シルシ
ザルツルードの海上封鎖から九日が過ぎ、船内の空気は最悪になっていた。船長は、船尾楼の私室で軍団長を見送ったのち、悪態をつく。
「豆、豆、豆。また豆のスープか」
しかも今日のは塩漬け肉の一つも入っていない。最悪だ。口論のあとの口直しにもならなかった。
一口食べて放りだし、両脚を投げ出してクッションに凭れる。
「帝国の嘘つき野郎は喰えねえ奴だったが、持ってきた肉は美味かったなぁ……」
思い出すだけで口の中によだれが溢れた。それを手の甲で拭う。
「チッ。どうでもいいからもう、早く来やがれってんだ」
待つのはとっくに飽きていた。
必勝の手になるはずの”海の火”はまだ届かない。軍団長は動揺を隠そうと無駄な努力を試みつつ、もうすぐ届くと言っていた。だが、船長はもう、届かないだろうと踏んでいる。
誰かがどこかでヘマをしたのだ。
そうなると、少し戦術を変えねばならないだろう。軍団長にも、流石にそれはわかっているようだった。
(精々、兵隊どもに死んで貰うとするか。俺らの仕事は、操船だからな。最悪、ケツまくって逃げりゃいい。荷を捨てて喫水を軽くすれば、帝国の船艦はこの船に追いつけん)
”海の火”とやらで帝国艦隊を壊滅させられたなら、どれほど溜飲が下がっただろう。しかし、命あっての物種なのだ。命さえあれば、再び機が熟すときもあろうから。
(しかし……。どうにも胸騒ぎがしやがる。手下どもも兵隊どもも、口を揃えて妙なことを言いやがるし。戦う前からケチをつけられた気分だぜ)
ため息と共に、酒瓶を手に取った。軽い。振ってみたが、底の方で情けない音がしただけだ。
何度目かの舌打ちをした時、ドアがノックされた。
「入れ」
これ以上なんだってんだ、と苛立ちながら声を掛けると、現れたのはトルドだ。
「お酒をお持ちしました」
ナイスタイミングだ、と船長の心は上向いた。顔にも出たのだろう。おどおどした様子だったトルドが、ほっとして戸口を潜った。
下っ端の少年は、大ジョッキになみなみと注がれた火酒をテーブルに置く。そして自らを守るように、トレイを胸に抱いた。
船長はジョッキを手にし、喉を鳴らして呷る。美味い。思うようにならないことばかりの世の中で、酒のうまさだけは不変の救いだ。
ジョッキを置いて一息ついた時、少年がまだ下がらずにその場に立っていることに気づいた。
船長は片眉を上げる。ゲップが出た。
「まだなにか用か?」
「あ、はい。その……、大したことじゃないとは思うんですが……」
「前置きはいい」
視線を揺らしながら口を開いたトルドの言葉を、船長はびしっと遮った。トルドはごくりと唾を飲み込む。
彼は船長のテーブルの端に近寄り、椅子に腰掛けた。
「最近、同じ夢を見るんです、お頭」
「夢だぁ?」
「はい。……夢の中で、船内はがらんとしてるんです。雨の日みたいに、ちょっと薄暗くて。そんで、蟹とか魚とか、うろついてて」
「水の中ってことか?」
「あー……。そうかも知れません。息は出来るんですが。俺はお頭のところに、今みたいに酒を運んでます。そこの扉を開いて、窓から外を眺めているお頭に声を掛けるんですが」
言いづらそうに、トルドの言葉が途切れる。船長は眉根を寄せ、唇を引き結んで辛抱強く先を待った。
「髪の毛が長くて、海藻のようにうねった男が振り返ります。爪も長く尖ってて、指の間には鰭があって。肌は緑がかっていました。その男は、怒っているんですよ、お頭。海の男が、海上で死ぬなど許さぬ。水の下で死ねば、魂は我のものであるのに、と」
トルドは話しながら、船長の顔色を上目遣いにうかがった。船長の眉間も目蓋も、いつの間にか開いている。
「……それで?」
トルドは再び、喉を鳴らした。
「男は、『既に何度も徴を見せた。これ以上は嵐を起こして我が元に招く』と言ってて。俺には何のことだかさっぱり。夢はそこで終わるんですが、あんまりにも繰り返すもんだから薄気味悪くって」
「……ポントゥスだ……」
「えっ?」
畏れの混じった声音を聞き、トルドは素で驚いた。船長の表情はこわばり、どこか遠くを見る瞳になっている。彼は身につけていた光沢のあるサッシュを無意識に撫でていた。
「そうか。そうだったのか。酒が消え失せたのも、船員たちの不和も……引き返せという海神の警告に違いねえ……」
船長はどこか恍惚として述べた。その瞳が、トルドに向けられる。
「こうしちゃいられねえ。トルド、嵐が来る。操舵手に伝えて、今すぐに船を旋回させろ!」
「は、はい!!」
トルドは椅子から跳ねるように立ち上がり、扉に向かった。そこに、「待て!」と船長から声が掛かる。どきっと心臓が跳ねた。
嘘がばれたのか、と恐る恐る振り返る。笑みを浮かべる船長がいた。立てた親指を床に向けてる。
「それが終わったら、てめえはこの部屋に戻ってこい。今日からここで寝て、夢を見たら忘れねえうちに俺に教えろ」
トルドは瞬いたが、しっかりと頷く。あの船長が、ただの夢の話にここまで食いつくとは正直信じられなかった。
だがその変節は、船倉の男フォレウスが予告していた通りのものだったのだ。
◇
――次に船長に会ったら、こんな風に言ってみてくれ……
その言葉に続いたのは、『同じ夢を繰り返し見る』という嘘だった。フォレウスはトルドに、異形の神の姿を描写してみせ、船で起きている不可思議な酒や物品の紛失が、嵐の前触れであることを匂わせるようにと伝えた。
異形の姿は詳細に、しかし、あとのことはほのめかす程度で良い。何より、トルド自身に意味がわかっていない方がリアルに聞こえるだろう、と言うのだ。
船長は人に強いられた幻想よりも、自ら汲み取った意味を信じるはずだと。
「でも、あの疑り深いお頭が、簡単に俺の言うことを信じるかな……」
フォレウスはチッチッと目の前で人差し指を左右に振った。
「お前さんの言うことじゃない。神の言うことさ。シャーク船長はおじさんの見立てでは、ポントゥスの信者だな。それも割と熱心な」
「そうなのか? そんなん、聞いたことねえけど……」
「神を熱心に信じてるなんて、海賊船長としちゃちょっと格好がつかないとでも思っているのかも知れん。悪ぶりたい奴ほどそうさ。けれど、船長は腰に光沢のある白いサッシュを巻いていただろ? あれはポントゥスの神官が身につけるやつだ」
「へえ……」
「おっと? 半信半疑だな?」
見透かされ、トルドはばつが悪そうに髪を掻いた。
「だってよお……。あのお頭が……?」
「お前さんも、人の上に立つようになればわかるぜ? 重要な判断を下さなくてはならん機会が増えれば、何か心の支えが欲しくなるもんさ。じゃないと、選択が正しかったかどうか不安になっちまうからな。神の加護を信じるのは、不安を払拭するのにうってつけなんだよ」
「そんなもんかね? おっさんにも、なんか心の支えがあんのか?」
「ふふ、まあな。おじさんには嫌われたくない人がいてなぁ? 迷ったときには、そいつに嫌われない選択肢を選ぶようにしてるんだ」
照れたように視線を逸らす中年を見て、トルドはニヤリと笑って小指を立てた。
「そいつ女だろ? おっさんも隅に置けねえな」
「おいおい、大人をからかうもんじゃないぞ。……ごほん。まあ、ともかくだ。もしも『夢の話』に船長が乗ってこなくても、お前さんには何ら被害はない。そうだろ?」
「……。まあ、そうだな。それくらいでは怒られないと思うし」
「だろ? ま、やってみてくれや。駄目なら次を考えるから」
頭の後ろに手を組み、柱に背をつけて目を瞑ってしまったフォレウスを、トルドはじっと見つめる。
「おっさん。これ、俺たち全員のためになるよな? 船を沈ませないためって言ってたし……」
「ああ、なるよ。上手く行っても、船が沈まないって保証は出来ない。しかし、お前さんと俺が何もしなければ、この海域に船が沈むだけだ。それだけは間違いねえ」
「……わかった」
――こうしてトルドは、フォレウスの策に乗ったのだ。




