皇帝と皇帝
最初に近づいた子蜘蛛が糸を吐き出した。シャイードはクロスボウを盾にしてこれを受ける。二匹、三匹と同じように糸を吐き出してくるが、同様にクロスボウで受け、最後にこれを手放した。クロスボウは落下することなく、子蜘蛛たちから垂れ下がる。
自由になった右手ですかさず小剣を引き抜き、左手で握っていた縦糸を放した。身体がブランコのように大きく背後に揺れる。糸は背中に張り付いたまま、シャイードの重みで伸びた。
それが見えぬままに頭上で剣を一閃させ、糸を断ち切る。
(よしっ!)
だが、身体が落下しない。
「!?」
遅かった。集まってきた子蜘蛛たちが、次から次へとシャイードに向けて糸を吐きかけて、背中だけでなく腕にも足にも糸が絡んでいる。
視界の端では、さらに別の子蜘蛛たちが下へ――劇場の観客席へと降りていくのが見えた。観客の夢を奪いに行くつもりだ。
しかも気づけば親蜘蛛がいない。首を巡らせると、親蜘蛛は既にユリアに迫っていた。
「くっ……!!」
もはや竜人の姿に戻るしかないと覚悟を決めたとき、爆発音と共に親蜘蛛が吹っ飛ぶのが見えた。
「! アルマか?」
いや違う。アルマは舞台の上で、観客の方を見ている。
その観客達の頭の上では、子蜘蛛がじたばたと足を動かしていた。見えない何かに阻まれて、取り憑けずにいる様子だ。
(じゃあ、さっきのは一体、誰が……)
続いて、シャイードの真上でも炎が閃き、子蜘蛛たちの輪が広がった。糸が熱で溶け、シャイードの身体は、不意に自由を得て落下する。
「うわっ……! ……わ?」
落下の途中で腹に衝撃を受け、急に移動のベクトルが変わった。観客席が横に動いている。うつぶせに身体を折り曲げ、横向きに飛んでいるのだ。咄嗟に振り返る。
「わ・た・し。ふふっ」
見上げた先にメリザンヌの顔があった。彼女はドレス姿で杖に横座りしている。杖の前方に、シャイードの身体を乗せていた。
「手助けが必要だったみたいだから。でもこれ、どういう状況? 美形さんが舞台に出てきたら、旦那様も周りも様子が変になってしまって」
メリザンヌはぷくっと頬を膨らませた。リモードの注意を、アルマに奪われたと感じているようだ。シャイードは両手で杖からぶら下がり、逆上がりの要領で身体を回転させて杖の先端に立った。腕を広げてバランスを取る。
「アンタは何ともないのか?」
メリザンヌは人差し指を立て、顔の横に添えてウィンクする。
「私、魅了の魔法にかかりにくいの。仕組みをよく知っているから。美形さんのは、魔法とは違う感じだけれど……。何をやってるの、シャイード。あのキモチワルイ蜘蛛たちは何?」
「説明は後だ。俺はあの大蜘蛛を倒さなくちゃならねえんだ。アンタも手伝え。魔法で子蜘蛛たちを足止めして欲しい」
「それは構わないけれど……、手伝うって? 貴方たちがこの状況を作り出したんじゃないの?」
メリザンヌは困惑して見上げた。シャイードは振り返って首を振る。
「違う。あの蜘蛛たちは前に話したビヨンドだ。いいから、俺を大蜘蛛の傍に下ろしてくれ」
メリザンヌは状況を完全に理解したわけではなかったが、シャイードの言う通りに一番大きな蜘蛛へと向かった。
親蜘蛛は既に爆発の衝撃から復帰し、再びユリアへと近づこうとしている。ユリアはぼんやりとしていて、逃げる気配がない。クィッドの姿がない。……と思ったら、ボックス席の奥の壁に背を凭れ、足を投げ出して俯いている。眠っているのか死んでいるのか、全く動かない。
シャイードはタイミングを計り、メリザンヌの杖から親蜘蛛の腹に飛び降りた。着地と同時に、小剣を突き立てる。
親蜘蛛が、声にならない悲鳴を上げた。それは見えない衝撃波となってシャイードの身体を打つ。目を閉じ、左手で顔をかばった。
………。
…………?
目を開くと、シャイードは再び蜘蛛の巣の上に立っている。先ほどより糸の密度が高く、隙間が小さい。まるで別の巣のようだ。
いや、実際に別の巣だった。薄暗いのは変わらないが、劇場の壁がなくなっていたのだ。蜘蛛の巣は視界の限り遠くへ続き、霧の向こうに霞んで消えている。上空には泡のようなものが沢山浮かんでおり、下は泡立つ昏い海だ。
蜘蛛の巣には相変わらず、人の”夢”が捕らえられたままで、そこかしこでキラキラと儚くも美しい色を放っていた。
「深層領域!? あちら側に引きずり込まれたのか」
親蜘蛛の姿がない。シャイードは四方を見渡した。
見当たらない。
だが、代わりに大小二つの人影が見えた。大きな方はもやもやと、形が覚束ない。それが、小さな方へと手を伸ばした。
「あれは……、ユリア!?」
シャイードは走る。
◇
「ちちうえ……」
レムルスは目の前に現れた人物を、信じられない思いで見つめた。とうに亡くなったはずの、大きすぎる存在。帝国を支える屋台骨であった前皇帝であり、――そして現実では、レムルスを気に掛けることのなかった父だ。
ウェスヴィアは両腕を広げ、蒼い瞳でまっすぐに幼い皇帝を見ていた。
『余の元に来るのだ、レムルス。愛しい我が子よ。共に帝国を、世界を治めようではないか。民衆はお前を待っているぞ。ほら、あの声が聞こえないのか?』
レムルスは身を硬くした。その耳に、微かに歓声が聞こえてくる。民衆はレムルスの名を熱狂的に呼んでいた。レムルスは心が沸き立つのを感じる。
民に愛されている。その夢は彼の心を満たし、どこまでも強くしてくれた。浴びれば浴びるほど、もっと欲しくなる。まるで麻薬だ。レムルスは一歩、父親の方へと近づく。
その時、月を背景に立つ金の瞳の面影が脳裏をかすめた。
彼は手を胸元へ引き、首を振る。
「……まやかしだ。本当の民衆は、僕を待ちわびてなどいない」
『そんなことはない。余が民に、お前を認めさせよう、我が子よ。お前こそが唯一の継嗣であり、広大な帝国の新たなる主なのだと』
「父上が……?」
ウェスヴィアは頷く。
『ああ、もちろん。愛する息子よ。民は余の言葉を受け入れるであろう。受け入れねば、ミナ、ミナ、……皆殺しにするまでだ』
「!!」
一瞬、父親の姿がぶれた。
レムルスは驚き、おびえて一歩下がる。
「お、王が民を虐殺するなど……、あってはなりません。間違っています!」
『いいや。間違ってなどいないよ、我が子よ。どんな国にも、必ず従順でない民はいる。腐った民はいる。或いはそやつは、敵国の送り込んだ煽動者かも知れぬ。……放置すれば、腐敗は他の民へと広がり、国はすぐに立ちゆかなくなってしまうのだ。逆らう者どもは鏖殺する。これは支配者の義務なのだ。王が盤石な地盤を築き、国を長らえさせれば結局は多くの民のためになるのだから』
「そんな……」
『責め立てられて辛いのだろう? 軽んじられて傷ついたのだろう? その者たちを許してはならない! 皆殺しにしなさい。お前は王だ。皇帝だ。民の生殺与奪権は、お前が握っているのだよ』
ウェスヴィアはにこやかに微笑んだ。
レムルスは背筋が凍る思いで、目を瞑って首を振る。胸の前でぎゅっと結びあわされた腕に、父王の大きな手が触れた。
レムルスは涙目で父王を見上げる。
『安心しなさい。お前が出来ないというのなら、余が代わりにやってやろう。お前を苦しめる民を皆殺しに、全て余の糧に、フフ、ハハ……!! シェギョギャギョギャ!!』
ウェスヴィアの姿がどろどろと溶け始めた。溶けていきながらも、ウェスヴィアはレムルスの手を引っ張った。
「ヒッ!!」
『余ヲォ……受け入レろォ、レムルぅぅす……。痛い、イたァい……、早く怪我を治シテシテシテ、クれえエェ、レムるスゥゥ……』
「や、やだ……やだ!! 父上、痛いです。やめて!!」
腕をつかまれたレムルスは必死にふりほどこうとするが、今や人の形を失った黒い悪夢は力強く、逃げられない。つかまれた場所から身体が浸食されていく。形を失って悪夢と融け合っていく。
「あ、あぁ……ぁ……、助けて、姉上! ユリア!! ――駄目、レムルス! わたくしも、逃げようとしているのですけれど、この方、力が……」
その直後、銀の光が閃いて、レムルスの腕が自由になった。勢い余って、レムルスは蜘蛛の網の上に尻餅をつく。
すぐに両手を確認する。ちゃんとある。溶けてなどいない。
視線を上げると、帝国のお仕着せ姿の小柄な背中があった。
「大丈夫か、ユリア」
肩口に振り返った顔を見て、目を丸くする。
「シャイード!? 助けに来て下さったのね」
レムルスは立ち上がり、彼の背後に寄り添い、背中にそっと額を触れさせた。頬が赤い。
「レディのピンチに現れるなんて、あなた、本物のナイトみたいでしてよ」
「そういうのいいから! ……レムルスは!? アイツはまだ起きないのか」
「ぼ、僕もここに……」
同じ口からレムルスの声がして、シャイードは二度見した。その隙に、黒いどろどろとした塊から巨大な蜘蛛の脚が飛び出し、その鋭い先端がシャイードの頭めがけて振り下ろされる。
「シャイード!!」
「!」
ギィン!!
シャイードは流転の小剣の横腹でこれを受けた。斬撃の重さで、足元の糸がたわむ。
すかさず別の蜘蛛の脚が、シャイードの胴体を横に薙いでくる。シャイードはレムルスの身体を抱きかかえて背後に飛んだ。
「離れてろ」
言うなりレムルスを後ろに突き飛ばし、シャイードは不定形の闇に向けて走る。左手で腰の短刀も引き抜き、闇へと立て続けの斬撃を浴びせた。
黒い闇が飛び散る。
効いている。
(いける!)