大穴
フォスを従えて、シャイードはアルマの背を追う。
「!!」
途端、前方から悪臭が漂ってきた。饐えた臭い。甘ったるい腐臭。黴臭さ。鼻を刺す刺激臭。硫黄の臭い。それらが渾然一体となった、何とも表現しがたい腐敗臭だ。
シャイードは襟元の布を引っ張り上げて、鼻と口を覆った。
アルマの隣に並ぶと、フォスの光に照らされて、先の地面が大きく陥没しているのが見えた。
確かに、大穴だ。
「これも坑道なのか……?」
もっと良く見ようと、シャイードは二、三歩、穴の方へ足を踏み出す。そこで急に背中を押された。
「うおっ!?」
崩しそうになったバランスを、両手を振って足を踏ん張り、取り戻す。だがさらに押された。
「おい、アルマ! ふざけ……」
振り返った目蓋が、驚愕に見開かれる。
アルマは斜め後ろで目を閉じて立ち尽くしていた。上向けた掌を僅かに持ち上げ、詠唱準備に入っているようだ。シャイードを押したのは、彼我の間に忽然と現れたドワーフたちだ。
眼窩が真っ黒な闇の穴になっている。どの顔も、何の表情も浮かべていない。身体は青白い半透明だ。それなのに、彼らがシャイードに触れると、彼は大穴の方に押された。
シャイードはよろけながら、大穴を見遣る。酷い目眩がした。
(間違いない。――世界膜の破れ目!)
ドワーフたちは群れになって、シャイードを取り囲んでいる。
「ふざ……けるなっ!!」
シャイードは抜き身の流転の小剣を敵に向け、大きく水平に薙いだ。前方にいた二、三人のドワーフが霧散する。
しかし、後ろのドワーフたちが一歩ずつ前に出ただけだ。
「アルマ!」
アルマは空に向けて次々と印を結び、詠唱を始めていた。近くにいる幽鬼は、彼を無視してシャイードの方に向かってきている。
シャイードは舌打ちして、幽鬼への攻撃を続けた。剣の放つ青白い光が暗闇の中で踊る度、幽鬼が霧散する。だが死角にいた別の幽鬼に、右腕を掴まれた。
(寒い……!)
幽鬼に触れられたところから、生命力が吸われる。それは骨身に染みる寒さとして感じられた。咄嗟に右足で幽鬼の膝裏を蹴りつけるが、通常なら相手を転倒させるほどの強打も、ただ幽鬼の身体をすり抜けただけだ。
「なっ……!」
逆にシャイードは、酷くバランスを崩してしまう。そこに、幽鬼たちの腕が一斉に襲いかかってきた。
「そっちは触れるのに、ズリィぞ!」
フォスがシャイードをかばうように前に躍り出る。シャイードは意図を汲んで目を瞑った。
次の瞬間、フォスは閃光を放った。
一瞬、世界は白と黒に染め上げられ、幽鬼の動きが止まる。
だがそれだけだ。
フォスの光は、幽鬼に何のダメージも与えることが出来なかった。彼らを僅かにひるませただけだ。
「くそっ!! 放せっ!!」
剣を振るいたいが、腕をがっちりと掴まれてしまっていて、果たせない。
穴のすぐ傍で、シャイードは多数の腕によって床に倒されてしまった。そのままずりずりと、穴に向けて押される。フォスがシャイードの脇にくっつき、押し戻そうとするが、まるで助けにはならない。
(まずい!!)
アルマの詠唱は続いている。シャイードは穴の縁に指を立てて粘ったが、ついにフォスと共に大穴に向けて放り出されてしまった!
「うわああっ!!」
悲鳴と共に落下する。闇には底が見えない。
(翼を……、いや駄目だ!)
咄嗟に背から翼を出そうとして逡巡する。翼を出して穴から飛び出せば、ラザロに見られてしまう。
突如、身につけていたマントを何者かに掴まれた。シャイードはUをひっくり返した姿勢で、空中にぶら下がる羽目になった。
「!?」
何が起きたのか、すぐには思考が追いつかない。
原因究明よりも先に、眼下の闇の底から良くない気配が上がってくるのを感じた。それはぶんぶんと鳴る低いうなりだ。無数のうなりが互いに干渉し合い、大きな渦となって、浮かび上がってくる。
全身が総毛立つおぞましさだ。
茫然自失の間にも、シャイードの身体は上昇を始めた。うなる指先が、逃がすものかと彼を追うなか、落ちた距離を巻き戻し、ついに穴の縁を越えた。さらに上へと浮遊していく。
大穴の傍に立ち尽くし、シャイードを見上げてくるドワーフの幽鬼たちの姿、そして詠唱するアルマが見えた。
フォスが目の前に飛んできて、シャイードはようやく我を取り戻した。背を振り返る。
そこにも幽鬼がいた。
シャイードは目を見開いて、鋭く息を吸い込んだ。
格好から、ドワーフの鉱夫の一人だと思われるが、なぜシャイードを助けようとしているのか意図がわからない。幽鬼は構わずに空中を浮遊して穴から彼を遠ざけていく。
眼下にラザロの姿が見えた。杖を掲げ、逆の手も空に翳してこちらを見ている。幽鬼は彼にむけて高度を下げた。
(アイツの魔法か!)
「……ハセキュール、デア、あらーにぇ・まぁてる」
その瞬間、アルマの詠唱が完成した。足元から発生する魔力の力場で三つ編みが浮かび上がり、大きく暴れてからゆっくりと落ちる。
直後、アラーニェの親蜘蛛がアルマの頭上に浮かび上がった。親蜘蛛は、アルマの腕の動きに追従して、穴に向けて飛んだ。情報を元に再現された幻影の大蜘蛛は、糸を吐き、大穴と重なるように存在していた見えない世界膜の破れを、脚を巧みに操って縫い付けていった。
マントを握っていた力が消え、シャイードの身体は最後の二メートルほどを落下した。彼は硬い地面に四つん這いに着地する。
「いてて……」
最後にバランスを崩し、尖った石で左膝を軽く打った。背後を振り返ると、幽鬼の姿がない。
打ち身を擦りながら立ち上がる。小剣を鞘に収め、目眩に額を抑えた。
俯いたまま首を捻るとラザロが、ぽかんと口を開いているのが見えた。足元には空の酒瓶が落ちている。中に入っていた砂状の何かで、自身を取り囲む円を描いていた。
彼の視線の先にはアルマの姿。さらに奥には、糸を織りなす大蜘蛛がいた。
ドワーフの幽鬼は次第に姿を薄れさせ、大蜘蛛が世界膜の破れを塞ぐと同時にちりぢりに消え失せた。
役目を終えたアラーニェの親蜘蛛もまた、構成していた魔力が解けて霧散する。
アルマは大きく息を吐き出し、三角帽子を深くかぶり直して振り返った。直後、左手を素早く横になぎ払う。
「?」
シャイードがその奇妙な動きに首を傾げている間に、近くに戻ってきた。
「かなり大きく破れていたが、何とか塞ぎきった。応急処置に過ぎぬが……」
「お、……おう。ご苦労、」
「貴様、アレはどこのどういう魔法だ。聞いたこともない文法だったではないか」
シャイードの言葉尻にかぶせて、ラザロが食い気味に問いかけた。興奮している様子で、幾分早口でアルマを指さしている。アルマは首を振った。
「汝には教えぬ」
「! なぜだ。禁呪に属する魔法だからか!? それなら安心するがいい、吾輩、」
「我は構う。駄目だ。断る」
シャイードは瞬いた。
(先ほどの意趣返しか)
ラザロにも、アルマの意図は当然察せられ、ぐぬぬ……と紫色の唇を噛んでいる。それでも、代わりに杖を触ってよいとは言わないようだ。
「……。まあ、ともかく。この場はもうよかろう。なんにせよ、死臭は消えた」
ラザロは首を振り、杖の石突きを地面にトン、とついた。
「とはいえ、吾輩の任務は、この事態の原因究明なのでな。何をやったのか、大方の予想はつくが、説明はして貰うぞ? 貴様らを吾輩に同行させた皇帝陛下も、それを望んでおろう。違うか?」
シャイードは瞳を横にしてやや考え、ラザロに戻す。
「違わないだろうな。教えるのは構わない。どうせ帰り道も長いんだ。――ところで、アルマ」
シャイードは途中で、アルマに向き直る。
「お前は何を捕まえたんだ?」




