陽光と暗雲 2
「何事だ」
宰相のナナウスが鋭く誰何した。
出て行く人々と入れ違いに、一人の兵士が急ぎ足で玉座に近づいてくる。肩で息をし、捻りでもしたのか僅かに片足を引きずっていた。軍服に飾られた徽章は、ワイバーン隊の所属であることを示すものだ。つまり彼は、帝国領内もしくはその近隣のいずこからか、最重要の伝令を携えてきたことになる。
エルデンが、すれ違う際に振り返って兵士を見遣った。それを最後に、扉は閉められる。
異変を察知したナナウスが、階段を数段降りた。伝令は高台の手前で足を止め、膝を折る。息を整える僅かな間ののち、彼は顔を伏せたまま口を開いた。
「皇帝陛下。火急のご連絡ゆえ、乱入のご無礼をなにとぞお許し下さい」
「許す。そなたらワイバーン隊の特権だ」
「して、いかなる事態か?」
レムルスの言葉を引き継ぎ、ナナウスが問い糾す。兵士は懐から書状を取り出して差し出した。
宰相はそれを解きながら階段を上り、文字に視線を走らせて、爬虫類めいた顔に驚愕を浮かべた。
レムルスはそのことに驚く。
「どうしたのだ」
「陛下」
宰相はすぐに平素の冷静さを取り戻し、顔を上げた。
「……ザルツルードが所属不明の艦隊に包囲された模様です」
「ザルツルードが!? なぜ!?」
レムルスは目を丸くし、玉座からわずかに腰を浮かせた。ナナウスから書状を受け取り、内容を改める。
聞いたばかり記述の後、『盟約に従って速やかに派兵し、港湾封鎖の解除を果たして頂くべく、希う』と締めくくられ、ザルツルード議会の印章が押されていた。
なぜと口にはしたものの、レムルスにも思い当たるのは塩しかない。内海の東端に位置するザルツルードは、帝国だけでなく、内海周辺の都市にも塩や塩蔵食品を供給している。それらのほぼ全てが船で運ばれていた。
ザルツルードから帝国へは、陸路もあるにはあったが、フスフィック山脈と内海に挟まれた隘路だ。山麓には未だ数多くの魔物が棲まうとされる闇森も広がり、商人はこの道を使いたがらない。
先だっても、クルルカンへ派遣した兵の半分が偵察のためにこの陸路を通って帝都へ戻ったが、噂通り、闇森の傍では幾度も小鬼を見かけたとの報告があった。
もう一つは、フスフィック山脈を大きく迂回する北回りのルートだが、こちらは移動コストの問題だけでなく、オルドラン平原から追放した騎馬民族ファルディアの襲撃を受ける可能性があった。
先の皇帝も、何れは陽光街道の北側にあたるこれらの地を平定するつもりであったろうが、志半ばに倒れ、境界地方は不穏な状態のまま残されてしまった。
レムルスの表情の変化に気づき、ナナウスは腰の後ろで手を組んだ。
「お察しの通り、敵の狙いは塩でしょうな。折しも、ザルツルードの塩田は収穫の最盛期に入ります。港湾を封鎖して、塩の輸出を止める。或いは最悪の場合、全ての塩を接収する気かも知れませぬ」
「……、影響はどうなる? 宰相」
ナナウスは顎に手を当て、目を細めた。
「さよう……。我が国にもある程度の蓄えはあります。本来はすぐにどうということはないはずですが、実態に関係なく、ザルツルード封鎖の噂が広まれば塩の価格は即時高騰します。パン一つを作るのにすら、塩を使うのです。庶民の生活には、大きな影響が出るでしょう。そして事態が長引けば、実際に塩が不足し、塩蔵食品の不足が食糧不足を引き起こすことでしょう。塩によって保存食を生産出来ねば当然、帝国は兵を動かすことができなくなります」
「大事だな」
「はい。要請には直ちに応えるべきでしょう」
「ザルツルードは堅牢な城塞都市だったな」
「ええ。ですが、余り過信なされぬように。強固な岩壁の内側が、一枚岩とは限りませぬゆえ」
「ふむ……。わかった。直ちに議会を招集してくれ」
「御意」
ナナウスは一礼した。
◇
隠し部屋を出たシャイードとアルマは、王宮内を早足で移動しながら小声で言葉を交わす。シャイードは憤慨していた。いつもは密やかな足音が、今ばかりはドスドスと大きい。
「ニンゲンたちは戦争を始める気なのか? 世界が滅びるかも知れない瀬戸際だぞ!? レムルスは俺の話を信じてくれたんじゃなかったのかよ!」
「まだそうと決まったわけではあるまい。だが、レムルスとしては、ザルツルードの封鎖を解除せねばならぬ状況のようだ」
「それは、俺にも理解できたけど!」
「気にするな。汝は汝のなすべき事をなすが良い。まずは、禁書庫から消えた本の行方を探るのだ。持ち去った者はビヨンドについて、必ず何かを知っているはずだ」
「わかってる。議会が招集されるまでの間に、なんとかもう一度レムルスに接触しよう。地下で見かけた『海の火』について警告して、宮廷魔術師長に会わせて貰うんだ」
「うむ」
主従は皇帝のあとを追った。
◇
「あーらら。怪我が治って、やっと休暇だ! って思っていたんだがなぁ……あてが外れちまった」
潮風の吹きつける狭間胸壁に片足を載せ、男は額に片手を翳して水平線を見遣った。そこかしこに、艦隊の黒い影が見える。空はこの時期のザルツルードには珍しく、どんよりと曇っていた。
「ひいふうみい……沢山。揃いも揃ってご苦労なこった」
独り言は、口から零れるそばから風にさらわれていく。無精髭の生えた口元は、言葉とは裏腹にどこか楽しげだ。
「ザルツルードが完全な帝国領でないことが災いしたなぁ。敵さんにしてみりゃ、ここを切り取れば帝国の兵站を崩せる。失敗しても、『帝国に喧嘩を売ったわけではない』と言い訳が立つと思ったんだろうが……、ふはっ。甘い甘い」
笑いながら首を振り、男は視線を落とした。再び顔を上げたとき、その唇からは笑みがすっかり洗い落とされている。男は目を細めた。その気配は、先ほどまでとはまるで別人だ。鋭く、冷たく、酷薄。
「おいたする子にゃ、灸を据えてやらんとな」
低い声で、海に向けて凄んだ。
その兵はたった一人。
だが、艦隊を目の前にしてまるで物怖じしていない。
彼の腿には二振りの魔銃がある。帝国で作られているまがい物ではない、魔法王国の粋を尽くして作成された根源の魔銃の一つだ。銘を『双牙』という。
「平和のためになら、俺は何にだってなるよ。そうだろ、ヴィヴィ?」
一陣の風が吹く。
上空の雲が途切れ、胸壁の石床を明るく照らしたとき、男の姿は既にそこになかった。
こちらにて、第三部「竜と帝国」は完結となります。
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引き続き、第四部「死の軍勢」をお楽しみ下さい。