死王の指輪
「あら? なんですの、アルマ。それは」
ユリアはぬいぐるみに興味を引かれ、つかつかとテーブルの傍まで歩み寄る。
手前にはシャイードが座り、奥にアルマが座っていたので、テーブルの角まで来てもぬいぐるみには手が届かない。
アルマはユリアに見えやすいよう、ぬいぐるみを持ち上げて差し出した。くすんだ緑をした毛むくじゃらの物体に、ボタンと糸で出来た顔があった。頭からは三角の突起が二つ飛び出している。
ユリアは頬に人差し指をあて、首を傾げた。
「……小鬼? それとも戯鬼かしら?」
「これは”猫ちゃん”である」
アルマがぬいぐるみの両手をぴこぴことさせて、後ろから言う。ユリアは目を丸くした。
「猫? でも、髭がないですわよ?」
「そこ?」
シャイードは思わず二人の間から突っ込んだ。むしろ猫らしさなど、三角の耳と尻尾くらいではなかろうか。尻尾はびっくりした猫のようにぶわっと膨らんだままだったが。
「あなたのぬいぐるみですの? アルマ」
「これはラザロだ」
「えっ?」
ユリアは混乱した。アルマが持ち上げたぬいぐるみを、まじまじと見つめている。
「ああ、つまりだな。その、……ラザロは探索の疲れが抜けないので、ぬいぐるみを代わりに寄越したんだ。それを使って、俺たちの会話を見たり聞いたり出来るらしい」
「! ま、まあ。そうでしたのね」
シャイードの補足を受け、ユリアは慌てた。眉尻を下げて、スカートの皺を伸ばすような仕草をしている。
ああ、そうか、とシャイードは思い至る。
レムルスが時々ユリアになることは、ほとんどの者が知らない。
ラザロにも知らせていないのだろう。
「レムルスも、今日は都合が悪かったみたいだな。俺たちの報告を、お前からアイツに伝えてもらえるか?」
「え……、ええ。そうですわね。弟にはわたくしから、しっかりと伝言いたしますわ」
シャイードが機転を利かせて申し出ると、ユリアはほっとした表情になり、シャイードの向かいに座った。クィッドは先ほどから、邪魔にならない場所に静かに控えている。
「ラザロ=ハザード、そこにいらっしゃるの? 初めまして。わたくしはユリア。レムルスの姉です。あなたとは一度、きちんとお話ししてみたかったですわ。次の機会には、きっとこちらにいらしてね?」
ユリアは、アルマとシャイードの間に座らされたぬいぐるみにむけて丁寧に挨拶をした。ぬいぐるみからは返答がなかったが、気にせず、シャイードに目を向けた。
「弟からお手紙のこと、聞きましたわ。地下に大穴があいていたのですって?」
「ああ。レムルスが推測した通り、またビヨンドが関わっていたんだ」
シャイードはユリアに、大穴での顛末を説明した。ユリアは黙って頷きながら、一通りを聞き終わる。
「危ないところでしたわね、シャイード。アルマもラザロも、ご苦労でした」
「我は裂け目を塞ぎはしたが、応急処置でしかない。何らかの力が加われば、再び裂けてしまうこともありうる状態だ。裂け目の原因を作ったビヨンドをなんとかせねばならぬ」
「蜘蛛の時のように、ですわね。心当たりはありまして?」
この質問に、シャイードとアルマは視線を交わした。
「心当たり……と言えるかはわからないが、アルマが冥界の死出虫を食べた」
「シデムシ……? 虫?」
ユリアは口をへの字にして、眉間に皺を寄せる。アルマは腕を組んだ。
「うむ。死出虫にはビヨンドの情報の一部が含まれていた。汝は”死王の指輪”について、何か聞いたことはないか?」
直後、シャイードは腿に何かが当たった気がして、視線を落とす。猫のぬいぐるみが倒れかかってきただけだ。
それを片手で戻している間に、ユリアがアルマに返答していた。
「わたくしは、聞いたことがありませんわ。その指輪がどうかなさいまして?」
「死出虫は死王の指輪に従っていたようだ」
「?」
ユリアが首を傾げる。
「ああー、つまりその死王の指輪とかいうものがウツシ、すなわちビヨンドの冥界での身体になっているみたいなんだ。指輪の力で、死出虫が操られていたとかで」
「そうなんですの? ビヨンドは身体を持っていませんの?」
「うむ。ビヨンドはこの世界とは理の違う別世界の存在で、この世界に影響を及ぼすためにはウツシという、かりそめの肉体が必要なのだ」
「その別世界というのは、幻夢界のような世界膜の向こう側という事かしら?」
「いや。汝が今いるここ、すなわち現世界と、世界膜を隔てた妖精界や幻夢界や冥界は、合わせて一つの世界なのだ。玉ねぎの皮が、幾重にも重なって一つの玉ねぎを構成するようにな。しかし、ビヨンドのやってくる異界は、玉ねぎの外側にある。それどころか玉ねぎと同じ物理空間にすら存在しない」
「難しいですわ」
「全てを理解する必要はない。ともあれビヨンドは、玉ねぎの皮をどろどろに溶かして玉ねぎではないものにしようとしている」
「わたくしたちは、がんばってそれを阻止しなくてはなりませんのね」
ユリアは胸の前で握り拳を作った。
シャイードは、無意識に頬を緩める。「わたくしたち」と、当事者意識を持ってくれたのが嬉しかったのだ。
「”死王の”とつくくらいですから、指輪は冥界神ヨルと関係があるのではなくて? 死者の眠りを守る神様でしょう?」
「ふむ。……しかし、神のリソースプールは冥界ではなく神界にあるはず」
「りそーす?」
「ええと、だな。冥界神ヨルは冥界にはいないんじゃないかと、アルマは考えていて」
「そうなんですの?」
「うむ。この世界にも、神は一緒に住んでおらぬであろう? 奇跡という形で、力を送ってくるのみだ」
ユリアは人差し指を頬において首を傾げた。
「そうですわね……。時折、降臨したという話は聞きますけれども」
「神は純粋な願いのエネルギーだ。本来は姿を持たぬはず。降臨したとするならば、人がそう願い、イメージしたのだろう」
「アルマ、お前だってエル……なんとかの降臨だとか間違われてたじゃねーか。そういう誤解が、一人歩きしてるのかもしんねーぞ」
「エルドリスか。美と芸術の神だな」
「そんなに似てるのか? コイツは」
シャイードは立てた親指を隣に向け、ユリアに尋ねる。ユリアは、帽子を取ったときのアルマを思い出し、頬を桜色に染めた。
「ええと……、そうですわね。エルドリスの神像を見たことがありますけれど、彼のようにとても髪が長くて、風になびく緩やかなローブを着ていらっしゃり、長いまつげを伏せて竪琴を奏でるおすがたでしたわ。お顔はとても整っておられましたけれど、アルマよりも全体的に中性的だったかしら」
「コイツ、少なくとも女には間違われないからな」
「ともかく、冥界神の本体は冥界ではなく神界にあるはずだ。だとすれば、死王というのが別におるのだろう。指輪があるからには、指はあるのであろうな」
「俺もお前も、死んだことはないからわからんな? ……あ」
シャイードは何かに気づき、視線を落とした。ぬいぐるみはソファの背もたれに頭を立てて寝そべる、ちょっと苦しそうな姿勢でいる。
アルマとユリアは、シャイードの次の言葉を待った。シャイードはぬいぐるみの胴体をつかんで持ち上げ、指さす。
「コイツ。……死者と交信できるラザロなら、知ってるんじゃねえ?」




