告白
禁書庫の中は暗く、古い紙の匂いに満たされていた。シャイードは師の部屋を思い出し、無意識に目を細める。図書館の香りにも似ているが、どこか違う。
ここはもっと謎めいていて、閉ざされていて、闇を纏った香りだ。禁書庫という名からの連想が、そう思わせているだけかも知れないが。
三人ともが入室したのち、扉は背後で閉じられた。天井や壁の魔法灯が静かに明度を増していく。室温は低く、ひんやりとしている。
シャイードはフォスを傍に従え、明るくなった部屋の中を見回した。窓のない部屋に、書棚が整然と列をなしている。天井は高く、書棚も高い。各所にスライド式のはしごが備えられていた。
床は石材で、その上に絨毯が敷かれていた。絨毯の細かな模様は、シャイードには分からなかったが火災除けの魔法紋だ。この絨毯は、通常の火では燃えない。書棚にも、同様の魔法紋が刻まれている。
長らく閉めきっていたとのことだが、空気に湿っぽさはなく、清浄だ。何らかの魔法で、温度や湿度が管理されているらしいことがうかがえた。
書棚を眺めながら歩いてくと、奥に別の部屋に続く出入り口があった。
「あっちは?」
「奥にも書物がありますわよ。本だけでなく、巻物や木簡、石版なども。ところで、あなたたちは、何の禁書を探していますの?」
ユリアはマントを壁の金具に引っかけ、シャイードとアルマを交互に見つめた。アルマは既に、本棚の一つに取り付いて、片端から書物の背表紙を目と指で追っている。
シャイードは答えに迷った。
人間に、全てを明かすべきだろうか。
言っても信じて貰えない、という言い訳は、相手には当てはまらない。なぜなら、既に当事者だからだ。
言ったところで仕方がない、という言い訳も、成り立たない。
子どもとはいえ、相手は皇帝だ。もし、信じて貰えて力を借りられるなら……それは、とても大きな前進だろう。
シャイードは心を決めた。
ユリアをまっすぐに見つめ返す。
「お前には隠しても仕方ない。俺たちは、ビヨンドという異界の魔物を追っているんだ」
「ビヨンド……。あの、蜘蛛のお化けのことだったかしら」
シャイードは頷く。
「レムルスから聞いたのか。ああ。アイツだけじゃない。この世界のあちこちで、ビヨンドは世界膜を喰い破り始めているんだ」
「世界、膜……?」
聞いたことのない単語に、ユリアは頬に片手を添え、瞬いた。
フォスが胸の高さまで降りてきた。シャイードは指をさしだし、フォスを遊ばせながら続ける。
「劇場に幻夢界の蜘蛛が出現しただろ。あれは現世界と幻夢界、二つの世界を隔てる世界膜が破られたせいなんだ。それで俺たちは、本来は眠りによってしか入り込むことが出来ない幻夢界に、生身のまま入ってしまった。劇場自体も、アルマが破れ目を閉じるまで二つの世界が融合した、不安定な世界になっていた」
「……。確かに、変でしたものね。上で蜘蛛が暴れていても、下の人たちは誰も気づかず……。あれも、現実と夢が入り交じっていたせいなのかしら?」
「あれは、観客たちが既に、我の影響下にあったからだ」
アルマが一冊の書物を手にしたまま、唐突に口を挟んできた。本の上部には、細い鎖がついていて書棚に連結されている。持ち出しが出来ないようになっているのだ。
その代わり、本棚の腰の高さには引き出し式の書見台がついていて、鎖を外さぬまま、本を置いて眺められるようになっていた。
「そうですの?」「そうなのか!?」
シャイードも初耳だ。二人の言葉が重なる。
二人は顔を見合わせた。フォスは手から離れ、またふわふわと浮かんでいく。
「精神に影響を及ぼす同種の魔法は、一度に一つまでしか掛からぬ、という原則を知っておるか?」
「知りませんわ」「知らねえ」
またしても言葉を被らせつつ、二人は首を振った。
二人とも、魔術師ではない。魔術師なら誰でも知っている基本の法則でも、一般人はほとんどが知らない。
「そうなのだ。例えば魅了の魔法にかかっている者に、別の者が魅了の魔法をかけたとしよう。前者の魔法の強度がより強ければ、後者には魅了されない。逆ならば、前者の魅了は解け、後者の魅了に掛かる。要は」
「力こそパワー?」
「そうだ。精神系の魔法は、純粋な魔力の殴り合いなのだ」
「ん? すると、お前が観客を魅了していたのと、蜘蛛が夢に干渉しようとしたのは、同種の魔法なのか?」
「我は何もしていない」
アルマは首を振り、「演技の他は」と付け加えた。
「でもさっき、お前の影響下って……」
「何もしていないが、何故か、みな影響下にあったようだ。それが防壁として機能していたので、我は汝を助けに行けなかった。我はニンゲンに危害を加えることが出来ない。危害を加えられることが明らかな状況で、手出しせずにいることが出来るのはわかっていたが、出していた手を引っ込めることは出来ぬらしい。制約の難解なところだ」
「おまっ、いつもあれほどニンゲンに影響を与えているのに、無自覚だったのかよ!?」
シャイードは衝撃を受け、あんぐりと口を開いた。
「何の話ですの?」
途中から話について行けなくなったユリアが、シャイードの服の袖を引く。
シャイードはユリアを振り返り、説明しようとしてやめた。
アルマを手招く。
アルマは素直に従って、本を棚に戻してから彼らの傍にやってきた。
シャイードは、アルマの三角帽子を取り上げる。
「ユリア、こいつを良く見てみろ」
「? どうして……」
言いつつも、ユリアはアルマを間近から見上げた。その頬が、バラ色に染まっていく。
「どんな気分だ?」
「ど、どんなって、その。見たことがないくらい、綺麗なひと……」
ユリアは頬に両手を当て、目をぎゅっと閉じて顔をうつむけた。けれどすぐ、またアルマを見上げてしまう。
「凄くドキドキしますわ。嬉しくて、気分が高揚して、ふわふわして、ずっと見ていたい。ずっとわたくしを見つめて貰いたい。彼のために、何かをして差し上げたい気分ですわ。わたくしに出来ることなら、なんでも。――駄目だよ、ユリア。僕は皇帝なんだ。そんな風に、誰かを軽々しく崇拝してはいけない」
ユリア、いやレムルスは、両手を胸で握りしめて目をそらした。
シャイードはアルマに、三角帽子を深くかぶせた。
「な? 大抵のニンゲンは、コイツを見るとそうなるんだ」
「特にユリアは、綺麗な人にとても弱いからね。効果はてきめんだよ」
レムルスが言う。
「なんですの? 彼は。人間ではないんですの?」
同じ口が、すぐにユリアの口調になって続けた。
「あー……、うん。まあ」
シャイードは後頭部を掻き、お茶を濁した。
「お前、劇場では運命神のアルマを見てもそうはなっていなかったのに」
「シャイード。あのとき、ユリア、というかレムルスは、既にアラーニェの親蜘蛛の影響下にあった。我の影響を受けづらい状況だったのだ」
「ああ、なるほど。お前が観客に影響を及ぼしたのと、逆パターンか」
「まあ、よくはわかりませんけれど……。アルマは人間ではなくて、けれども人に危害を加える存在でもないのですわね? そしてシャイード。あなたたちはビヨンドという人に危害を加える魔物を、倒す旅をしていると?」
シャイードは首を振る。
「ニンゲンだけじゃない。ビヨンドは世界そのものに危害を加える敵だ。世界膜を喰い破られていけば、現世界だけじゃない。妖精界も幻夢界も……重層的に折り重なったこの世界そのものが崩壊してしまうんだ。そして終わりは、既に始まっている」
ユリアは目を見開いて絶句した。レムルスからも発言はない。
(笑い飛ばすだろうか)
青い瞳を真面目な顔で受け止めつつ、シャイードは彼らの反応を待った。
荒唐無稽な話だ。妄想と片付けられてもやむを得ないほどの。
ユリアは眉を寄せ、シャイードからそっと視線を逸らした。
シャイードは息を吐き出し、肩を落とした。
(まあ、そうだよな。……これでいいんだ)
「信じて貰えなくてもいいさ。俺たちはただ……」
「信じるよ」
レムルスが言った。いつの間にか、その視線がシャイードの顔の上に戻ってきている。青い瞳は曇りなく澄んでいて、揺らぎがなかった。
「僕はお前を……、シャイードを信じる」
今度はシャイードが瞠目する番だ。その直後。激痛がシャイードの胸を突き刺した。
「……っ!」
(なんだ? また胸が痛ぇ。すごく……痛)
シャイードは顔を歪めてよろける。胸の上に両手を重ね、その場に両膝をついて蹲った。輝く剣が心臓を貫き、そこから黒い血液がどくどくと流れ出す。そんなイメージが脳裏をかすめた。
痛い、痛い、痛い。
心臓の鼓動が激しく、こめかみまでずきずきと痛み始めた。フォスがすっ飛んできて、床すれすれからシャイードの顔を、淡い光で照らす。すぐにまた、どこかに飛び去った。シャイードからは見えなかったが、おろおろとその傍を飛び回っている。
「どうした!? シャイード!!」
レムルスの慌てた声が頭の上から降った。視界が真っ赤だ。
「……ぁ……」
声も出ない。
不意に、重力が消え失せた。視界が反転し、仰向けで身体が浮かび上がる。
瞼の合間から見えるのは、アルマの顔だ。遅れて、身体を抱え上げられたことを理解したが、今は抵抗する気力もない。フォスが腹の上に落ちてきた。
「レムルス、ユリア。どこか身体を休めさせられる場所を」
「わかった。……りましたわ」
皇帝は周囲を見回し、奥を指さした。




