心の宝石
だがレムルスの手は、指は、弓から離れることはなかった。
(信じるしかない!)
彼は恐怖を力に変え、弓を引き絞る。
瞳には涙が浮かんでいた。奥歯ががちがちと鳴る。
(……できますわ、レムルス! わたくしとあなたなら!)
心の中のユリアが言った。肩の力が抜ける。それなのに、却って弓を引く力は増した。
レムルスは思い出す。
父が遠い過去に一度だけ、……たった一度だけ弓の腕前を褒めてくれたことを。
練兵場には兄たちの姿。剣や槍では歳の離れた兄弟に、一撃も浴びせられない。
だからレムルスは、弓を試してみることにしたのだ。
指南役から説明を受け、その初めての武器を手に取る。子ども向けの、小さな弓だ。何度か姿勢を直され、矢をつがえぬまま弦をはじいていたが、最後に一矢だけ試させて貰えることになった。
的は、今思えばとても近かった。けれど初めての彼には、果てしなく遠く思えたものだ。
矢をつがえたレムルスは、不思議と心が澄みわたるのを感じた。
ざわつく練兵場は消え、景色は消え、彼の前には的しかない。過去の憂いも未来への不安も忘れ、ただその一瞬だけが圧倒的な存在感で彼を包んだ。彼の瞳は瞬きを忘れた。
教えられた通りに、弦を引き絞る。
両腕の中に、引き離されて戻ろうとする力が溜まっていくのを感じた。レムルスには何故か、全てのタイミングが分かった。
的と先の丸められた鏃の間に、一本の線が見える。
彼は心の命じるままに、矢を解放した。
矢は、彼の思った通りの射線を飛びはしなかった。だが、的自体には当たった。
レムルスは弓を放った姿勢のまま、呆然としていた。中心を射貫くと信じ切っていたのに、外れたからだ。
何故当たらなかった? 何が悪かった?
そこに、父がやってきた。
レムルスは気づかなかったが、後から聞いたところによれば、皇帝は弓を構えるところから見ていたそうだ。
「初めてにしては上手いな。筋がいい」
父は、一言告げるとレムルスに背を向けて、他の兄弟達の鍛錬を見に行った。
事実はたったそれだけだ。レムルスが夢に見たような、手放しの賞賛ではなかった。
父もおそらく、それほど深い感銘を受けたわけではあるまい。軽く感想を述べただけなのだろう。
しかしレムルスは、その言葉を心の宝石として、研鑽を怠らなかった。
何の取り柄もない彼の、ただ一つの取り柄だ。誰にも譲るわけにはいかなかった。
緑竜の口の中に、炎が盛り上がるのがはっきりと見えた。死が、見る間に膨れあがっていく。五年に及ぶ研鑽も、ここで死ねば全てが無に帰す。終わりだ。
合図はない。
だからレムルスは、ただ弓を引いて待つ。
炎が、
目の前で爆発する――!
◇
緑竜が炎を吐き出す直前、シャイードは慣性を無視して直角に急降下し、急上昇した。
そして真上にいた緑竜に両手でつかみかかり、空中でひっくり返す。緑竜は目の前に広がった炎のせいで、シャイードの動きがまるで見えなかった。
死角からの攻撃に、全く反応できない。
仰向けになった緑竜を下に、二頭の竜は絡み合って落下していく。
「今だ! 顎の下を打ち抜け!!」
言われる前に、レムルスは意図を理解していた。思考がクリアだ。時がコマ落としのようにゆっくり感じる。
顎の下の逆鱗。ドラゴンの弱点。
夢で既に一度貫かれたその場所は、癒えぬ傷となっていた。
そこが、はっきりと見える。すぐ近くに見える。外しようがない!!
狙いを込め、渾身の力を乗せた矢が、金の尾を引いて閃く!
「「行っけーーーーっ!!」」
アラーニェの親蜘蛛は、悲鳴にならない悲鳴をあげた。
レムルスの弓から放たれた矢は、過たずに緑竜の顎の下、逆鱗を打ち抜いたのだ。
それは蜘蛛にとって致命的な一撃だった。
宿主と定めた本人からの、”傷つける意志”、いやそれ以上の”消滅させようとする意志”だ。
この”蜘蛛”にとっては猛毒だった。
それが、弱点を打ち抜いたのだ。
緑竜の姿を失い、蜘蛛は落下した。
シャイードはそれを追い、竜人の姿に戻って蜘蛛の巣の上に降り立つ。レムルスを隣に下ろしてアラーニェの親蜘蛛を見た。
どちらも無言だ。
蜘蛛は巣の上で、黒い綿毛のような何かを空に溶け出させつつ、みるみる縮んでいく。やがては糸の間から落下しそうになった。シャイードがすくい上げると、さらに縮んで掌にすっぽり収まるサイズの蜘蛛の死骸となって止まった。
完全に死んでいることを、シャイードは指でつついて確かめる。
「元はこんなに小さかったんだな」
「ど……、どうするんだ、そんなもの……?」
レムルスが気味悪そうに蜘蛛から視線を逸らし、シャイードに尋ねた。
シャイードは糸の隙間から海を覗き込む。
「捨てちまってもいいんだが……、その選択は、いつでも出来るだろ。もしかしたら欲しがるやつがいるかも」
「悪用……?」
レムルスは警戒しつつ尋ねる。シャイードは首を振った。
「いやまぁ……、強いて言えば食用?」
人の悪い笑みを浮かべ、ポケットに押し込んだ。レムルス自身が、その蜘蛛を噛み潰したような顔になる。シャイードは声を出して笑って、レムルスの肩を叩いた。
「がんばったな、レムルス。泣き虫のアンタが、よくもあの恐怖に打ち勝ったもんだ」
レムルスは目を丸くした後、視線を逸らす。
「……したから……」
「あ?」
レムルスの呟きを聞き取れず、シャイードは耳を近づけた。レムルスは顔を上げる。頬が赤い。
「約束。……一緒に倒そうって、約束した、から」
今度はシャイードが面食らう番だった。
「あー……。そうだったな」
照れくさそうに鼻の頭を掻き、視線を逸らす。お互い、何と続けたらいいか分からず、目を合わせられずに立ち尽くす、奇妙な間が空いた。
先に我に返ったのはシャイードだ。
「そうだ、フォス!」
幻夢界から脱出する方法も探さなくてはいけない。シャイードはレムルスに向き直った。
「レムルス。何とかしてアンタを元の場所に戻すつもりだが、フォスも探したい。少し待ってて貰えるか?」
レムルスは即座に頷く。
「勿論だよ、シャイード。光精霊を先に探してくれ。僕なら大丈夫だから」
「ん」
シャイードは僅かに表情を和らげた。黒い翼を開く。
「でも不思議だ。前に見た夢の中では、お前の友達は闇精霊だった気がしたけれど」
「アイツは、友達じゃねーの!!」
シャイードは蜘蛛の巣の上にレムルスを残し、飛び立った。