賢者と愚者
シャイードは心に誰かが触れるのを感じた。
反射的に、中を覗かれぬように固く閉ざす。
『怖れずとも良い』
脳裏に声が響いた。最長老と目が合う。そこでシャイードは初めて、相手が女性であることに気づいた。
『お主は、――人間ではないな? しかし妖精にも見えぬ』
「……」
シャイードは唇を引き結び、返事をしなかった。
『なるほど。とても重い秘密のようだ。お主の心の扉はまるで鋼鉄のよう。硬く、冷たい。ならば詮索はせぬ』
心をまさぐる魔力の流れが、身体から引いた。シャイードは小さく息をつく。
「妖精王よ、シャイードよ。なぜ、森の魔法を破った?」
最長老が口を開く。
シャイードは左足に体重を移動し、左手を腰に置いた。
「そんなの、ここに用があったからに決まってるだろ。お前らにもだ」
「口を慎みなさい」
長の隣にいたエルフが窘める。しかし、長は片手を挙げて抑えた。
「彼は王だ。王とは尊大なもの。それは、その肩に負う責務の重さゆえのこと。そうだな?」
シャイードは鼻を鳴らす。
「俺は俺だ。王であることは、目的を果たすための手段に過ぎない」
「なるほど。その傲慢さは、生来のものか」
最長老は目を細めた。笑ったようだ。
「実に興味深い。妖精たちがどうしてお主を王に選んだのか、気になるところではある。だがそれは別の物語なのだろう。お主は強引にも、静かに暮らす我らの領地に踏み入った。それに対する謝罪の気持ちはあるか?」
「ないね」
シャイードは即座に答え、肩をすくめる。
「使者として発った仲間を閉め出すような奴らに、何で俺が謝んなきゃなんねーんだよ」
この言葉に、長老会議のエルフたちはざわついた。
最長老だけは、手の甲を口元に当てて身体をのけぞらせる。
「ふ……、ふははは! なるほど。お主は我が同胞のために、それをしたのか」
「べ、別にそういうんじゃねーけど! そっちはついでだ! ついで!」
シャイードは急に、怒ったような早口で唇をとがらせる。片足を半歩踏み出した。
「つうか、アンタら、世界の危機だっつーのに、なに自分たちだけ家に鍵掛けて引きこもってるんだよ!」
「世界の危機? ……ああ、死霊たちのことか」
シャイードは頷く。
「イールグンドをレムル……、皇帝の元に派遣したのは、ニンゲンと力を合わせて事態を何とかしようとしたからだろ!?」
「いいや、妖精王。それは誤解だ。長老会議は若きエルフの熱意に折れただけ。そして熱意は無為に終わった。ゆえに我々は、より多くの同胞を守る道を選んだまでのこと」
「二人を見捨ててか!」
「我々は出て行く者を追いはしない。森を出ようとする者は、既にその心を病に蝕まれておるからだ」
この言葉に、ずっと後ろにいたイールグンドは静かに頭を垂れた。拳が強く握られる。
長は気づいているのかいないのか、構わずに先を続けた。
「森を出て行くエルフは、決して幸せになれぬ。我らは生まれた森で、木々の守人として生き、同じ土へと還るべき者。その円環から外れた者は、悩み、苦しみ、あがき、失望して、結局は教えが正しいことを身をもって知るのだ」
「愚かなことよ……」
長老会議の別のエルフが、最長老の言葉を受けて呟く。その他大勢も、小さく頷いている。
「『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』……ってか」
「その通り」
シャイードがうつむき加減で低く口にした格言に、最長老が深々と頷く。シャイードは顔を上げた。
「でもな、『本で読んだだけでは、本当に知ったことにはならない』って、俺の師匠は言ってたんだ! 転んだら痛いと知っていても、どこがどう痛むのか、どれほど痛いのかは、実際に転んだ者にしかわからない。わからなければ、怪我をした時にどうしたらいいのか、怪我をした者がどうして欲しいのかだってわからないからな」
「ではお主は、痛みを知るためにわざと転んでみせるのか? 違うだろう? 転ばなければ痛みを知ることもない。最期まで痛みを知らずに生きられるのなら、その方が幸せだとは思わぬか?」
「転ばずに生きるなど、誰にも出来るはずがない」
「我らには出来る」
最長老はきっぱりと否定した。
「お主の師が真に賢者ならば、お主が痛い思いをしないで済むように導くべきだったのだ。のう、妖精王よ。お主は、生き方がわからぬゆえに迷い、苦しみ、生まれてこなければ良かったと思ったことはないか?」
「……っ、それは……」
シャイードは言葉に詰まった。
最長老の言葉は、直感では違う、とわかっている。けれど、論理的な反論が思い浮かばない。
彼女の言う通り、誰だって痛い思いはしたくないだろう。落とし穴だとわかっていて、経験のためにわざと引っかかる奴などいない。生き方を教えて貰えるなら、もっと上手に、痛みを知らずに生きられるのかも知れない。
「何のことはない。生き方を知らぬお主には、転びながら生きる道しかなかっただけのこと。お主は何も、自分で生き方を選んだわけでではない、愚者よ。芋虫が、生まれた葉の上で、それしかないからそれを食べた、それと同じことよ」
「それは違うぞ」
シャイードが答えを見つけるよりも早く、背後から声がした。
振り返れば、鍔広の三角帽子を被った長身が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「こやつはちゃんと、自分で選んでここにおるのだ。無知がゆえに、森を閉ざすことしか選べなかった汝らとは違う」
「許可を得ずに動くな!」
駆け寄ろうとした武装エルフたちを、最長老は首を振って制した。アルマはもとより、恫喝にも動じる気配はなく、歩みを止めはしない。
「我が主はシャイードだ。我に命令できるのも、シャイードだけだ」
「お主は……?」
「我はアルマ。シャイードに所有されている」
「……奴隷か?」
最長老は穢らわしいものでも見るように、眉をひそめた。人間たちの行う”同族の所有”という悪行を、毛嫌いしている。
「いいや違う。語ることを禁じられておるゆえ、そのことは語れぬ。だが、別のことを語ってやろう。――汝らは世界に大きな争いや異変が起きる度に、森を閉ざして自分たちだけは安全にやり過ごしてきた。ゆえに、此度の異変をも、同じようにしか評価できぬのであろう。それこそ、愚者が経験からしか学べぬように。――だが、これは違うぞ、長命者たちよ」
最長老は険しい顔のまま、アルマの口元を見つめている。アルマの顔の上半分は、大きな黒い鍔に隠されて見ることが出来ない。
彼女は先ほどから、魔力の腕を伸ばし、この奇妙な男の正体を探ろうとしていた。だが、探れない。一定以上、近づくことも出来ぬし、相手からは魔力を感じるのに命の巡りを感じない。取り巻く魔力には色がなく、何の情報も得られない。
全てを隠蔽しているのだとすれば、とんでもなく高位の魔術師だ。
そうでないとしたら……、――異形のバケモノだ。
最長老はその長き生の中で、実に久しぶりに、背筋に恐怖の冷たき手を感じていた。
「汝らも、ニンゲンたちも、死者ですらも、みな同じ盆の上に載っておる。そこでいかに目を閉じ、耳を塞いでうずくまろうと、盆がひっくり返れば全てが無に還る。今はそういう瀬戸際なのだ。そして」
と、アルマはついにシャイードの隣に並んだ。
「我が主はその事実を認め、しかして実現するを認めず、滅びに抗う道を選んだ。支配下にある妖精たちのためだけでなく、この世界に在る全ての生き物のために」
「そんなんじゃねーけど……っ」
シャイードはアルマの大げさな物言いに耳まで赤くなり、小声で反論した。しかしその声は、アルマにしか聞こえなかった。
「こやつはこの通り、とても年若い。幼いと言っていい。むしろ、汝らから見れば、生まれたばかりの赤子と何ら変わりはないであろう」
「……んだと!?」
今度の反論は全員に聞こえた。だがアルマは気にせずに先を続ける。彼は右腕を持ち上げ、真っ直ぐに最長老の額を指さした。顎を僅かに持ち上げたため、アルマの右の瞳が帽子の下から覗いた。
そこに渦巻く深淵を覗き見て、最長老は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「それでも、汝らよりもよほど現実が見えておる。賢く、勇敢だ。対するに、汝らは一体何をしておるのだ、愚か者ども。世界を見よ。そこに円環を見いだすのなら、自らの身体で感じてみせよ。――全ては繋がっておるのだ。例外はない。環のどこかがちぎれたなら、汝らもまた、等しく滅びの道を歩むことになるであろう」




