疾駆
花の咲き乱れる湿原を、ラザロを先頭に進む。湿原はどの方向も、遠くは霧で霞んでいる。空は相変わらず、全体が薄ぼんやりと明るい。
余り会話をするなと言われたので、無言で馬を進めていたが、シャイードは眠くなってきた。
どれくらい時間が経ったのかよくわからないが、身体が睡眠を欲しているということは、もうとっくに夜なのではないだろうか。
そんな気がする。
(アルマが馬を操れたら、後ろで眠れるんだが……)
周囲には死霊がいると警告されている。しかし、シャイードの目にはのどかな湿原が広がっているだけだ。
どうしても気が緩んでしまう。
(何かあれば、ラザロが言うだろうしな)
少しだけ目蓋を閉じてみる。それから開いた。
馬はきちんと黒馬の姿を追っており、特に問題はなさそうな気がした。
うつらうつらしはじめたところで、アルマが脇腹をまさぐってきた。絶妙にくすぐったくて、背筋がピンとなる。瞬時に目が覚めた。
「起きろ、シャイード。眠ってる場合ではないぞ」
「起きてるっつーの! くすぐるのを止めろ!」
小声で文句を言いながら、背後を振り返る。だがアルマも後ろを見ており、シャイードの反論は聞いていない。
「何だ、おい!?」
「……イールグンドがおらぬ」
「は?」
シャイードは上体を少し傾け、アルマ越しに背後を見た。
「マジだ」
どこに行った、と周囲を見回す。見晴らしの良い場所だ、そうそう見失いは……
「いた!」
左後方だ。馬を襲歩させ、飛ぶように湿原を渡っていく。距離が開いていくと、彼我の間にうっすらと漂う霧のせいで、その姿はますます見えづらくなった。
「どうしたんだ、あいつ……!!」
「わからぬが、このままでは見失う」
「まずいな。大声を出すわけにはいかねぇし……」
考える暇もない。とりあえず、慎重に進んでいるラザロにはすぐに追いつけるだろうと踏んで、シャイードはイールグンドを追うことにした。
「もしかしたら、死霊の影響を受けているかも知れねえもんな」
「うむ。ラザロとディアヌよりも、あやつを孤立させる方が危険であろう」
シャイードは馬に拍車をかけ、めいっぱい走らせる。
だが、距離が縮まらない。湖沼も邪魔だ。
「くっそ! こっちは二人乗りだし、あっちのが技量が上だし……っ! アルマ、なんか、魔法はないのか?」
「”なんか”と言われてもな。我はイールグンドに危害を加えられぬ」
「こっちの馬の足を速くするのとか!」
「それならば、時空を操る加速の魔法か、肉体を強化する俊敏の魔法か。他にも我らの体重を軽くする、あるいは馬の」
「どれでもいいから!」
シャイードの命を受け、アルマは詠唱を始めた。その間にも、シャイードは白い姿を見失わぬように目をこらしつつ、沼を避ける。
……と、目の前に突然、大きな沼が出現した。水面に細かな苔が浮かんでおり、直前まで草地に見えていたのだ。
「ぅわっ!! 間に合わん!!」
「手綱を引くな、そのまま行け!!」
いつの間にか詠唱を終えていたのか、アルマがシャイードの手を押しとどめた。
「ば、馬鹿!! 沼に落ちっ!!」
そのまま真っ直ぐ、水に突っ込む!
――と思いきや、馬は跳躍した。
「ぅわわむごっ」
驚愕のあまり悲鳴を上げそうになったシャイードの口は、アルマの手で塞がれる。馬は軽やかに空を飛び、大きな沼を悠々と飛び越えて対岸に着地する。
続けて、風にように走った。
「もごっ!」(速い!)
「もごご! もご、もごごっごんご?」(アルマ! お前、なにやったんだ?)
「全部載せした。その代わり、短時間で効果が切れる」
「もーごっ!」(充分!)
栗毛の馬は天馬のごとく空を駆け、イールグンドの背を捉えた。
すぐに疾駆する彼の隣に並ぶ。
「おいっ! イールグンド! 止まれ!!」
「シャイード!?」
イールグンドは振り向いて驚愕する。その瞳に、狂気があるようには見えない。だがエルフは速度を落とさなかった。いつの間にか湿地は背後に遠ざかり、木々の間を走っている。
シャイードの馬の速度が落ち始めた。魔法の効果時間が切れかかっている。
「くっ! とにかく止まってくれ! 話を」
「駄目だ! 見失ってしまう!」
「何を!?」
「キールスだ!」
その必死な言葉に、シャイードは絶句する。正面を振り返った。霧の向こうから、木々が次々と現れては、高速で左右に分かれて背後に飛び去る。
イールグンドの馬が、前に出て行く。
「チッ。こうなったら!」
シャイードは馬の鞍に立ち上がり、バランスを取った後で、イールグンドの馬に飛び移った。
「うわっ!」
「馬を止めろ、イールグンド!」
突然、斜め後ろから飛びつかれ、イールグンドは驚く。だがそれ以上に、馬が驚いて暴れた。
イールグンドは手綱をさばき、エルフ語で必死で馬をなだめる。馬は走るのを止め、ピョンピョンと跳ね回ったが、次第に落ち着きを取り戻していった。
「何という無茶をしてくれるのか!」
イールグンドが怒りを露わにした。しかしそれでも、シャイードを振り落としたりはしない。
「アンタこそ、場所を考えろよ! 大体、キールスがいたってのは」
シャイードが質問しかけたとき、二人の横を、アルマを乗せた馬が走り過ぎていく。
「あ……」
シャイードはしまった、という顔をした。イールグンドは馬を見送った後、シャイードの表情を見、馬の腹を蹴った。
結局、イールグンドが栗毛の馬をなだめ、森の中で三人は馬を下りる。アルマは枝に服を引っかけ、長衣に派手な破れを作っていた。
「酷い目に遭ったぞ、シャイード」
「うん。一瞬、お前の存在を忘れたわ」
シャイードは視線を逸らしつつ述べる。悪かったとは思うものの、謝るのは得意ではない。
アルマは目を閉じた。
怒ったのだろうか、とシャイードは首を傾げたが、白馬の首を撫でているイールグンドに向き直る。
「キールスがいたってのは、本当か?」
「嘘をついてどうする」
イールグンドは馬の方を向いたまま答えた。
「だが、アンタが馬を走らせていたとき、霧の向こうには何も見えなかったが」
「歌が聞こえていただろう?」
「歌?」
シャイードが眉根を寄せて聞き返すと、イールグンドは顔だけを相手に向けて深く頷いた。
「あれは間違いなく、キールスの声だった」
シャイードは困惑し、首の後ろに右手を当てる。
「俺には何も……。アルマ、お前、何か聞こえたか?」
「……」
アルマは目を閉じたまま答えない。
やっぱり怒っているのかも知れない。
シャイードは唇をへの字にしたが、自分が悪い自覚があるので何も言えず、イールグンドに視線を戻す。
イールグンドは、ハンターグリーンの瞳で森の奥を見つめていた。何かに耳を澄ませているようにも見える。
シャイードも改めて、耳を澄ませてみたのだが、歌のようなものは何も聞こえない。
「……。ともかく、一度戻ろうぜ。ラザロにも相談して……」
「シャイード。残念なお知らせだ」
イールグンドに語りかけるシャイードの背後で、アルマが唐突に言葉を発した。
「え?」
シャイードは振り返る。だが、聞き返す前にハッと身を硬くして剣の柄に手を掛けた。
――強い殺気を、肌に感じる。




