぼ”が、うさぎらしく跳躍して腕の中に飛び込んで来た。
ディアヌは瞬く。
「……これ?」
「持ってろ」
ラザロは右前方を見つめたまま、ディアヌに命じた。目を細める。
「死霊達が集まっている。馬鹿どもを助ける気があるなら、急いだ方が良い」
「それなら、急ぎましょう!」
「走れば沼に突っ込むかもしれんぞ」
「細心の注意を払って下さるのでしょう?」
「……口の減らぬ女め」
いまいましげな彼の声を聞いて、ディアヌは喉奥で満足げに笑いつつ、ぬいぐるみをベルトに挟む。それからラザロの腰に腕を回した。
◇
シャイードたちは、気づけば死霊たちに囲まれていた。
木の洞や節だと思っていたものが、幽霊の顔になり、木から飛び出して襲いかかってくる。
馬に向かったそれを、シャイードは代わりに受け、流転の小剣で斬った。
手応えがあり、幽霊は甲高い悲鳴を残して霧に姿を変える。
別の場所で霧が渦巻いた。と思えば、それは新たな幽霊の姿となって襲いかかってくる。
イールグンドも、シャイードの隣でミスリルの片手剣を振るった。
剣が巻き起こす風が、霧を揺らす。動いた霧がただの霧なのか、幽霊なのか、即座に判別しがたい。予想外の場所から襲いかかってきては、霧の中に溶け込んでしまう。
死人もいた。幽霊よりは与しやすいが、二頭の馬とアルマを守りながら戦うのは難しい。敵の数が多く、二人ではカバーしきれない。
この場所は立ち並ぶ木々と霧のせいで視界が悪く、動きも制限される。
イールグンドは状況を見て取り、大振りに剣を振るって隙を作ると、素早く白馬にまたがった。勢いのまま、白馬に上空から迫っていた幽霊を斬り捨てる。
「キリがない。シャイード、いったん森を出よう」
エルフからの申し出に、シャイードは死人の攻撃を躱し、すかさず首をはね飛ばした後に頷いた。同じ事を考えていたところだった。
「先に乗れ!」
シャイードはアルマに命じ、その間に近づいてきた別の死人を流転の小剣で牽制する。
アルマはシャイードとイールグンドに挟まれて守られながら、栗毛の馬に乗った。
「シャイード!」
アルマが手を伸ばしたので、それを借りてシャイードも馬に飛び乗る。イールグンドが彼らの回りをぐるりと一周しながら剣を振るい、死霊たちの輪が少し広がった。
騎乗したシャイードも、左手で手綱を操りながら、右手で流転の小剣を振るって湿地方面の死霊に斬りかかる。
しかし、騎乗しつつの戦いは、一朝一夕に習得できる技術ではなく、馬と小剣も相性が良くない。腕の位置が高くなる分、地上にいる死霊に切っ先が届きにくいのだ。
馬上で身体を傾け、腕をめいっぱい伸ばして薙がないと、届かない。
一方でイールグンドは森での戦闘にも乗馬にも慣れ、得物であるミスリルの片手剣は、騎士剣ほどではないが、シャイードの小剣よりも長い。
イールグンドはシャイードの苦戦を見て取り、目の前の死霊を叩き斬った後に、振り返った。
「俺が血路を切り開く! 援護してくれ!」
言うなり、イールグンドは湿地の方角に向けて突撃した。
「わかった! アルマ、お前も魔法で援護しろ!」
「具体的に命じるが良い」
「後方の死霊どもをなるべく沢山足止めしてくれ」
「かなりあやふやだが、まあ了解した」
アルマが詠唱を始める。シャイードはイールグンドを追い、彼が取りこぼした死霊を傷つけた。馬を手足のように操ることができない分、自分の身体を柔軟に動かして対応する。時には小剣を投げ、手元に呼び戻す裏技も使った。
呪文が完成すると、アルマは背後に向けて腕を伸ばし、掌を開いた。彼が手首を返し、肘を曲げるなり、地面が盛り上がり、障壁となって死人を足止めする。土壁は最初の地点を中心に、左右に向けて次々に発生した。
これで後ろ半分の死人は無力化できた。
しかし、幽霊はそれを抜けてきてしまう。
アルマは別の呪文を詠唱し始めた。その間にも、イールグンドは猛烈な勢いで白銀の剣を振るい、右前方、左前方と斬り込んで進路を作っていく。
遅れて左右から来る死霊は、邪魔になる者を優先的に選んでシャイードが斬った。
土壁を抜けてきた幽霊が追いすがってくる。木々も構わず抜けてくるので、馬で駆けても距離がなかなか広がらない。
それどころか、イールグンドが新たな死霊の群れに足止めされると、一挙にシャイードの背後に迫ってきた。
「まだか! アルマ!!」
追いつかれる! とシャイードが覚悟を決めたとき、アルマの詠唱が完成した。
彼の両手の間で電光がバチバチと弾けながら、球状に練り上がっていく。アルマは身体を捻って背後を向き、両手を高く差し上げて投げつけた。
彼の手を離れた雷球は空中で爆発し、放射状の網となって木々の間に次々に広がる。まるで電撃で織られた蜘蛛の巣だ。
これを通過しようとした幽霊は、絡め捕られて動けなくなる。脱出しようとして動くと、さらに電撃が走って彼らを打ちすえた。
幽霊の大半がこれに絡め捕られ、足止め或いは消滅していく。
左右の敵を斬り捨てながら、シャイードは背後をちらと確認して瞬く。
「やるじゃねーか」
「この程度、造作もないぞ。図書館で沢山情報を食べたからな」
あと少しで、森を抜けるはずだ。
しかし、そこでイールグンドの白馬が失速する。後を追ってきたシャイードは、激突しそうになって慌てて手綱を引いた。
落馬しそうになったアルマがしがみついてきた直後、目眩を感じた。頭を一つ振って体勢を整える。
「どうした!?」
顔をしかめてイールグンドに問うたものの、その理由はシャイードにもすぐにわかった。
変わったデザインの黒い衣服を纏ってはいるが、見知った姿が立ちはだかっていたのだ。
「キールス!!」
イールグンドが驚きと喜びの混じった声で、友の名を呼ぶ。
うつむき加減だったキールスが、ゆっくりと顔を上げた。




