”おこりんぼ”
川が途切れる。そこでシャイードとイールグンドは位置を入れ替え、一行は霧の中を進んだ。川を渡ってからというもの、馬の蹄はふわふわとした草を踏んでいる。
ぼんやりとしていたディアヌは、少しずつ先ほどのことを思い出してきた。
(私、確か川の中に宝石を見つけたんだ。それを拾いに行って……、拾って……。そこからは覚えていない……)
けれどずぶ濡れになっていたシャイードや、不機嫌そうなラザロの表情を考え合わせると、どうやら相当な失態を演じてしまったらしい。
拾ったはずの宝石は、どこにもない。冥界に幻惑されたのだろう。
ディアヌは頭を垂れた。
とても恥ずかしい。
(しかも、死霊術師なんかに助けられてしまった。罰すべき罪人に! ううぅっ……)
ラザロの蔑むような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
「嫌みの一つも言われた方がマシでした」
ごくごく小さく独りごちたつもりだったが、相手は聞き取ったようだ。フードを被った頭が、少し動いた。
「下らん」
ラザロは一言で切って捨てた。
しかしディアヌは、相手が返事をしてくれたことに、僅かな喜びを感じている。無視をされるよりずっといい。
ディアヌはラザロの細い腰に回した手を、軽く握った。
「借りは返します。……必ず」
「不要だ。貴様に期待するのは、吾輩のすることに目を瞑り、口を塞ぐことだけだ」
「それは出来ません。悪行から目を背けるなど」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい! 善も悪も、主観でしかない」
「いいえ。絶対の善や絶対の悪は存在します」
「……ふん。仮にあったとしても、貴様にそれを裁く権利はない。貴様とて所詮、欲にまみれた人間だ。吾輩と同じ、な」
「なっ……!」
ディアヌはカッと頭に血が上った。唇が震える。
「わ、私と、ラザロさんが、同じわけありません!」
「同じだ。貴様にも吾輩にも、手にしたいものがあるというだけだ」
(ひょっとして、さっきの宝石のことを言ってるの……?)
ディアヌは黙り込んだ。
(この人の中ではきっと、私は宝石に目がくらんだ愚かな女なんだろうな)
相手が反論できないと思ったのか、ラザロは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
くやしいが、その通りだ。
ディアヌは貧しさしか知らない。それを覆す術が目の前にあれば飛びついてしまう、弱い自分を初めて知った。
「……。村で貴様は、孤立無援で死霊に立ち向かっていたな」
「えっ」
突然転換した話題に、ディアヌは一瞬乗り遅れた。一拍遅れて頷く。直後にそれでは相手には見えないと悟り、「それが何か!?」と口にした。口調は尖っている。
「主観に従うなら吾輩は、愚かさこそ悪だと考えている。村人が仮に100人いたとしよう。我々がたまたま通りかからなければ、貴様は101人目の新たな死体になっていた。貴様が一人で逃げていれば、100人で済んだものを」
「でも実際は、違いました! 私が踏みとどまって戦ったから、神は道を開いて下さったのです」
「いいや。村人が助かったのは、吾輩たちがたまたま通りかかったからだ。神はまるで関係ない」
「私が諦めていたら、ラザロさんたちがたどり着いても、屍が重なるばかりだったでしょう?」
「そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬ。タイミング次第だ。そんなものは運でしかない」
「ではラザロさんは、全て運のせいにして諦めるんですか? 最初から何もせずに」
「そうは言っておらん。己の力量をわきまえろと言っている」
「私はあの時、何とかなると心から信じ切って!」
「それを愚かというのだ、小娘。貴様は何というか……、血気盛んすぎる。何をするにも後先考えずで、周りが見えずで、真っ直ぐで、一生懸命で」
ディアヌは戸惑った。瞬きを繰り返している。
「あの。……ひょっとして、褒めてるんですか?」
「褒めておるわけなかろう!! 馬鹿者が」
ラザロは苛々した様子で声を荒げた。といっても、彼の声はもともとぼそぼそとしているので、大声にはならない。
彼は咳き込み、肩を落とした。
「もう一日分以上喋った」
呼気と共にそう言ったきり、死霊術師は黙り込んでしまった。
ディアヌは、また一人きりになって考える。
(どういうこと? つまり、……私のことを心配してくれたの……?)
まさかね、と彼女は自嘲する。
(だとしたら、あまりにもわかりづらいもの。絶対に友達出来ないよ、この人)
ディアヌは怒れば良いのか、哀れめば良いのか、呆れれば良いのか、わからなくなった。
意志とは関係なく、頬は緩んでいた。
◇
「花の香りがする」
シャイードが呟いた直後、白い闇がすうっと左右に分かれた。カーテンが開かれたように、目の前の景色が露わになる。
湿地だ。
草原のあちこちに、無数の水たまりがある。むしろ、水の上にちょこちょこと草原があると表現した方が良いのかも知れない。
そこかしこに、桃色をした大ぶりの蓮が咲き誇っていた。草地にも、種類はわからないが白や黄や青の小さな花が咲き乱れている。
「冥界って、もっと荒涼としているかと思った。案外綺麗だな」
「現世界の景色と融合しておるから、どちら由来かはわからぬぞ。だが汝の言う通り、百花繚乱であるな」
「馬で行って平気か?」
「どうであろう。一見草地に見えて、その実、浮草ということもよくあるぞ」
「うえっ!?」
シャイードは馬の手綱を引いた。後続の仲間を待つ間、周囲を見回す。
穏やかな風が吹くと、小さな花が揺れるほかは、動くものの姿はない。
「湿原って、動物が沢山いるんだと思ってた」
「本来はそうであろう。だがここは、現世界と冥界が混じり合った不安定な世界だ」
「向こうに見えている影……? 尖った山みたいなのはなんだ?」
シャイードは行く手の霧の向こうに高くそびえる黒い影を指さす。アルマは帽子の鍔を持ち上げ、目を細めた。
「ふむ……。山か城かわからぬが、あそこが湿地帯と融合した冥界の中心だと感じる」
「じゃあ、ここを越えれば着くな」
「軽く言うものだ」
「飛んだらすぐなのにな」
「では元の姿に戻」
「しっ!」
シャイードは背後に頭突きして、咄嗟にアルマの言葉を遮った。アルマは「ぐぬ」と言ったきり、俯いて顔面を押さえている。
気配が近づき、霧を巻いてラザロの黒馬が現れた。ラザロは顔を上げ、胡乱な目つきで湿原全体を見回す。
「これはこれは。賑やかなものだ」
「え? あ……、綺麗ですね」
背後からディアヌも顔を覗かせ、景色に目を奪われる。
「まるで夢の中にいるみたい……」
「……。気をつけろ。姿を隠しているが、そこかしこに死霊の気配がある」
ラザロの言葉に、シャイードとディアヌは目を丸くした。行く先を見直しても、彼らの瞳にはやはり美しい湿原の景色以外に見えるものはない。
ディアヌが腰に下げた戦棍に手を伸ばそうとしたとき、ラザロが制止した。
「何もわざわざこちらから攻撃を仕掛ける必要はない。可能な限り、刺激せずに通り過ぎた方が良いだろう。いずれ、戦わねばならぬ時は来る」
それから彼はシャイードに顔を向ける。
「ここからは吾輩が先導しよう。なるべく死霊を避けて進む。奴らを刺激せぬよう、会話は慎め」
「わかった。でも大丈夫か? 隠れた沼もあるかもしれんが」
「ふむ。そうだな……」
ラザロは少し考えると、荷物を漁り、掌からはみ出る大きさのぬいぐるみを取り出した。
くすんだ色の布をつぎはぎにして作った二頭身で、頭頂から長い角が突き出ている。目は”猫ちゃん”同様、左右色違いのボタンで出来ていた。口であるべきところは、糸で×印が縫われている。猫ちゃんと違って、尻尾は丸い。
「な、なんですか? その汚いぬいぐるみは。鬼?」
「ふざけるな小娘。これはどう見てもうさぎだろう!」
「うさぎ?」
「……うさぎ?」
ディアヌとシャイードが異口同音に繰り返した。
そこに、イールグンドが追いついてくる。
「待たせたな。……ん? どうした、二人とも変な顔をして」
「いや別に」
シャイードは視線を逸らす。ディアヌは頬に両手をあて、表情を戻そうとした。
「名前は”兎ちゃん”か?」
いつの間にか復活したアルマが尋ねる。ラザロは唇を吊り上げた。
「ふん。吾輩がそんな単純な名付けをするものか」
「”猫ちゃん”は……?」
「こやつの名は”おこりんぼ”だ」
シャイードのツッコミは無視された。ディアヌが両手で顔を挟んだまま、ショックを受けた表情になる。
「なんでそんな変な名前を……」
「こやつに馬の前を歩かせる。浮草があればわかるはずだ。行け、”おこりんぼ”! 沼を避けつつ、吾輩の前を進め」
ラザロは気にせずに呪文を唱え、うさぎのぬいぐるみを地に放った。うさぎは両脚で着地したあと、とてとてと黒馬の前に出る。
「濡れてしまいませんか?」
「ふはは! 案ずるな。”おこりんぼ”はなんと、防水加工だ」
「ラザロって自作のぬいぐるみを披露するとき、輝いているよな」
シャイードはアルマに零した。




