進軍
アロケルの流れに沿って東へと向かった川船には、魔銃兵、重装歩兵、工兵が乗っていた。
先に帝都を発った第一陣で、これにロレンソに駐留する重装歩兵を加え、白雪川の手前に陣を張る予定だ。
北はサーペンタ海、南はフスフィック山脈に挟まれた農耕地で、農村が点在している。
騎馬民族ファルディアが西に進軍しようと考えたなら、進路を塞ぐように南北に流れる白雪川を渡河をせねばならない。渡河地点は限られる。
帝国軍の参謀本部がはじき出した渡河予測地点は、白雪川が三本に分かれる地点の数キロ下流だ。分岐点付近は岩がちで、馬での行軍は難しい。分岐点より南(上流)は流れが速すぎるし、北(下流)は海が切り込んできていて川幅が広すぎる。
ところが現地に到着してみて、この作戦には問題があることが判明した。
帝都に伝令が届いた時点で、ファルディア軍は三角州の一番東側にある都市、パタウ付近に到達したと聞いていた。パタウにも防衛のための戦力は置かれているが、予備的なもので、七千騎の手練れの弓騎兵を相手するには役者不足だ。救援は間に合わないと目されていた。
しかし蓋を開けてみれば、第一陣がロレンソに着いた時点でパタウは健在だった。
そうなると、白雪川の西側で渡河を阻止するのではなく、東側に陣を張り、川を背にパタウを防衛しなくてはならなくなる。
西側に陣を張れば、目の前でパタウが蹂躙されても救援できない。みすみす都市を見捨てたとあれば、辺境の住民からは、帝国への忠誠心は失われるだろう。
こちらが渡河しなくてはならないのだ。逆にそこを、ファルディアに襲撃されるおそれがあった。軽装の魔銃兵はともかく、重装歩兵を渡河させるには細心の注意が必要になる。
第一陣は、第二陣を率いるレムルスに、作戦の変更について是非を問う伝令を飛ばした。レムルスは軍師としてついてきた宮廷魔術師長のトゥルーリと相談の上、変更を選択する。前提条件が変わったなら、布陣も柔軟に対応せねばならない。
二人とも、大いに懸念を感じたが、苦渋の選択だ。
テーブルに広げた付近の地図に、木製のコマが並んでいる。第一陣はロレンソに到達。レムルス率いる第二陣は、ずっと後方のオルドラン平原を進軍中だ。
「パタウが無傷なのは喜ぶべきことなのだが……」
レムルスは眉根を寄せ、椅子に頬杖をついた。
「……敵に主導権を握られているのは癪だな」
トゥルーリは地図を睨んだまま頷く。さきほどまで軍議が開かれており、将兵たちもいた。今は彼だけが残っている。
「もとより、あちらが挑んできた戦ですからな。少しずつ覆すしか、ありますまい。なに、第一、第二陣を合わせただけでも、兵力はこちらがずっと上です。それに先代が考案した帝国必勝の陣形もありまする」
「うむ。……」
そう答えはしたが、レムルスの気持ちはあまり晴れなかった。
地図に視線を落とすと、パタウの東から南にかけては荒野が描かれている。地図の右下は巨大なミルダース湖で途切れていた。
パタウから真っ直ぐ南下すれば、魔物の跋扈する闇森と、その膝元である宵都トレビスがある。さらに南は地図外になるが、ザルツルードがあった。
ファルディアが南方向へ進軍するとは考えづらい。略奪できるものがないのだ。先代によって北東の痩せた土地に押し込められたファルディアが、兵糧を確保して攻め込んだ事例はない。彼らには西に進軍するしか選択肢がないはずだ。
「ファルディアは今、どこにいる?」
「ワイバーン隊の偵察によれば、パタウの南にある遺跡に、略奪した物資を集めているとのことです。接近しすぎれば射落とされるため、詳しくはわかりませぬが」
「遺跡?」
「ええ。崩れた岩が重なるばかりの土地のようです」
「……」
レムルスは唇に人差し指を横にあて、瞳を右上に動かした。
彼らは戦果に満足して、帰還するつもりかも知れないし、小休止を挟んでいるだけかも知れない。
前者であって欲しいとレムルスは思う。
「イヴァリスから何か連絡は?」
この問いに、老翁は目を閉じて首を振った。
レムルスは小さく息を吐いて肩を落とす。
(イヴァリス将軍。何があった……? どうして持ち場を離れたんだ)
そもそもイヴァリスの率いる部隊が、通常通りミルダース湖畔のカルス砦から周囲を哨戒していたなら、ファルディアはいつものように簡単に押し返されていたはずだ。
レムルスは燃えるような赤髪の偉丈夫に思いを馳せた。
イヴァリスは、ある時、先代皇帝が見いだしてきたという。若くしてその武勇はすさまじく、晩年の皇帝にとって右腕と言えるほどの存在だった。戦場で数多くの戦果を上げ、皇帝の最後の遠征にも同行した。
無口で無愛想なところがあり、誤解を受けやすい人物でもあったが、その実直で不言実行な態度に誰もが一目を置いていたのは確かだ。皇帝が亡くなった直後は、水面下で彼を皇帝の座に据えようとする動きもあったらしい。実は彼が、皇帝の隠し子ではないかという噂があったためだ。
しかしイヴァリスはそれを頑として断り、辺境へ去った。
有力貴族たちはその後も、力ある彼を取り込もうと画策を続け、彼の元へは縁談が引きも切らなかったという。
それに嫌気がさしたのか、イヴァリスはある日突然結婚した。
相手は二十歳ほどの華奢な女性だという。拝謁した者の話によれば、夫人は若いながらも気品と知性を兼ね備えており、さぞや高貴な出自であろうということだ。その一方で、奴隷商から買い入れた娘だという根も葉もない噂も流れていた。美形のイヴァリスを射止めそこなった令嬢たちが、嫉妬して流したものかもしれない。
当のイヴァリスは、結婚後も専ら辺境に身を置いており、帝都にはまれにしか姿を現さなかった。
(イヴァリスは僕のことを、認めてくれてないのかも知れない……)
トゥルーリも辞し、天幕にはレムルスと直属護衛官のクィッドが残された。いくらくつろいで良いと言っても、真面目な元剣闘士は聞き入れず、天幕の入口付近に控えている。
レムルスはファルディアを現す赤いコマを、パタウの東に置いた。
(自分が辞した皇帝の座に、まさか一番年下の、一番弱っちい僕が座るとは思ってなかっただろうし……。僕なんかのために働くのが、嫌になったのかな?)
イヴァリスを現す緑のコマを、どこに置けば良いかわからない。彼は地図上をうろうろとさせたあと、地図の外にそれを置いた。
(イヴァリスの助けなしで、早期に決着をつけることが出来るだろうか。勝ちを急いで兵に損害を出すことは避けたい)
”損害”などと軽く言うことすらはばかられる。それはすなわち、幾つもの死であり、それに数倍する家族の悲嘆なのだから。
レムルスの率いる第二陣は、主力が騎兵だ。本来は重装騎兵であるが、鎧と食料は川船で先々に運んでいる。こうすることで、ロレンソまでの行軍速度を上げ、兵馬の疲労を軽減した。
帝都のダルダーレン卿が指揮する輸送計画は完璧だ。必要な時に必要な量の物資が、適切な場所へと運ばれていた。
彼は能力がありすぎるゆえ、武官たちから評価されないのではないかとレムルスは訝しむ。ダルダーレン卿が六将の地位に就いてからというもの、帝国軍は前線で物資不足に陥ったことがない。
問題が起きないために、前線の指揮官たちはそれを当たり前と思って、気にも掛けない。有能な管理者に起こりがちな不当評価だ。いなくなってからでないと、その価値がわからないのだ。
(有能な彼ですらそうなんだ。まして僕のことなんて、誰も……)
「こらーーーっ! レムルス!! また心にいじけ虫が湧いてますわよ!」
唐突に、ユリアが現れた。トゥルーリがいる間は、じっと我慢していたのだ。
「ユリア……」
「やめて下さいませ。貴方がじめじめすると、わたくしまでじめじめしてきますわ。めっ、ですわ!」
「……ごめん」
ユリアは腕組みして、ふん、と鼻を鳴らした。
「貴方はちゃんとすごいですわよ。だって、貴方には見えていますものね。ダルダーレン卿の、強烈な個性の裏に隠された才能が。王様に必要なのは、武勇よりもそっちの能力だと、わたくしは思いますわ」
姉の言葉に、レムルスはふわりと心が軽くなるのを感じた。
「ありがと、ユリア。――ふふっ。貪欲卿なんて言われて、本人も否定しないもんな。お金と自分が大好きで吝嗇家だけど、仕事はきっちりだ。彼はすごいよ」
「まあ、レムルス。自分を好きなことは欠点ではございませんわよ?」
ユリアは胸を逸らし、そこに片手を当てた。
「わたくしだって、この愛くるしいわたくしのことが大好きですもの! それにもちろん、貴方のこともね?」
「うん。……知ってる」
レムルスは口元に笑みを結んだ。全身に温かい血が巡る。勇気が湧いてくる。
(ユリアがユリアを好きってことは、つまり、僕が僕をちゃんと好きってことだ)
「イヴァリスお兄様には、きっとなにか訳があるのでしょう。相手の気持ちがわからない以上、そう思っておくのがよいですわ。勝手に悪い方に捉えてはダメ。それでは以前の貴方に逆戻りですわよ?」
「そう、……だったね」
「不安に思うのは当然ですわ。わたくしも、戦なんて初めてですもの。でも貴方にはわたくしがついておりますし、わたくしには貴方がついておりますのよ」
ユリアは視線を転じた。
「それに、クィッドも。ねえ? そうでしょう?」
クィッドは姉弟の会話を頬を緩めながら聞いていたが、不意に話を振られて瞬いた。
だがすぐに力強く頷く。
「何があっても、自分は陛下をお守りします。この命に代えて」
「駄目ですわ! 貴方も絶対に死んでは駄目。これは命令ですからね」
「……。はい、陛下」
レムルスとユリアは、二人同時にほっとした。
初陣のレムルスにとっては当然、軍を指揮するのも初めてのこと。
ユリアが見透かした通り、畏れや不安がないと言えば嘘になる。けれど決して、兵の前で見せてはならない。それだけはよくわかっていた。
ただでさえ、頼りない皇帝だと思われているのだ。どんなに恐ろしくても、自分だけは平気な顔をしていなくてはならない。そうでなければ、誰も彼の後ろに続いてはくれないだろう。
幼さは何もせずとも年月が解決してくれる。だが、ひとたび臆病者の烙印を押されてしまったら、取り返すのは容易ではない。
神聖帝国グレゴールの皇帝になる道を選んだ時点で、初陣は、いつか成さねばならないことだった。覚悟はとうに出来ていた。
……そう思っていたが、実際は、本当に覚悟できたのはつい最近だと自覚している。
レムルスは目蓋を閉じた。
「僕は、負けられない」




