新たな力
シャイードはお仕着せの上着を脱ぎ、魔導書姿のアルマをクロスボウと共に包み込んだ。それを再び小脇に抱えて皇帝のボックス席へと向かう。階段を上り、通路の手前から左右の様子を伺った。開演前には扉の前にいた警備の者たちの姿がない。レムルスは別室に移動したか、既に劇場から立ち去ったのだろう。
幸い、扉の鍵は掛かっていなかった。すばやくそこに潜り込み、内側から鍵を掛けてしまう。
ボックス席から一階席を見下ろすと、まだリモードたちが話をしていた。
彼らから死角になる場所に、魔導書を置く。
「汝の方も、万事、上手く行ったようだな」
人の姿に変身するなり、アルマが言った。シャイードは、相手が幻夢界での経緯について言及しているのだと察し、ケースにクロスボウと剣をしまって立ち上がる。
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
シャイードは胸を張り、親指で自身を指し示した。
「お前の助けなんかなくたって、あんなのチョロかったわ。チョロチョロのチョロだわ」
「そうか」
「あ、そうだ。そのチョロ助を、回収してきたんだ。お前、情報を喰うんだろ?」
シャイードはポケットに右手をつっこみ、蜘蛛の死骸を取り出す。
アルマの瞼がぴくりと動いた。
「汝、よくその点に気づいたな」
「まあな。いつもはお前が、呪文を唱えてキラキラってなって、ビヨンドが消えるだろ。だからこいつも一応、やっておかなくちゃいけないかと思って」
アルマはシャイードから蜘蛛を受け取る。
「まあ……、お前はこの蜘蛛について、最初から知っているようだったから、どうかなとも思ったんだが……」
「いや」アルマは首を振った。「大変な手柄だ。なぜならこやつの情報を得れば、喰い破られた世界膜を一時的に封じられるようになるからだ」
「あっ。そうか!! そんなことを言っていたな」
シャイードは胸の前で指を鳴らした。
「あっぶねー……。持ち帰らずに海に落としていたらやばかったな」
「うむ。この劇場が……、下手をしたら帝都丸ごとが、幻夢界に飲み込まれていたやも知れんな」
「え、そこまでやばかった……?」
アルマは涼しげな表情で頷き、シャイードは目を丸くした。何気なくポケットに押し込んだ選択が、そこまで大きなものとは思いもよらなかったのだ。
シャイードは頭を垂れ、握り拳を作った。ふるふると震える。
勢いよく顔を上げ、アルマを睨んで手を振り回した。
「お前はあぁぁ!! そういう大事なことは、先に言っておけよな!! 取り返しがつかなくなるところだったろうが!!」
「下に聞こえるぞ」
アルマは全く堪えなかった。
シャイードは自らの口を手で塞ぎ、そっと下の様子を伺う。丁度、リモードたちは大笑いしているところだった。シャイードは小さく息を吐き出して顔を引っ込めた。
それにしても、いつも一言足りないアルマに腹が立つ。
「しかし」
アルマは顎に手を添えた。静かな瞳がシャイードを捉える。
「賢明な汝なら、察してくれると考えていた」
突然の褒めに、シャイードはうろたえる。視線を揺らしたのち、はっとして人差し指を突きつけた。
「う、嘘だ! さっきお前、ちょっとびっくりしてただろうが。俺が蜘蛛を取り出したとき!」
「評価しているのは本当だ」
シャイードはぐっと唇を引き結んだ。そうしないと、頬が緩んでしまいそうだったのだ。
シャイードは、ボックス席から音もなく階下へと飛び降りた。
劇場関係者たち近づいていくと、メリザンヌが先に気づき、輪を離れてシャイードの傍にやってきた。
「あら、シャイードちゃん。アルマとはまだ会えないの?」
「いや、既に合流した」
シャイードはボックス席を指さし、メリザンヌは顔を上げた。アルマが見下ろしている。
魔女はひらひらとそちらに手を振った後、シャイードに視線を戻した。
シャイードは彼女に、劇場内がビヨンドの影響で不安定な状態であること、それをアルマに解決させるので、少しの間、ここを貸し切らせて欲しいことを簡潔に説明した。
メリザンヌはすぐに頷く。
「もちろん、協力するわよ。少し待っていてね、私の可愛い子」
彼女はウィンクをし、リモードと人々の輪へ戻った。二言三言、言葉を交わすと、彼女は片手を大きく動かして人々を先導する。
リモードがちらりとこちらを見て、頷くのが見えた。
シャイードも頷き返す。
何と言ったかは分からぬが、メリザンヌは関係者を引き連れて劇場を出て行く。扉が閉まると、広い空間は静まりかえった。
念のため、シャイードは舞台裏やオーケストラピットも見て回り、劇場内に人が残っていないことを確認する。その間に、アルマは一階席に降りてきた。
「いいぞ」
シャイードがハンドサインを送ると、アルマは頷いて蜘蛛の死骸を適当な床に置いた。五歩ほど下がって目を閉じ、両手を翳して呪文を詠唱し始める。
何度か耳にしたことのある呪文だ。
いつもと同じように、蜘蛛から輝く金粉のような光が、アルマに向けて空を流れていく。
詠唱の抑揚に合わせ、金粉はうねり、渦を巻き、アルマを取り巻いた。
すると蜘蛛の死骸にも変化が起きる。光の源流である死骸が、急に輝きを増したかと思うと、中から何かが飛び出したのだ。
光の塊は、上下にたなびく布のようだ。
いや。
見ているうちに金の光は薄れ、それは青い蝶の姿になった。
「おお……」
シャイードは青く光る蝶を、驚嘆しつつ目で追う。幻想的で、儚げで、涙が出そうになるくらい美しい。
蝶はシャイードとアルマの頭上で螺旋を描き、次第にその姿を薄れさせた。最後には空気に溶けてしまう。
アルマの詠唱はいつの間にか止んでいた。彼は見上げながら、シャイードの傍に歩いてくる。
「今の蝶は……」
「幻夢界の守護者だ。妖精樹の種と同様に、存在を歪まされ、ビヨンドのウツシとされていたのであろう。親蜘蛛が我の使役するアラーニェの蜘蛛と性質が違っていたのは、そのせいだ」
「凄く綺麗だったな」
アルマはシャイードの顔をじっと覗き込んできた。シャイードは上体を引き、身構える。
「な、なんだよ」
「そう見えたのなら、汝の描く”夢”もまた、美しいのであろう」
シャイードは瞬いた。
アラーニェの親蜘蛛を情報として取り込んだアルマは、早速、その能力を使って開きっぱなしだった世界膜の傷を糸で塞ぐ。
光が漏れていたせいで可視化されていた妖精界と現世界の間の破れとは違い、シャイードには幻夢界との間の世界膜の破れは見えなかったが、意識の底で感じていた目眩のような感覚が消えたことがわかった。
「これでもう、大丈夫そうか?」
「当面はな? 破れた世界膜が塞がるには時間が必要だが、ともあれ傷の手当てはした」
シャイードはほっと胸をなで下ろす。
「なんかいろいろ大変だったが、一歩前進した……んで、いいんだよな?」
アルマはシャイードを見下ろしたが、小さく首を傾げただけで、何も答えなかった。