レムルスとユリア
シャイードが小剣を振り上げたとき。黒い闇は割座で蹲り、こちらを見上げる少女の姿になっていた。
『どうしたの、シャイード? 怖い顔をして』
シャイードの手が止まる。金の瞳が見開かれた。
慌てて周囲を見回す。昼下がりの森の中、ここは木々がぽっかりと空いた花畑だ。
いつもはポニーテール姿の彼女だが、今は髪を下ろしている。頭の上にシロツメクサの花冠が載っていた。少女はエプロンドレスの上に野の花を並べ、また別の冠を編んでいる。
シャイードは戸惑った。
「あれ……俺……、何やってたんだ」
見下ろす両手は空だ。アイシャは笑った。
『蜂を追い払ってくれたんだよ。はい、ここに座って』
「………?」
シャイードは腑に落ちないながらも、少女の向かいに腰を掛ける。その頭の上に、出来たばかりの花冠が載った。
『ふふっ……。シャイード、王冠がよく似合うね』
「そ、そうか?」
シャイードは頭に載ったばかりの花冠に、片手を添えて位置を直した。まんざらでもない表情だ。アイシャはエプロンドレスに残った草の破片を払い、立ち上がった。彼女はシャイードの方を向いたまま、一歩ずつ下がる。
『ねえ、ちょっとこっちに来てみて。見せたいものがあるんだ』
「見せたいもの? お前が持ってこいよ」
アイシャは首を振る。
『駄目だよ。そっと、静かにね? 足音を立てないで』
「やれやれ。誰に言ってやがる」
シャイードは膝に手を置き、しぶしぶ立ち上がった。どうせ、巣穴の子ウサギだとかリスだとか、そんなのを……
一歩を踏み出そうとしたとき、顔面に何かが当たった。白い蛾だ。火の玉のように明るいが、熱はない。
「うおっ!? なんだ!?」
シャイードは両手で振り払うが、輝く蛾はしつこく顔面に向かって突っ込んでくる。凄くまぶしい。目を開けていられない。暴れた勢いで、頭から花冠が落ちてしまった。
シャイードは苛立った。
「いい加減にしろ!!」
目を瞑ったまま右手を大きく薙いで、火の玉を振り払う。
目が覚めた。
シャイードは蜘蛛の巣が大きく破れた空隙に、片足を踏み出そうとしていた。背中にレムルスが抱きついて、必死で引き留めようとしている。借り物の帽子が頭から消えていた。
なぎ払った剣が切り裂いたのは、
……フォスだ!!
帽子の中に潜んでいたフォスが、夢を見せられて操られたシャイードを起こそうと、必死に顔に体当たりしていたのだ。
「フォスッ!!?」
フォスは弱々しく、集合的無意識の海へ落ちていく。
普通の剣ならば、フォスにはほとんどダメージを与えられない。だが、手にしていたのは流転の小剣――魔法剣だ!
「フォスーーーーッ!!!」
「あぶない、シャイード! ……うわっ!!」
シャイードは蜘蛛の巣に這いつくばり、フォスに向けて叫んだ。空隙を飛び越え、左手側に移動した闇の塊から、蜘蛛の脚が伸びてシャイードを狙う。レムルスは両腕をクロスし、間に入った。
蜘蛛は宿主を傷つけまいとすんでの所で鋭い足先を丸めたが、打撃そのものは命中し、レムルスを突き飛ばす。レムルスはシャイードにぶつかった。
「ユ……、レムルス!」
「だい、じょぶ」
顔をしかめて、レムルスは答える。
シャイードは殺気を感じ、尻餅をついたレムルスを抱えて飛んだ。彼らがいた場所に、蜘蛛脚の横薙ぎが襲う。蜘蛛は獲物が急に消失したことに怒り、闇の中から何本もの脚を出して周囲をかき回した。
空に逃れたシャイードは、背中からドラゴンの翼を生やし、頭の上には角が生えていた。
苦渋の決断だが、死んだら元も子もない。
レムルスはぎゅっと目を瞑っていたが、飛行の速度が止まったところで目を開いた。
「飛んでる!?」
そしてシャイードにしがみつき、その顔を間近から見つめる。黒い鱗が顔の周りに生え、頭からねじれた角が二本伸びていた。レムルスは言葉を失った。その姿に見覚えがある。レムレスの脳裏に、忘れていた夢の光景が蘇った。
シャイードは剣を鞘に戻す。
「言っておくが、ここは夢の世界だからな! だから、だからな?」
「あ、ああ。……そう、なのか」
「フォス……」
シャイードは泡立つ海に視線を走らせるが、光精霊の姿を見失ってしまった。フォスを失ったかも知れない焦燥と恐怖で身体が震えた。
「どこだ? どこに落ちた、フォス……!」
「シャイード! 糸が!!」
レムルスが頬を叩いて指を差し、シャイードは我に返る。逃れた獲物を見つけた蜘蛛が、糸を飛ばしてきたのだ。シャイードは高度を上げて躱すが、左足に絡みつかれた。
その途端、足に重みがかかる。糸をたぐり、蜘蛛がするすると上って来たのだ。
シャイードはめいっぱい羽ばたき、弧を描くように飛んで蜘蛛を振り回した。レムルスが絶叫しながら首を絞めてくるが、何とか耐える。追いつかれる前に、糸を引きちぎることに成功した。
蜘蛛は巣に落下した。シャイードは念のため、さらに高度を上げる。まだ視線はフォスを探していたが、ここからではもう、小さな光精霊の姿など探しようもない。首を一つ振った。
「……っ、クソっ。迷っていても仕方ねえ! アイツを先にやっつける。また夢を見せられたらやっかいだ」
「でも……!」
レムルスはためらった。蜘蛛が恐ろしい存在なのは理解したが、現実だって恐ろしい。
シャイードは怒りにまかせ、レムルスの胸ぐらを乱暴につかんで身体から引き離した。
レムルスの眼下には蜘蛛の巣が、そして待ち構える親蜘蛛が、闇の中からギチギチと腕を伸ばしている。その下は不気味に泡立つ昏い海だ。
「ひっ」
レムルスは反射的に四肢をばたばたさせたが、それによって落下の危険が増すと気がつき、固まった。シャイードの片手に、両手でしがみつく。
「嫌だというのなら、アンタごと燃やすしかない。アイツとアンタは繋がっている。アンタが繋がりを断ち切ってくれねえと、このビヨンドは倒せないんだ!! いいか? 今倒せなければ、多くの民が死ぬんだぞ!!」
「………っ!」
シャイードは僅かに俯いて黙り込むレムルスの顔をにらみつけた。
口元が動いている。小さく言葉を紡いでいた。シャイードは片手を持ち上げる。
「レムルス。……大丈夫よ。あなただって本当はもう、分かっているのでしょう?」
レムルスはユリアの口調で言った。空色の瞳は虚ろだ。
「あなたを誰よりも認めてないのは、あなた自身なのですわ。あなたは想像の家臣達に、咎められていると思い込んでいますの。けれどもその実、あなたに罵声を浴びせ、見下して、価値がないものだと思わせているのはあなたなのですわ。あなたは自身に呪いをかけ、悪夢を見せ続けているのです。お母様が、……お母様がそうだったから。お母様が周りの人間に辛く当たられていたから。人間はそういうものだと、あなたは思い込んでしまった。言葉だけで人を壊せる、恐ろしい怪物だと。――でも現実を良く見て、レムルス。良く耳を澄ませて? あなたの周りの人は、本当にあなたを悪く言っていた? 本人の口からはっきりと聞いた? あなたを認めて尊敬してくれている人間が、誰もいなかったかしら?」
「ユリア……」
シャイードは、レムルスの顔をしてユリアの口調でぼろぼろと涙を流す皇帝を見た。
「だいじょ……ぶ。やれる、わ、あなた、なら……」
レムルスは溢れる涙を袖口で拭った。鼻をすすり上げ、彼は顔を上げる。
黒い鱗に囲われた顔の中にある、金の瞳をまっすぐに見つめる。
「シャイード。ドラゴンに、なれるか?」
「え……? あ、ああ。まあ、夢だから、……なれる」
レムルスは頷く。震える唇を引き結んだ。
「一緒にアイツを倒そう、シャイード」
シャイードは口端を持ち上げる。
「仕方ねぇな。手を貸してやる」