序章Ⅱ
クル・ハァンの街のはるかな高みにて――
――ついに、最後の決戦が行われようとしていた。
この地に立つまで、幾星霜。
世界の各地から集まり、個性的すぎるあまりにバラバラだった冒険者たちは今、ようやく心を一つにした。
世界の存続は、その命運は、彼らにかかっている。
もはや後戻りは許されない。
なんとしても勝たねばならない。
勝って帰らねば、待つのは破滅なのだ。
霧が不自然に渦を巻き、その向こう側で巨大な影が揺らめいた。高い位置にある六つの瞳が不気味に光る。
滅びの魔神の圧倒的な存在感に、大気が震えた。
「これが魔神なのぉ!?」
「大きい……」
弓聖の声が掠れる。隼の双剣士でさえ、珍しく言葉を失った。
「来るぞ!」
大魔女の鋭い声が背後から警告する。同時に、魔力の激流が彼らを押しながさんと襲い来た。
「神威の守護!」
板金鎧に身を包んだ聖騎士が、輝く大盾を大地に突き立てて叫ぶ。
「聖域!」
聖女も金の錫杖を天に翳して守護を願った。
魔神の放つ激流に、二種の防壁が抗う。その光に守られながら、神弓を引き絞った少年が同時に三本の矢を放った。
氷と炎、二つの刀を手にする剣士は、自らの肉体に強化の魔法を重ねて機会を待つ。大魔女は空中に複雑な印を結びながら詠唱した。
ただ一人。フードを深く下ろした大柄な男は、最後列で未だ静かだ。天球儀の魔杖を立てて佇んでいる。
風を纏った三本の矢が胸を貫き、魔神は苦鳴を上げた。守護の光が砕け散る直前、魔力の本流が止む。
「効いてる!」
緑の髪をした少年が、次の矢をつがえながら明るい声で仲間に告げた。
剣士は神速で魔神にせまり、左足に斬りつけた。そのまま驚異的な跳躍力で敵の腿、振り回された腕、肩へと華麗に身体を舞わせ、巨大な肉体を双刀で傷つけていく。傷口は焼かれ、また凍った。
たまらずに後退しようとした魔神の足元が、大きく崩れる。魔神は尻餅をついた。
「おぅおぅ。あんまり下がると浮島から落っこちるぞぃ?」
仕掛けたトラップに填まった魔神を見て、尖った耳を持つ小柄な大魔女はニヤニヤと笑う。彼女が指を鳴らすと、さらに石畳を割って巨大な茨の蔓が現れ、穴にはまった巨体を縛った。
聖女が、聖騎士が、好機とみるや攻勢に転じた。神聖なる雷が幾筋も降り注いで魔神の身体を打ちすえ、神の剣から放たれる真空波が切り裂く。
畳みかけるような彼らの攻撃が、身動きの取れない敵を傷つけていく。
彼らは勝利を確信した。
勝てる。
我らならば勝てる。
――ただ一人、最後列で佇む男だけは、油断のない瞳を魔神に向けていた。
巨大な魔神は、自らの身体に絡まった茨を引きちぎって起き上がる。双剣士は一度距離を取った。
最も接近していた彼が、最も早く異変に気づいた。彼は一瞬、手元の刀に目を落とし、魔神を見遣る。
「傷が、浅い? いや、むしろ」
嫌な予感がする。
弓聖の放った矢が、立ち上がる巨人の胸に向かうが、寸前で何かの力に弾かれてしまった。
「あれえっ!?」
緑髪の少年は、素っ頓狂な声を上げる。
「神性魔法も、まるで効きません……!」
先ほどは大ダメージを与えた雷の魔法が魔神になんの痛痒ももたらしていないことに気づき、聖女は焦りの混じった声を仲間に向けた。
「この僕の攻撃さえもだよ!」
手元で双刀を器用に回して、剣士が返した。魔神が巨大な腕を鞭のようにふるい、聖女を横薙ぎにせんとする。咄嗟に間に入った聖騎士は輝く盾を構えたが、二人はもろともにはじき飛ばされて悲鳴を上げた。
「くそっ!!」
弓聖は矢をつがえ、魔神の目を狙う。
「これでもくらえぇっ!!」
風を纏う狙い澄ました一矢が、魔神の片眼に過たず吸い込まれた! それなのに、矢は弾かれて力なく落下してしまう。
「なんで……うああああっ!!」
直後、魔神の口から放たれた気弾をまともに浴びて、少年は背後に吹っ飛ぶ。大魔女がフォローに入り、彼は空中で見えざる手に受け止められた。
「あ、ありがと。スタティラ」
「なんのこれしき、じゃよ」
彼を下ろすと同時に、大魔女は新たな詠唱に入った。彼女の詠唱を邪魔させぬよう、双剣士と弓聖は、攻撃で牽制する。やはり、ダメージが入らない。
「隕石招来!!」
大魔女が天を指すと、彼女の髪が、スカートが、魔力の奔流にはためいた。万色を含む黒に塗りつぶされていた天が渦巻き、中心に現れた隕石の雨が魔神へと降り注ぐ。
赤熱した隕石は魔神の身体を大きく抉り、浮島の大地を揺らした。敵が口を開くと、再び大気が震える。
「ほれみぃ! わしの魔法はまだ効く……」
だが、第二第三の隕石が次々に身体を打ちすえても、魔神はまるで揺るがない。大魔女は目を見開いた。
「なんじゃと!?」
直後、魔神が腕を胸の前で交差し、大きな身振りで開いた。
その身体から、風の矢が、炎と氷の斬撃が、茨の蔓が、神の雷が、真空波が一息に放たれる!
「きゃあぁあ!!」
「アイリス殿っ! ぐうっ!」
聖騎士は大盾を構えたまま手を伸ばすが、聖女はまともに魔法を受け倒れた。全身全霊で盾を支えている彼ですら、無傷ではいられない。気づけば仲間がみな、周囲で倒れている。
「今、某が回復を……」
「退け、ガーナード!!」
真後ろで、男が声を張り上げた。肩越しに振り返るとフードの魔術師が、杖を翳して左手で印を結んでいる。
ハッとして前に向き直った。魔神は組んだ両手を聖騎士の頭上に振りかざしていた。回避は間に合わない!
一瞬、死を覚悟した聖騎士だが、遅れて気づく。魔神の両腕は、見えざる力に留められていた。そうでなければ、ガーナードは圧倒的な質量に潰されていただろう。
聖騎士は目を見開いて、よろけるように数歩下がった。戦場において恐怖を感じたのは久しぶりだ。
「もはや我らでは勝てない。予定通り、決行する!!」
「!!」
聖騎士はショックを隠さなかった。しかし、次の瞬間には唇を引き締め、重々しく頷く。
彼は振り返って魔神を見上げながら、さらに下がった。覚醒の魔法を唱え、次々と仲間に触れていく。気がついた仲間たちは、何が起きたのかと周囲を見回した。
ガーナードは目を合わせ、頷く。仲間たちは顔を歪め、唇を噛み、目を伏せた。
彼らはよろよろと立ち上がり、朗々と詠唱を続ける偉丈夫の傍へと下がる。
「……きっと誰かが、わしらの意志を継いでくれようぞ」
大魔女スタティラが、ため息と共に言った。唇をとがらせた見た目は少女のエルフは、どこか拗ねているようでもある。
「ええ。瞬きの間にですわ」
聖女アイリスが眉尻を下げて微笑んだ。弓聖ウィルは顔をうつむけ、鼻をすする。その肩に、聖騎士ガーナードは片手を置いた。
「やれるだけのことはやった。皆を信じよう」
隼の双剣士メルヴィルは、胸元のロケットを握りしめて目を閉じていた。
「大丈夫、一時の別れだ」
程なくして詠唱が途切れる。英雄たちは、最後の仲間を見つめた。
「覚悟は……良いな?」
彼らはそれぞれのタイミングで、頷く。こんな時にも、ぴったり息は揃わない。
その様子に、フードから覗く術者の口元はわずかに弧を描いた。
「やってくれ、セイラン」
ガーナードがそう言うと、フードが縦に揺れる。
「……時楔!」
王国の民から預かった巨大な魔力が、魔杖を通じて流れ出した。時空を操る究極魔法が作り出す強力なフィールドは、魔神を包み、英雄たちを包み、最後には浮島全体を包み込んだ。
浮島は時を止め、次元の狭間に姿を消した。
――滅びの魔神、またの名を”厄災”。
魔法王国の一部の異端により、果てなき深淵から召喚されたとされる存在は、こうして歴史の舞台から姿を消す。
世界は危ういところで、滅びの縁から救われた。
地上に残された人々は、天を仰ぎ見、英雄たちが身をもって魔神を封印したことを知った。けれどもそれは、一時しのぎに過ぎない。
時の楔はやがてほどけ、魔神は再び目覚めるだろう。
彼らは時を稼いだに過ぎぬのだ。
それまでに、なんとしてでも魔神を滅ぼす、或いは送還する術を見いださねばならない。
しかし残された者たちの目の前には、猶予のない問題が山積みだった。厄災は世界中に大きな爪痕を残し、国や人々を滅ぼした。大気に満ちていた魔力が急減したのもこの頃からだ。
エンズフィールはその在りようを大きく変えようとしていたのだ。
滅びの危機に際し、一度は団結した国や種族も、時の経過と共にひとつ、またひとつと研究に背を向けた。
そしておよそ千年の時が流れた今――
未だ、魔神を送還する術は見いだされない。
島を訪れる者は、誰もいない。