エルフの郷
”迷い森”の魔法が消えたことに、キールスは敏感に気づいた。勢いよく顔を上げる。瞳に光が戻っていた。
森の外からシャイードの挙措を観察していたラザロも、状況からこれを察した。
「おい貴様。もう一人のエルフを呼び戻してこい」
ラザロは近くにいたキールスに命ずるが、エルフは一度首を振って、視線を右方向に送った。
「その必要はないよ」
ラザロがそちらへ目を転じると、イールグンドが駆け戻ってくるところだ。
「今、森の魔法が!」
「シャイードが壊したようだ」
近くへ来て手綱を引いたイールグンドに、ラザロが前方に顎を突き出しながら答える。
「なんだと……」
イールグンドは驚愕し、森の中で会話をしているシャイードとアルマを見遣った。その後、キールスに目を向ける。キールスは視線を合わせず、馬首を巡らせて森に入っていくところだ。
「一体、どうやって……」
「魔法剣を振り回していたようだがな。やれ、ともかくこの雨から逃れられるのは助かる」
ラザロも馬の手綱を操り、木々の中へ分け入っていく。
残されたイールグンドは、緩く首を振った。長老たちが儀式をもって発動させる”迷い森”は強力な魔法だ。魔法剣で斬ったなどと、にわかには信じがたい。
(だが、この場は助かった)
イールグンドもみなの後を追う。
森の中ではキールスが先頭に立った。
雨は密に茂った葉に遮られ、ほとんど彼らの身体に触れない。地面には枯れ葉が積もっており、樹木の表皮を伝い落ちる流れがその下の土をぬかるませても、馬の歩みに影響はなかった。
細い獣道だ。起伏は緩く、木々が左右交互に分かれては流れゆく。
先行する白い馬の尻を追いながら、シャイードの心はふわふわと眠りに誘われていた。馬は操らずとも先行する白馬の後を追っている。フォスが照らしているので、足元もよく見えているようだ。
単調な揺れ。遙か頭上で葉を打つ雨音。光に照らされて初めてこの世に存在し始めたように、現れては消え去る木々の列……
まるで現実感がない。肉体と魂が切り離され、どこか静かな場所からこの様子を見ているみたいだ。
唐突に、背後から強くのしかかられて目を覚ました。
「ぶべっ! なにす……」
アルマの奇行に怒ろうとして、横木が頭上を流れていったことに気づく。かばって貰わなければ、頭を打っているところだ。
揃って身を起こした後、シャイードは頭を振った。
「悪ぃ。寝てた」
「我は自分がぶつかりたくなくて避けただけだ」
目をしばたたかせながら呟くと、いつも通りの平坦な口調が返った。
シャイードは鼻から長く息を吐き出す。左手で腰を叩いた。
「眠いし、ケツも腰も痛ぇ。腹も減ってきた。あとどれくらいなんだろうな」
「……」
アルマが口を開きかけて閉じた。主の頭を見下ろしていた視線を、真っ直ぐに前に向ける。
シャイードもほぼ同時に異変に気づいていた。
高い風音が鳴り、すぐ隣の幹に何かがぶつかった。続いて聞こえるびぃん、という小さな震動音。見ずともわかる。矢だ。
馬が足を止める。
キールスが右の掌だけをこちらに向け、エルフ語で前方に向けて何かを叫んだ。
すると、木々の間に幻のように人の姿が現れる。いや、エルフだ。
矢をつがえた弓をこちらに向けた姿が、そこかしこにあった。
(いつの間に取り囲まれていた……!?)
うとうとしていたとはいえ、直近までまるで気配を感じなかった。シャイードはいつでも動けるように身体を緊張させ、視線だけを動かす。
エルフは彼らの言語でキールスに向けて何かを問い、キールスが答えている。
同胞であるはずだが、双方の声音が妙に緊迫していた。
「”迷い森”の魔法を破られたことで動揺し、警戒に当たっていたようだな」
アルマが背後からささやく。
「お前、エルフ語がわかるのか?」
「読むことは完全に出来る。会話は、直に耳にして言語と照らし合わせが完了したものだけは」
言葉を交わすうちに、エルフたちは弓を下げた。キールスが背後を振り返る。
「問題ない。ついてきて」
「お、おう……」
シャイードは詰めていた息を吐き出し、馬の腹に踵を当てた。
エルフの集落に着いたのは夜も更けた頃合いだった。雨は止んでいる。
シャイードたちは武装したエルフたちに先導されながら門をくぐり、兵舎か倉庫のような大きな建物の前を通過した。川に掛かる橋を渡り、小さな滝を斜めに横切り上っていく。
たどり着いた広場には光精霊が飛び交い、未だ多くのエルフの姿があった。周囲にはポールが立ち並び、張り渡された蔓の上には花々が飾られている。広場の中央には高い櫓が組まれていた。
夜風に混じる、花の香りがかぐわしい。
広場のエルフたちは、外に出ていた者たちと違い、武装をしていない。けれども彼らは、ほぼ全員が手練れの精霊使いだ。非武装だとて、無力ではない。
エルフたちは一様に薄い色の長髪で、ほっそりとして優美な姿をしていた。
(ぱっと見、男女の区別が全くつかねえ……)
男性も女性も中性的で整った容姿をしている。さらに、性差が感じられない似たような衣装を身に纏っているのだ。これが人間の男女なら、体つきや顔つき、胸の有無で見分けられるのだが、エルフの女性は胸がほとんど発達していないようだ。
みな、似たり寄ったりの年齢に見えるし、子どもや老人の姿もなく、不思議な空間だった。
広場の奥に木造の、ひときわ大きな神殿めいた建物があり、その前に数人のエルフが並んでいる。
隊列はそこへと導かれて止まった。
キールスが下馬したので、他の者もそれに続いた。
武装エルフは各々の馬を預かり、二手に分かれて一行の左右を固めた。隊長らしき人物が、待ち構えていたエルフたちのうち、真ん中に立つ一人に何かを報告する。
するとその人物は、シャイードの方を見た。
「”迷い森”の魔法を破ったのは、お主か?」
いささか古風だが、流暢な共通語だ。
「ああ。そうだが」
「近くへ」
シャイードは迷い、斜め前に立つキールスを見た。キールスは肩越しにシャイードを見つめ返しており、小さく頷いている。
シャイードは覚悟を決めると大股に歩を進め、一群の長らしき人物の前に進み出る。フォスも一緒についてきた。
若々しく見えた長だが、会話の出来る距離までやってきて、そうではないのだと気づく。瞳に、重ねた齢が見える。目尻には僅かに皺があり、髪の色は艶がなくあせていた。
最長老はじっとシャイードを見つめたあと、右手を差し出した。中指に大きな指輪をしている。
「マントの下の小剣を、よく見せて貰えぬか」
「……」
シャイードは唇をへの字にしたが、ハーフマントの左側を肩の上に跳ね上げ、右斜めを向いた。
「おお……。その剣……、その魔力の輝き。知っておる。形こそ違えど、それは妖精王の」
最長老の背後に並び立っていた長老たちは、エルフ語でひそひそと言葉を交わした。
シャイードは息を吐き出した。前に向き直り、姿勢を正し、顎を引く。
そして自由な左腕を水平に薙いだ。
「いかにも。俺は当代の妖精王、シャイードだ!」
凛とした声で、高らかに告げる。
「嘘でしょ……」
ラザロが素に戻った声で顎を落とす。その隣で、ディアヌは話がよく見えていない。綺麗な人々に囲まれて、緊張した様子で周囲を見回している。
イールグンドは驚いた顔をしたが、すぐに納得の表情になった。彼はキールスの方を見遣ったが、相棒は既に前を向いていたので何を思ったかはわからない。
アルマはいつも通り無表情だったが、わずかに顎を持ち上げた。その目は、まぶしげに細められ、僅かに口角が上がっている。




