古城
森の湖畔に、住む者をなくして久しい様子の古城が佇んでいた。レムルスはそのバルコニーに、荷物のように下ろされる。
シャイードは人と竜の交じり合った姿――竜人の姿だ。傍らには闇精霊が従っていた。
不自然に大きな満月を背に負い、表情のほとんどは闇に沈んでいる。その中で唯一、金の瞳だけが不気味に輝いていた。いや、不意に白い牙が現れる。彼は薄く、笑ったようだ。これから起きるお楽しみを想像して、早くも愉悦に浸っているのかも知れない。
彼はレムルスが想像する悪魔そのものだった。慈悲はなく、冷静で、残酷で、強く……美しい。全身を覆う黒曜石のような鱗の煌めきは、月光に映えた。
殺される、と、レムルスは身を震わせた。
夢の中で死ぬと、人はどうなるのだろう。
レムルスはまだ、自分が死ぬ夢を見たことがない。
重すぎる責務から逃げたいと、死んでしまいたいと、うっすらと考えたことはあった。けれど実際に死が身近に迫ってみれば、怖くて、恐ろしくて、逃げ出したくて、生きていたくて、震えが止まらなかった。
(僕は王になんてなれない。兵士を死地に追いやりながら、自分自身は死を、こんなにも恐れるだなんて。民衆はこんな弱虫の僕を、軽蔑するに違いない)
涙が零れた。そんな情けない姿を、恐ろしい魔物に見られていることも恥ずかしい。
だが涙は、自分の意志で止めることは出来なかった。
止めようとすればするほど、流れ落ちる。恐怖から? 悔しさから? 絶望から? 羞恥から? 悲しみから? ……多分、全てだろう。そしてそれ以上だろう。
「アンタ、泣いてるのか?」
シャイードが腰に手を置き、身をかがめて顔を近づけた。レムルスは手足を引き寄せて丸くなり、上目遣いに彼を見上げた。涙の溜まった空色の瞳が、月光に艶めく。
「い、……痛く、しないで……」
シャイードは困惑したように見える。彼は身体を戻し、髪をかき上げた。傍らの闇精霊に視線を向ける。
「つか、ほんと。ユリアにそっくりだ」
『シャイード。痛くするか?』
「ったりめーだろ。コイツ、俺の心臓を矢で撃ち抜いたんだぜ? 殺す気で。俺だってコイツを貫いてやらないと、溜飲が下がらねーだろうが!」
シャイードは人の悪い笑みを浮かべた。悪魔だ、とレムルスはますます身を縮める。
『やり過ぎるなよ。壊れてしまっては元も子もない』
(凄く悪者っぽい……!)
「そのセリフ、凄く悪っぽいぞ、アルマ」
レムルスと同じ感想を、同時にシャイードも抱いたようだ。レムルスは心の中で、お前が言うなと突っ込んだが、口にする勇気はなかった。
「そうだ。ど、どうやって、……どうして生きてるんだシャイード。僕の矢は、お前の心臓を、貫いたはずなのに」
疑問が恐怖に打ち勝ち、レムルスは必死で言葉を紡ぐ。少しでも死への時間を、痛みへの時間を遠ざけたい気持ちも背を押していた。
シャイードが月光を背に見下ろす。
「ドラゴンは、心臓を貫かれても死なないのか!?」
「死ぬに決まってんだろ。ドラゴンだって生き物だ。大事な臓器を壊されれば、死ぬ」
「じゃ、じゃあ……!」
シャイードは自身の胸の中央に親指を立てた。
「アンタの矢は、俺の心臓を貫かなかったからだよ」
「! で、でも……! 僕の矢は確かに……」
「ああ。アンタ、凄ぇ弓の腕だな。ドンピシャに飛んできたぜ」
動揺するレムルスに向け、シャイードは片頬で笑う。
「お陰で怪我しなくて済んだんだ。狙い通り、な」
「どういう……」
「アルマ」
竜人は闇精霊を呼んだ。闇精霊はシャイードの胸の前に下りてきた。そこに張り付く。
「こういうことだ。アンタは矢を、”竜の鱗をも貫く”と定義した。だからまともに食らったら、俺は心臓を打ち抜かれて死んでいただろう。しかし、俺はその矢に”闇精霊を傷つけられない”という定義を追加したんだ。これなら竜の鱗を貫くことと矛盾しねえからな」
『我は飛んできた矢を受け止め、シャイードもろとも森に落ちた。そして矢を持って隠れ、汝らがバラバラになるのを待った』
「待て。それならお前は、僕の矢をわざと胸に受けたというのか!?」
驚くレムルスに、シャイードは得意げな顔で頷く。
「そうだ。ドラゴンの姿だと、アンタがどこを狙うか分からなかったからな。でも人型なら、心臓を狙ってくれると思ったんだ。一撃で相手を沈めるつもりなら狙いは頭か心臓だが、知っての通り、射撃ってのは眉間より胴体の方が躱されにくい。こっちはアンタの弓の腕前を知らなかったから、賭けっちゃ賭けだったが」
シャイードはひょいと肩をすくめた。「俺もかつて、同じ選択をしたからな」と、彼は独り言のように付け加える。この偽計はフォレウス譲りだ。彼と戦った経験が、役に立ったのだ。
レムルスは唇を噛んだ。
「当たりにくくするためではなく、僕に確実に心臓を狙わせるために人型になったのか……!」
「仕留めたと思い込ませる必要があったんだ。そうでなきゃシンモラールとバラバラには行動しないだろ? 矢についちゃ、フォスでも一本くらいは運べるからな。コイツにも出来ると思ったんだ」
シャイードは顔の前を横切っていく闇精霊を目で追った。
『我は汝がシャイードの方に向かったのを確認した後、矢を持ってシンモラールに接近し、ドラゴンの急所である逆鱗に鏃を押し込んだのだ』
シャイードがひゅっと息を吸い込み、顎の下を両手でかばった。想像するだけで痛かったらしい。アルマは構わずに続ける。
『汝が”竜の鱗をも貫く”と定義してくれていたせいで、力も全く要らなかった。さくっと刺さったぞ』
「そ……そんな……。僕のせいで、シンモラール……」
「アイツはアンタの友なんかじゃねえ。アンタだって、もう分かってるんだろ」
「………」
レムルスはうつむき、腿の上で握り拳を作った。
「あの蜘蛛は、アラーニェの蜘蛛っつービヨンド……、悪意を持った魔物なんだ。アンタの夢に寄生して、”夢”を喰ってた。アンタのことは餌食としか思ってなかったさ」
『奴はまだ死んでおらぬ。今は退却したが、汝は奴にとってご馳走だ。またここへ戻ってくることも考えられる。早く現実へ戻ることを勧めるぞ』
「い、……いやだ……」
レムルスは両手で耳を塞いだ。
「あそこには、戻りたくない! 嫌だ!!」