開幕
開演時間が迫る。シャイードはユリアと共に、ボックス席についていていた。背後にはクィッドも控えている。
クロスボウを組み立て終えたシャイードは、ボックス席の曲がった腰壁から階下を覗き込んだ。
客の入りも、初日とあって好調だ。特にしばらく劇場が閉まっていた後では。
一階の正面席には、リモードとメリザンヌの姿もあった。
「わたくし、おかしいと思いますの」
背後でユリアが口にし、シャイードは振り返る。
ユリアはベルベットの椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながら唇をとがらせていた。
「なにが?」
「この席ですわ! 皇帝のボックス席」
「ああ。すげー席だよな……。柱はきんきらだし、広々としていてゆとりもあるし……」
「けれど、いい席じゃないと思いますわ! だって、舞台のこちら側がよく見えませんもの! わたくし、一階の正面席がよかったですわーーー!!」
「陛下。わがままをおっしゃってはいけません。あちらでは、警備が行き届きません」
クィッドがたしなめる。
「わかってますの! でも、言いたいんですの!!」
シャイードは鼻で笑った。
「ったく。子どもだな、お前は」
「むっ……。レディですわ!」
ユリアはつんとして居住まいを正し、それからは不平を口にするのをやめた。
シャイードは再び、階下に視線を落とす。人々は概ね、席に着いた。間もなく開演だ。
周囲を油断なく見回す。まだあの目眩のような感覚はない。
(近くまで来ているのか? そもそも、来なかったらどうする?)
シャイードの焦燥をよそに、開演のベルが鳴り響いた。
◇
物語の舞台となる王国は、とても美しく、秩序だった国だ。
その国には運命を司る神がいて、人が生を受けた瞬間に、その者の一生を書に綴る。その書を本人が読むことは叶わなかったが、運命神に仕える神官達が読み解き、そこに書かれた役割を伝え、人々は従った。
鍛冶屋になるはずの者は鍛冶屋に。農夫になるはずの者は農夫に。兵士になるはずの者は兵士になった。
――民はすべからく、定められた人生を生き、死んでゆくべし――
よく手入れされた歯車は順調に回転し、王国は繁栄した。
主人公の青年は、犯罪者だ。彼は生まれたその日、神殿が派遣した兵士に連れられて父母から切り離され、牢に繋がれた。
彼の運命も生まれたときから定まっており、彼は未来に犯すであろう大罪のために、無罪のままに牢に繋がれたのだ。
肉親の愛を知らぬまま、冷たい石床と闇を見つめて長い時を過ごした子どもは、心の中に怒りを育てた。彼は密かに爪を研ぎ始める。それは知識であったり、強靱な肉体であったり、不動の精神力であったりした。牢獄から出ることは出来なくても、次々に送り込まれる囚人達から、いくらでも学ぶことが出来たのだ。彼は持てる時間を、全て自分の怒りの焚き付けとして使った。
無慈悲な運命の神を、その手で滅ぼすための――
(アルマだ)
一度幕が下りた後に場面は移り変わり、白亜の神殿が描写される。高台に座るアルマ――運命神と、その神官達。
アルマはうつむいている。長い髪がヴェールのように、その顔を観客席から隠していた。神官達は次々にやってきて積み上げられた書を受け取り、後ろ歩きで下がっていく。
彼らは歌っていた。
秩序こそ世を統べる唯一の正義、
秩序こそは限りなく美しい、
紡がれし運命に従い、
悩みもなく、迷いもなく、生きることのすばらしさ
与えられた義務を全うせよ
ただひたすらに全うせよ
才の限りは標のままに
こは無窮の王国なり
こは無縫の王国なり
――そんな歌だ。神を賛美する荘厳な曲調で、神官達が合唱している。
やがて神官達が去り、照明が弱められる。音楽が止み、神殿は静まりかえった。そうなると舞台は、一幅の絵画のようだ。アルマはうつむいたまま、ゆったりとした動作で高台から立ち上がった。階段を下りて舞台の中央に歩み出てくる。
彼はそこで漸く正面を向き、両腕を広げた。上からの照明が、その姿を薄闇の中に浮かび上がらせる。衣装に縫い付けられた細かなビーズが光を反射し、彼を輝かせた。
観客席から、ほぅ、というため息の波が広がるのをシャイードは耳にした。さやさやとした小さな呟きまでは拾うことが叶わなかったが、いずれ賞賛の言葉であろうと想像に難くない。
アルマは構わずに歌い始める。低いが豊かで、浅瀬の水底で揺れる海面の光のように、心惑わす揺らぎのある声だ。
運命こそ絶対の秩序
誰も逃れることは出来ない
右手で与え、左手で奪う
悪人に報償を、善人に罰を
それが運命であるのなら、
誰にその異が唱えられよう
シャイードは驚いた。随分上達している。
少なくとも、聞くに堪えないレベルではなくなっていた。上手、とまではまだ言えないが。
アルマは両腕を大きく動かしたり、身体の向きを少し変えたりしながら、歌の心を伝えようとしている。
アルマを見慣れているシャイードには、呪文を詠唱する姿と重なったが、言葉の抑揚が抑えめなその様子も、却って神という演技であるように錯覚できた。
発声も充分だ。
(教えられたままなぞってるだけだとは思うが……。短期間でここまで仕上げるのは大変だったろうな。――教える側が)
アルマは教えたことはすぐに正しく再現できるだろうが、教えないことは一切再現しないだろう。言葉の抑揚一つ、腕の動き一つ、すべて教える側が一つ一つやってみせねばならなかったはずだ。
見知らぬ芸術家の苦労の成果を、腰壁に肘をついて眺めていると、いつの間にか隣にユリアが並んでいた。うっとりとした視線をアルマに向けている。
「かっこいいな……」
その表情を見て、シャイードは息を飲んだ。
「お前、……うっ!」
歪みが来た。上下左右の感覚が曖昧になり、宙に投げ出されたような気分になる。シャイードは腰壁をぎゅっと握りしめ、片顔を歪めて片眼で中空を見た。
劇場内に、うっすらと霧が発生している。そこに、二重写しのように現れる大蜘蛛の姿――。
アラーニェの親蜘蛛だ。
背後から息をのむ音が聞こえた。クィッドだ。
振り返ると、蜘蛛を凝視していた。瞳が驚愕に見開かれているが、直後、戸惑ったように周囲を見回した。半分は劇の演出と思ったのかも知れない。
現世界と幻夢界の世界膜が破られ、劇場内は今、夢と現が入り交じる奇妙な空間になっている。
皇帝のボックス席と同じ高さに水平の円網が現れた。蜘蛛はその上を渡ってくる。狙いは皇帝だ。階下の観客達は舞台上にいるアルマに魅了されているのか、上空に立ちこめた霧のせいか、大蜘蛛にも蜘蛛の巣にも誰も気づかない。
(させるか!)
シャイードはクロスボウを拾い上げ、抜き撃ちした。目を狙ったが運悪く、前肢ではじかれた。
舌打ちし、弦を巻き上げて次矢をセットし、腰壁を蹴って蜘蛛の巣の上に飛び乗った。左腕を大きく動かしてバランスを取る。
「シャイード!」
ユリアが名を呼んだ。肩越しに一瞥すると、クィッドが守るように小さな身体に寄り添っている。
「クィッド。皇帝を守ってろ」
「言われずとも」
おそらく、状況を完全には飲み込めていないであろうが、クィッドは自身の役目を忘れてはいなかった。シャイードは口端を持ち上げ、正面に向き直る。
縦糸と横糸の作り出す隙間は大きめで、人間サイズならばどの糸にも当たらずにすり抜けられるほど。逆に言えば、足場としては心許ない。
蜘蛛は邪魔者が進路を塞いだことに怒り、後脚で立ち上がった。
(糸が来る!)
あれに絡まれると動けなくなってしまう。一度構えたクロスボウを下ろし、シャイードは隣の縦糸へ飛び移る。
発射された粘性の塊は、皇帝のボックス席の仕切り壁に付着した。
「きゃっ!」
「陛下! こちらへ!」
ユリアとクィッドの声が聞こえる。
(伏せてろ!)
視線の端に捉えた二人に素早くハンドサインを送り、シャイードは縦糸から縦糸へと左右に動く。クロスボウで蜘蛛を狙った。糸の攻撃は、シャイードから見れば点の攻撃だ。
足場は最悪だが、相手の動きを良く見ている限り、躱すことは難しくなかった。
(捉えた!)
攻撃の間に、隙が見えた。シャイードはクロスボウのトリガーを引く。
射出された矢が、蜘蛛の胸に命中する。矢は刺さったが、胸板に阻まれて有効打にはならなかったようだ。蜘蛛は警戒してうつぶせの姿勢に戻る。
(存外硬い。やはり狙うなら目か腹か)
シャイードは、位置を変えつつクロスボウを巻き上げる。だが次を射出する直前、足元の糸が大きく前方に動いた。
「うおっ」
蜘蛛が前脚で糸を絡め取っている。
倒れ込みながらトリガーを引いてしまい、矢は蜘蛛を大きく逸れて天井の装飾に突き刺さった。
「チッ」
転倒したシャイードの背中は横糸に張り付いた。縦糸には粘性はないが、横糸はネバネバしていたのだ。
だが姿勢を戻した蜘蛛は、すぐには糸を飛ばせないはず。
――そう考えたところに油断があった。
蜘蛛は伏せた姿勢のまま糸を背後に飛ばし、その反作用でシャイードに向かって突進してきたのだ。
「!」
シャイードは糸の隙間に下半身を飛び込ませ、半ば巣から転がり落ちることでこれを躱す。手近な縦糸に左手を伸ばしてつかみ、背中を横糸から引きはがそうと試みる。引っ張っても糸は伸びるばかりで、なかなか離れない。シャイードは焦った。
真上には蜘蛛の腹がある。だが遠い。
右手のクロスボウは巻き上げ終わっていないし、小剣でも切っ先が届かない。
(飛べれば……!!)
背中から翼を出せば、糸を引きちぎれるかも知れない。不安定な足場で戦わずに済むようにもなる。
しかしユリアとクィッドの目がある。観客たちは不思議と全く上を見ないが、もしも誰かがこちらに気づいたら? 竜人の姿を見られたら?
そう考えると危険は冒せなかった。アルマは演劇を続けている。先ほどのシーンからほとんど進んでない。
(自分で何とかするしかない)
その時、蜘蛛が身体を揺すった。周囲に無数の子蜘蛛が出現する。
「うそ……だろ……?」
瞠目し、思わず呻いた。シャイードからは死角だったが、親蜘蛛はその背中に子蜘蛛を乗せていたのだ。
子蜘蛛は四方八方からシャイードに向かって集まってくる。シャイードは激しく身をよじり、なんとか背中に張り付いた糸を断ち切ろうとするが、果たせない。却って糸がへばりつく面積が増えている気すらした。
――絶体絶命だ。




