町の噂
スティグマータたちと別れたシャイードは、夜が明ける前に急いで森を出ることにした。当然、村とは反対方向にだ。
森の外れまで移動して、周囲を観察する。納屋に偽装した監視小屋があり、犬が放たれていた。
犬は嗅覚に優れるが、遠くの匂いをかぎ取れるわけではない。まして先ほどまでの雨の影響で、周囲は草の匂いに満ちている。風向きに気をつければ平気だろう。
この状況で注意すべきは視覚の方だ。彼らは夜目が利く上、動くものには特に敏感だ。
「やはり、お前が来てくれて良かった。頼めるか?」
シャイードは灌木から犬たちの様子を探り、肩に乗ったフォスを撫でた。
フォスをおとりに使えば、犬の性質を逆手に取れる。例えフォスが監視の兵士に見つかったとしても、単なる光精霊だ。
魔力濃度の低いこの辺りでは珍しいだろうが、さりとて存在に疑念を抱くほどではない。
フォスは一度、光をごく弱くしてシャイードの傍を離れた。
そしてふわふわと飛びながら、急に光を強める。そしてまた弱めて飛ぶ。
犬たちは気がつき、吠え声を上げながらフォスを追いかけ始めた。フォスは犬をからかうように、彼らの鼻先すれすれを飛んだり、手の届かない高さまで浮かんだりを繰り返している。犬はすぐに見張りの使命を忘れ、本能のままにフォスを追った。夢中になっている。
(よし。今だ)
シャイードは素早く森から出て、影に潜むやり方で一気に駆ける。兵士たちが何事かと小屋から出てきたときには、シャイードはすっかり森から離れていた。
そのまま、村と森を大きく迂回して街道に合流し、帝都へと向かう。
途中でフォスが戻ってきて、日の出頃には帝都の門へたどり着いていた。
今回は、周囲の村々から食料を納品に来た人々の列に紛れ、検問を強行突破することにした。人の視線と意識には必ず隙間がある。その隙間を縫って移動するのが、影に潜む歩き方だ。
単独ならばこういった手段も取れる。
帝都に入るなり、やはり息苦しさを感じた。
(う……。やっぱりこの町はなんか嫌だな……)
寝不足と緊張と疲労で、瞼も重ければ身体も重い。歩くのもおっくうだったため、シャイードは辻馬車を拾った。メリザンヌの家の住所を告げたのち、座席に身を丸めて眠りこんでしまう。
家にたどり着いたシャイードは、アルマと部屋の前でばったり会った。
「ずいぶん遅いのだな。それに疲れておるようだが」
「ああ。だから今はお前と話したくない。後でな」
「そうか。我は歌の特訓に出かけてくるぞ」
シャイードが追いやるように手を振っても、アルマは特に気にした風でもない。
踵を返し、規則正しい足音が階段を下っていった。
シャイードは扉を閉めて鍵を掛けた。マントや靴や荷物を外すと、ベッドに倒れ込む。あっという間に、意識は眠りの底に沈んでいった。
◇
気がついたときには夕暮れだ。身体がミシミシする。シャイードはベッドの上で身を起こし、肩を回した。それから首を左右に倒す。
ぐっすりと眠った割に、疲労が抜けきっていないと感じた。回復力の高い彼にしては珍しい。大きなあくびと共に、伸びをした。
窓の方を見る。
窓枠の上で、フォスがゆっくりした明滅を繰り返している。その向こうの空は、くすんだ色をしていた。
シャイードは靴を履き、立ち上がってストレッチをした。フォスが近寄ってくる。
ぐう、と腹が鳴った。
(疲れが取れないのは、腹が減ってるせいだ)
左手で腹をさすりつつ、床からバッグを拾い上げた。今朝、脱ぎ散らかして寝てしまっていたのだ。探索道具は取り出し、貴重品類は中に戻しておく。
下水道で謎の襲撃者が持っていたペンダントと”海の火”の瓶も、机の上に置いた。これらについては、どうすればいいかわからない。メリザンヌに相談するべきだろうか。それとも皇帝に……? ビヨンドの事件はともかく、ドラゴンである自分が人間同士のいざこざに、介入するべきではない気もする。シャイードは答えを保留した。
ともかく、ネズミ相手に使い果たしてしまったクロスボウの矢は、補充しておかなくてはならないだろう。
着替えの入った大きい方の鞄から予備のターバンを取り出し、しっかりと頭に巻き付ける。それだけで大分安心感があった。
次に中身を減らして軽くなったボディバッグを背負う。再びあくびをし、部屋の扉を開いた。
足は自然に、広場の方に向かった。途中、流行っていそうな大衆食堂を見つけて扉を潜る。夕飯にはやや早めの時間だったが、案の定、仕事帰りらしき男達で店は賑わっていた。
シャイードは隅の一人席を上手く確保し、たらふく腹ごしらえをした。食べたらすっかり元気が戻ってきて気分が良い。今はエールを片手に、小さな川魚の干物とナッツのつまみを囓っている。
右からも前からも、ざわざわといろいろな言葉が潮騒のように聞こえており、聞くとはなしに耳を傾けていた。
どれも他愛のない愚痴や、身の回りの噂話や、誰それと誰それが結婚したなどというちょっとしたニュースだ。
(スティグマータがいなくなったことを話題にしているやつは、まだいないようだな)
流石に見張りには気づかれているだろうが、ここまで噂が広まるまではもう少しかかるのかも知れない。
そのうちに隣の客が入れ替わり、珍しい女性の二人連れが座った。年の頃はどちらも二十代半ばほど。そばかすの目立つひょろっと背の高い女性と、背が低くてふっくらした、愛嬌のある顔立ちの女性だ。会話内容からすると、お針子らしい。請け負っていた大きな仕事が終わり、その打ち上げのようだ。
料理が届くと、二人はグラスを合わせた。
「かんぱーい! お疲れ様!! でも明後日はいよいよお披露目だねえ」
「急ぎの調整だったけれど、間に合ってほっとしたわ」
「リモードさん、元気になられて良かったよね」
「ほんとほんと。一時はどうなることかと思ったけれど。無気力病って治るんだね」
ほとんど聞き流していた会話に、知った人名が紛れると、シャイードは耳をぴくりとさせてそちらに注意を向けた。視線は手元のナッツに落ちたままだ。
「なんでも奥様が、それはもう献身的な看病をされたそうよ」
「そうなの? あら、でもリモードさんの奥さんって、何とかいう有名な悪女だったんじゃなかった……?」
ほっそりした方は片手を上下にぱたりと振った。
「人の噂なんて、あてにしちゃだめ。美人は何かとやっかまれがちだもの」
「それもそうかもね。あたしもやっかまれないよう、気をつけなくちゃいけないわー!」
「あなたはその点、全く心配いらないんじゃない?」
「ちょっと、それどういう意味!?」
会話が途切れ、二人の間に緊張が走る。シャイードはそちらを見ないようにしながらも、居心地悪そうに足を組み替えた。
しかし、先の会話はお互いに冗談だったようで、すぐにおほほあははと笑い声が聞こえてくる。
シャイードは肩の力を抜き、酒を傾けた。
「それにしても、素敵だったわね……! あの新人俳優さん……!」
「アルマさんといったかしら。私もすっかり、ファンだわあ……」
続く言葉に、シャイードはぶほっと咳き込んだ。気管支に酒が入ってしまい、胸を叩いて咽せる。
隣からは「はぁあ……」というピンク色のため息が聞こえた。
「でもね、何というか近寄りがたいのよね。役のせいかしら?」
「そうそう。離れたところで愛でていたい感じ。絵画のように」
「「同士よ!」」
二人の手がテーブル上でがしっと組み合わされる。
「最初はその、……ね? 歌が……アレだったけれど、かなり良くなった……わよね……?」
「さ、さあ? どうなのかしら……。先生がだいーーぶ、苦労されていたみたいだけれど。なんにせよ、明後日が楽しみだわねぇ」
シャイードは残ったつまみを掌にがしっと握り込み、口に放り込んだ。ばりばりと小気味よい音を立ててかみ砕く。
(初演は明後日なのか。思った以上に、早く形になったんだな。……よし)
口をもごもごさせたまま、小型銀貨を二枚置いて立ち上がる。
(このまま一気に片付けてやる)
胸の前で掌と拳を打ち合わせた。




