冥界の甲虫
問われたアルマは、握った左手を、甲を上にして突き出した。そしてシャイードの目の前で手首を返し、ゆっくり開いてみせる。
シャイードだけでなく、ラザロも共に覗き込んだ。
アルマの掌には、石炭のような艶のある黒い塊が載っている。親指ほどの大きさだ。目をこらして良く見ると、表面に割れ目があった。石ではなく、甲虫だ。
「死出虫の類いか。少々変わっているようだが」
ラザロが言い、アルマは頷く。
シャイードは眉をひそめ、アルマの掌中の死出虫を人差し指でつついた。ぴくりとも動かない。
「死んでるのか?」
「これはあちら側の死出虫だ。だとすれば、もともと死んでおる」
「そういや穴に落下したとき、虫の飛び交うような羽音がしたんだ。コイツか?」
「おそらく。死出虫は腐肉を喰らい、死者を土に還す。現世界と冥界を繋ぐ虫なのだ」
「じゃあ、先ほどの破れって……」
何かを察した様子のシャイードに、アルマが頷きかけた。ラザロは目を細め、アルマの掌から死出虫をつまみ上げる。そのまま目線に翳した。
「なるほどな。死霊どもが急に活性化したのは、この場所と冥界が繋がってしまったからというわけか」
「やけにすんなり飲み込むんだな」
シャイードは腰に手を当て、片足に体重を掛けて首を傾げる。ラザロはゆっくりと一度、瞬きした。
「なにせ初めてのことではない。この地は昔から、冥界に近い場所だと言い伝えられてきた。死者が蘇りやすいのも、そのせいよ」
「聞いた話だ」
なるほど、とシャイードが頷く。伝承に詳しい吟遊詩人のセティアスが言っていた。帝国では死者が頻繁に蘇ることがあったから、土葬から火葬になった、と。
ラザロは甲虫をアルマの掌に返した。
「だが吾輩の知る限りでは、ここまで急激に死霊が増加することはなかったはずだ。冥界が近づくと蘇りが増え、遠ざかれば静まっていく……。その程度のことだったのだが」
「我の見たところ、破れはかなり大きかったからな。広範囲に現世界と冥界が混じり合った空間が形成されたのだ」
「急激に破れたのか?」
と、これはシャイード。アルマはそちらに顔を向け、「かもしれぬ」と答えた。
「以前も言ったが、アラーニェの親蜘蛛は一時的に穴を塞ぐだけで、世界膜の破れそのものを癒やせるわけではない。きっかけがあれば、縫った傷口が再び開いてしまう可能性もあるぞ」
アルマは甲虫を握り込み、長衣のポケットにしまった。後で喰うつもりだな、と視線で動きを追っていたシャイードは思った。
「畢竟、今は様子を見るしかないということだな?」
ラザロは足元を酒瓶を拾い上げ、鞄にしまった。先んじて踵を返す。
「大体のところは理解した。貴様らが、異界の門を閉じることが出来るとは驚きだったが。――皇帝陛下はご存じだったのか……?」
顔だけをシャイードとアルマに残したまま、そう言い残す。最後は独り言のようだ。前に向き直り、来た道を戻り始めた。
残された二人は顔を見合わせた。シャイードは口元に手を立て、小声になる。
「そう……いう、ことになるの、か?」
「間違いではないな。門ではなく、破れだが。加えて、我も理解したことがあるぞ」
アルマは歩き始める。シャイードは一つ瞬き、彼の後を追って並んだ。フォスもついてくる。
アルマの瞳は、ラザロの背中を見つめていた。シャイードは、肘でアルマの腕をつつく。
先を促されたと気づいたアルマは、一度だけシャイードに瞳を向けてまた前に戻した。
「ラザロは人形使いというだけではなく、死霊術師でもある。……むしろ後者が本命であろうな。汝を穴から救い出した術――あれは死霊を操る術だ。しかも、予め用意していた霊を使ったのではない。この場にいた霊を乗っ取り、操ってみせた。高度な技術だ」
「お前、詠唱しながら見えていたのか?」
「見えてはいないが、意識の底で感じ取っていた。彼が見えざる魔力の糸を、死霊の一つに繋ぐのを」
「だがアイツ、そんなことは一言も……」
「言ってはいないが、言いかけた。汝は知らぬかもしれぬが、現在では死霊術は多くの国で禁忌とされておる。帝国も例外ではない。図書館に死霊術の本はなかった。そして、城の禁書庫には死霊術の本があった」
シャイードは歩きながら腕を組んで頷く。
「まあ確かに? 死霊を操ったり、死体をけしかけるなんて、気味悪がられるだろうしな。昔は禁忌ではなかったのか?」
「うむ。魔法王国の時代には、危険作業や単純作業を行わせる労働力として合法であったぞ。ニンゲンを使うより、よほど人道的という考えだ。当時は魔法に対する疑念や畏怖や無理解が少なかった」
「へえ……。……ん? でも、ラザロが言いかけたって?」
「我の使った魔法を禁呪だと勘違いしたときだ。自分もまた禁呪使いであると、言いそうになっていた」
シャイードはほう、と息を吐いた。
「人形を動かすのも死体を動かすのも、余り違いはなさそうだし、隠れ蓑にはぴったりだな」
「その理解は正しい。二つの系統の根は一つだ」
二人は前を行く猫背を見つめた。
坑道に戻ってからは、シャイードが先頭を代わった。
フォスを従え、前方を警戒しながら通路を進み、階段を上る。落ち着いてくると、右腕がだる重く、痛むことに気づいた。
(さっき幽鬼に掴まれたところだな)
違和感を払拭すべく、右腕を肩から回しながら階段を上っていたが、物音を聞きつけてそのまま手を挙げ、立ち止まった。
アルマとラザロも相次いで止まる。
上から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。金属の鳴る音も混じっている。
シャイードは背後に手を動かし、階段の踊り場を曲がったところまで後退させた。フォスをマントに迎え入れる。自らも陰に隠れた。ラザロも、明かりの魔法を一旦解除して身を縮める。
周囲は闇に閉ざされた。
やがて再び、相手の持つ明かりで、踊り場が照らされる。
(少なくとも、幽霊でも魔物でもない)
シャイードは物陰から僅かに顔を覗かせて、降りてくる者たちを見た。ランタンの明かりに浮かび上がったのは、五人ほどの男女だ。
その時、ラザロが杖に明かりを灯した。
(!!)
なんで!? とシャイードは目を見開いて振り返った。
急に前方が明るくなったため、階段を下りてきた一行は足を止める。
「何者だ!」
鋭い誰何が続いた。
「案ずるな。ヨル神官たちだ」
と、ラザロが付け加え、顎をしゃくった。貴様が対応しろ、と言いたいらしい。階段は狭いので、順序を入れ替わるのは得策ではない。
先頭に立っていたシャイードは、やむを得ず、両手を肩の高さに挙げて踊り場に出た。
「こんなところに子ども……!?」
「子どもじゃねーし!! 俺たちは、」
「聖滅!」
前から二列目にいた女性神官が、突然、左手を突き出した。
掌から聖なる閃光が溢れ、周囲を照らし出す。
「ぐわああっっ!!!」
シャイードは激しい衝撃を受け、踊り場に倒れた。体中が激痛に苛まれ、身を丸くする。何が起きたのかわからず、混乱した。その場にいた者たちの中で、シャイードだけが魔法の影響を受けたようだ。
「!?」
「油断するな。魔物だ!!」
ヨル神官たちは血相を変え、武器を構える。彼らの手に持つ戦棍から、カラカラと高い音がした。先ほど聞こえた金属音の正体だ。
(まずい……!!)
否定したいが、口を開けても喉が痺れて声が出ない。神官は、屈強な若者を先頭に階段を下りてきた。