不和の種
トルドはここ数日で、船の中が急速にギスギスしてきたように感じていた。船長も苛々としている。船尾楼にある船長室に食事を運んだ際、軍団長との間で口論になっているのを耳にした。
何かが計画から外れているらしい。
届くはずの荷が届かないようなことを小耳に挟んだ。
それと時を同じくして、酒が不足してきたという。酒樽は充分な数を積み込んでいたはずだ。それに、最初の頃、拿捕した船からも略奪している。
こんなにすぐに足りなくなるはずはないのだが、実際のところ足りなくなっている。料理人たちは、理由に心当たりがないというが、何かを隠しているような気がする。
それを言うなら、誰も彼もが何かを隠しているような気もした。
幽霊を見たと噂する者たちもいた。音もなく夜中に徘徊する白い影だ。視界の端を横切ったように思えて後を追っても、通路には誰もいない。
恐怖で寝込んだ者もいる。
獣人兵と海賊の間には、溝が出来ていた。
いや、溝は最初からあったのだが、それは単に、お互いに干渉しないという暗黙の了解だった。
ところが今は、お互いを忌ま忌ましく思っている。
きっかけは、ある海賊のポケットから、獣人兵がなくした装飾品が出てきたことだ。盗みを疑われた海賊は言いがかりだと突っぱねた。事実だとしても認めるわけがない。船上で盗みを働けば、海賊の流儀で処罰される。大抵の場合は、無人島への置き去り刑だ。
結局、口論はとっくみあいの喧嘩になり、両者は船長によって船から投げ落とされた。乗組員同士の正式な決闘は、陸上でのみ許される。だが今は、上陸できる状況ではない。故に船長は、「陸まで泳いでいけ」と言ったのだ。
以後、喧嘩はなくなったが、同様の事件は続いた。海賊も獣人兵も、互いへの不信を深め、かといってそれを荒立てることも出来ずに苛々していた。
何もしていないトルドに、わざとらしく身体をぶつけてくる獣人兵もいた。一度や二度ではない。謝罪するでもなく、倒れるトルドをせせら笑った。
(酒の割り当てが減って、みんなイライラしてるんだ)
トルドはそう考えた。仲間であるはずの海賊の方は、元からトルドに優しくない。それがさらに悪化した。苛立ちをぶつけるのに丁度いいのか、何かと文句を言われるし、たいした理由もなく殴られる。きつい仕事ばかりを押しつけられる。それも休みなくだ。
だからトルドは、隠れて仕事をさぼるようになっていた。
丁度いいのは船倉だ。そこには帝国軍服を着た怪しい奴が捕らえられていたのだが、彼はトルドに優しかった。
トルドの身の上を聞いて同情してくれたし、陸での面白い話をいろいろ聞かせてくれた。
いつの間にかトルドは、このやさぐれた中年男が好きになっていた。
料理人が食材を取りに降りてきたときも、トルドがさぼっていることがばれないように、樽の陰に隠れていることを黙っていてくれた。
そうだ、思えば彼は、最初から優しかったではないか。お腹を空かせたトルドに、美味しい食事を分けてくれたのだ。
「なあ、おっさん」
「ああ?」
「手首さ。ずっと縛られたままじゃ、痛いだろ? かくまってくれたお礼に、俺……、切ってやろうか?」
申し出を聞いた男は、柱に後ろ手に縛られてあぐらをかいた姿勢で、樽の上に座っているトルドを黙って見上げた。
「疑ってんの? 誰にも言いつけたりしねーよ」
「いや。別に疑っちゃいない。お前さん、良い子だなぁって思ってな」
「なっ……! 勘違いすんじゃねえ! 俺は借りを作りたくねえだけ! 良い子とか」
生まれてこの方、初めて向けられた言葉だ。トルドは頬を赤らめ、そっぽを向いた。
フォレウスは肩を揺らす。
「ふはっ。お前さん、俺が知ってる奴にちょっと似てるわ」
「知らねーよ! で? どうするんだ? 今なら……」
言いながら男に向き直ったトルドは、目を丸くした。フォレウスは腕を前に出し、肩の高さに掲げている。左右の手首は離れていた。それぞれに、ロープが巻いてあるだけだ。
「……え? どうやって? いつの間に!?」
「ここに入れられてすぐにな?」
フォレウスは、ナイフで縄を切ってそれぞれの腕に巻き付け、人が来たときにだけ後ろ手に合わせていたことを語った。
「切るって! 刃物なんてどこにも……」
「ああ。それならお前さんから失敬しただろ。最初の日にさ」
「……。……あっ!」
そうだった。フォレウスに腰紐を引かれたとき、驚いて彼の首にナイフを突きつけた。それを彼に奪われて、その後は食事に目がくらんですっかり忘れていたのだ。
トルドは顔に手を当てた。
「やべえ……。お頭に知られたらどちゃくそ怒られる……! 腹を蹴り飛ばされるだけじゃすまねえかも」
「あっは! 今更なにを言ってるんだ。俺を自由にしてくれようとしたくせに」
「そうだった……」
トルドは手を下ろした。本当に今更だ。
「じゃあおっさん、大人しく縛られてるふりしながら、船倉をうろうろしてたのか……?」
「古い船には、幽霊が出るもんさ」
「!! まさか、うろついていたのは船倉だけじゃねえの!? ……ぶっは!! あはははは!!! なんだよ、そういうことか……!!」
トルドは樽の上で、腹に手を当てて足をばたばたさせて笑い転げた。自分を虐めるいい大人たちが、真剣に幽霊について話し、おびえた顔をしていただけに痛快だった。
「あー、腹痛ぇ!! つっか、何やってたんだ?」
「ま、いろいろとな。トイレも勝手に使ってたぜぇ? みんな、誰か他の奴がシモの面倒見ているんだろうと思っているようだがな。例えばお前さんとかが」
「俺もそう思ってた……。だって、まさか……」
トルドはフォレウスの手首に視線をやった。フォレウスはまんざらでもない表情で、自由な両手を持ち上げて揺らした。
「ははっ、だろうな」
「それにしたって、よく船員たちに問い詰められなかったな。帝国の軍服じゃ目立つだろ?」
「拝借したシーツを被っていないときには、この上着を脱いでな? 袖で腰に縛るとわからんもんよ? ポケットに入ってたハンカチで他の奴らみたいに髪を隠してな。それに海賊の傍を通るときは獣人兵のふりを、獣人兵の前では海賊のふりをしてたからね、おじさんは」
この言葉にトルドは心底感心した。仲間意識のない二つのグループが存在するこの船だからこそ出来る、実に堂々とした潜伏だ。お互い、別のグループの者には干渉したがらないから、多少見た目に違和感を覚えても話しかけたりしないだろう。
心理の裏を巧みにつくこの技術は、どこで身につけたのだろう、と少年は好奇心を抱いた。
「酒が足りなくなってるらしいけど、それもおっさんが何かしたのか?」
フォレウスは瞬き、顎を手で撫でてニヤリと笑った。
「海の上じゃあ、ストレス解消は酒に頼るしかないだろ? それが足りないとなったら、まあ、いらつくだろうね」
トルドは瞬く。そして倉庫内を見回した。この区画は水面下だ。海上ならばいざ知らず、酒を外に投棄できそうな開口部などありはしない。また、目の前の男に、酒の入った酒樽を一人で階段の上に運び上げる力があるとも思えない。
「一体どうやって……? 全部飲んだわけじゃ、ねえよな」
「あっは! 俺を多頭竜か何かだと? ま、少しは頂戴したがね」
「なあ。教えてくれよ! どうやって消したんだ? 気になって眠れなくなっちまう」
トルドは樽の上から身を乗り出し、唇を突き出した。子どもらしい愛嬌で秘密をねだる作戦のようだ。フォレウスは口元を緩めながら小さく首を振った。
「手品ってなぁ、種をしらない方が楽しいもんさ。お前さんだったらどうやってこの密室から酒を消せるか、考えてみると良いさ。……それよりお前さん、船長室にも入れるんだろ?」
「えっ」
トルドは面倒の気配を感じ、顔をしかめた。
「そう構えなさんな。なんも、『銃を取ってこい』なんて無茶は言わねえよ」
この言葉に、トルドは幾分ほっとした。
「まあ、入るだけなら。掃除だとか、料理を運ぶだとか、そういった雑用で入れるよ」
「ん。そしたら、俺の銃が、どこにあるかだけ調べて、教えて欲しいんだ」
「いいけど……。なにする気なんだよ。奪い返したところで、おっさん一人じゃどうにもできないだろ?」
フォレウスは首をすくめる。
「別に何も? ただ、船が沈むときに、そいつまで沈まれちゃあ困るからさ」
トルドは瞬いた。
「船が、沈む……? って、この船が?」
フォレウスは頷く。
「可能性の一つとして、だよ。おじさんとしても、そうはなって欲しくない。だが、このままではどうだかなァ……。酒や物がなくなって、船員たちがギスギスしたところで、船長が船を引かなければ意味がない」
「ちょ、待て! 盗難騒ぎもおっさんのせいなのか!? 意味がないならなんでそんなことを……。おかげでこっちまでとばっちりだ!」
驚いたトルドは樽から飛び降り、フォレウスに向かい合って片手を横に薙いだ。フォレウスは眉尻を下げて笑い、こめかみをかいた。
「そりゃ悪いことをしたな。……ところでトルドちゃん」
「ちゃんづけするなよ、おっさん! 俺は男だ!」
トルドは地団駄を踏む。
「はは、悪い悪い。なぁ、俺がつかまった日以降で、どこかで船が合流したとか、拿捕したとか、そういうことはあったか?」
「え? ああー……。いや、なかったと思う」
トルドは質問に別の質問が返されたことに、戸惑いながらも、素直に答えた。
フォレウスはニヤリと笑う。
「良い風が吹いてきたかも知れないな。いいか、トルド。お前さんに、この船を沈ませないための秘策を授ける。次に船長に会ったら、こんな風に言ってみてくれ……」




