地下通路にて 2
そこに弦の音が流れてきた。セティアスだ。足元にランタンを置き、両手でリュートを爪弾いている。
不安定な旋律、不気味な不協和音の混ざった奇妙な曲だ。
吟遊詩人は自身に近づく巨大ネズミを、踊るように優雅に回転しながら蹴り飛ばしつつ、前奏を終えて歌い始めた。
いつもの彼の歌い方ではない。地の底から響くようなデスヴォイスだ。
『朽ちた古都市の 石柱に
時が刻みし 苦界の印
眠りよ来たり 死よ来たり
無色の魔王 その名はXXX』
(上位古代語! 呪歌か!)
呪歌は魔力の織り込まれた”力ある歌”だ。呪性魔法と同様に人間が、主に妖精と一部の魔物から盗んだ魔法である。
歌詞は妖精語のものと古代語のものとがあるのだが、妖精語のそれが友好的であったり悪戯的なものが多いのに対し、古代語のものは敵対的なものが多い。
魔法の一種なので、歌詞の意味が分からなくとも、聴覚を持ち、かつ精神活動のある魔物は(当然、人間も含めて)影響を受ける。
シャイードは歌を聴いて、心の中に不安が膨らむのを感じた。特に、発音が聞き取れなかった部分には、理由もなく肌が粟立つ。下水道の壁に音が反響しているのがまた、やけに怖い。見えないところから、何者かの腕が幾つも伸びてくるのではないかと……
(”恐怖”の呪歌だな)
心とは裏腹に、思考は冷静に判断を下す。原因の分かっている恐怖など、恐るるにたりない。彼は心に沸き上がる不安を押し戻した。
(良いチョイスだ。巨大ネズミどもは貪欲だが、あいつらはもともと恐がりだ)
現に通路に上っていたネズミたちが、動きを止めた。後脚で立ち上がって、不安そうに鼻先をぴくぴくとさせている。そこをスティグマータが叩きつけると、たまらずに一匹が下水道に逃げ出した。
それを見た他のネズミ達は、自分が叩かれたかのように、我先にと折り重なるようにして下水に飛び込んでいく。水面を泳ぎ、下水道の壁面に開いたひび割れに次々潜りこんだ。その先に、巣があるのかも知れない。
シャイードはスティグマータたちが呪歌の影響でパニックに陥ることを危惧したが、彼らの表情に変化はない。襲われた直後の緊張感はあったが、ネズミが逃げると助け合って元通りに列を形成し始める。
恐怖は生存本能に直結する感情ゆえに、ネズミとは対照的に、生きることに執着のない彼らにはほとんど影響しなかったようだ。
「噛まれた奴はいるか!?」
巨大ネズミたちが一掃されたのちに、シャイードは納剣しつつ尋ねる。スティグマータたちは互いを確認し、首を振った。シャイードはほっと肩の力を抜く。
セティアスが素早い判断で、呪歌を歌ってくれたお陰だろう。
「最後尾にいるグリフも大丈夫か?」
「大丈夫みたいだよ。ほら」
楽器を背中に回し、ランタンを拾ったセティアスが後方を示す。離れたところで光が横に揺れている。シャイードは頷いた。矢の尽きたクロスボウを拾って畳み、ボディバッグに取り付けて両手を自由にした。
スティグマータたちが並んだのを確認し、歩き始める。
「アンタ、呪歌が使えるなんて一言も言わなかったじゃないか」
シャイードは唇をとがらせた。セティアスは彼の方を振り向き、小首を傾げる。
「おや、もしかして怖がらせてしまったかい? ごめんね?」
「怖くねーよ! 全然!」
吟遊詩人の口元に、笑みが浮かんでいるのを見つけて、シャイードはカッとなって言った。つい大声を出してしまい、恥じ入って口を噤む。
そのまま、しばらく唇を引き結んで歩いていたが、再び口を開く。
「他にもいろいろ歌えるのか?」
「ふふ、そうかもしれないね? 隠し芸を沢山抱えていたいタイプなんだ」
「秘密主義者め」
「謎が多い方が、魅力的だろう? そうは思わないかい?」
セティアスがウィンクをした。それを見て、シャイードは渋面を作る。
「うさんくささしか感じねーよ」
「おやおや。それを言うなら、僕は君ほど秘密主義な子も珍しいと思っているよ」
吟遊詩人は目を細め、肩をすくめた。手に持つランタンの光が揺れる。
「俺はいいんだよ」
「ふはっ。君は時々、傲慢だね。本当はどこかの王様か何かだったりするのかい?」
シャイードはどきっとしたが、吟遊詩人は冗談として言ったようで、あははと笑った。
ほどなくして、通路がやや昇りに傾斜する。徐々に水面から離れる形だったが、登り切って平らになった場所に、流れを横断する形に橋がかかっていた。
「ああ、これだな。橋だ」
「橋か? これが」
手すりも何もない、粗末な板きれが小高くなった通路の上を渡されているだけだ。一応、両端を固定されているが、石畳に撃ち込んだ鉄のボルトは随分と錆び付いていた。
二人並べるほどの幅はない。気をつけて、ひとりずつ渡るしかないだろう。
シャイードはやれやれと首を振った。
「愚痴っていても仕方ない、か。ネズミが戻ってくる前に、渡っちまおうぜ」
シャイードは言うなり、率先して板に乗った。その場で軽く跳ねてみるが、特に不穏な音がするでもない。ヒビはなく、腐ってもいないようで、強度は問題なさそうだ。ボルトが緩んでいるのか、少しぐらぐらはするが。
向かい側の通路を来た方向に幾分戻った所に、別の通路が合流している。ネズミと戦った場所の、少し下流だ。この後、南に向かうその通路を通る予定だ。
先ほど大騒ぎをしてしまったから、近くに何者かが潜んでいれば、自分たちの存在は既にバレバレだろう。小さな物音なら流れがかき消してくれただろうが、さすがに歌声は無理だ。
あの場では呪歌が最適解だったとは思うが。
シャイードは橋の上で、そちらへ視線を投げる。もう、後続の松明の明かりも届いていない。
「少し、先を見てくる。明かりを一つ貸してくれ」
「よろしく頼むよ。こちらは任せてくれ」
セティアスを経由して、松明を分けて貰う。シャッターつきのランタンがあればありがたかったが、彼が持つランタンにもシャッターはついていない。無い物ねだりをしても仕方がない。いつもはフォスがいてくれるから、シャイードも持ち合わせていないのだ。
シャイードは左手に松明を持ち、早足で通路を進んだ。
角までやってくると、懐から鏡を取り出して通路の先をうかがった。奥は暗い。見渡す限り、通路に動く気配はないようだ。
確認を終えて戻ろうとしたとき、何か白いものが視界に映った気がした。
もう一度、鏡をそちらへ向ける。
(何だアレは……。舟か?)
下水の中に、何かが浮かんでいるようなのだ。シャイードは迷ったが、鏡をしまい、通路を曲がった。右手はいつでも抜けるように剣の柄にかけている。
近くまで行くと、浮いているものの正体が分かった。やはり舟だ。
荷物が載せられ、その上に覆いが掛けられていた。ロープを使って通路に舫われている。
(何で下水道に? 地上にも水路はあるのに……。密輸か?)
奥に向けて松明を掲げた。通路に木箱が重ねられているのが見える。だが、動くものは見えない。シャイードは松明を壁に立てかけ、ロープを引いて舟を通路に寄せた。
シートをめくると、その下には蓋のない木箱が並んでいた。揺れで中身が擦れあって、カチャカチャと小さな音を立てている。
(酒瓶か? 密造酒? それにしたって何で……)
シャイードがもっと良く見ようと舟に片足を掛けたとき、風切り音がして背後の松明が倒れた。
(矢だ!)