地下通路にて 1
扉から先は、セティアスが青年から明かりと案内役を引き継いでいる。シャイードは彼と並んで先頭に立ち、左右を警戒しながら進んだ。
同じような通路を少し歩いたところで、T字路にぶつかった。正面には下り階段がある。
シャイードは鼻を鳴らした。どこからか、生臭いような臭いが漂ってきている。
セティアスは左右の道ではなく、迷わず階段を選んだ。
階段も通路と同じ幅で、二人が並んでも問題はない。
「ここを下ると、水路にぶつかるはずなんだ」
「水路?」
「と言っても、下水の方だけどね」
「うへえ……どうりで」
シャイードは鼻筋に皺を作った。セティアスが小さく肩を揺らす。
「まあまあ。踏み込まなければ問題ないよ」
話している間に階段を下りきる。先にシャイードが付近の様子を確認し、セティアスが続く。
水路の左右は高くなっており、歩けるスペースがあった。
シャイードは階段から少し離れて、後続の邪魔にならない場所から下水道を覗き込んだ。水は濁っていて、深さは見ても分からない。流れはそこそこ速いように思う。汚水の臭いは想像よりは幾分マシだ。
(雨が降っていたからな。通常より増水しているんだろう)
水路の幅は大人なら飛び越せなくもない程度だが、足場が悪いことに加えて暗いことから、運動が得意でなければ落ちる可能性の方が高い。子どもや怪我人がいるスティグマータたちに飛び越えさせるのは無理だろう。
シャイードはポケットから磁石を取り出した。流れは概ね西から東に向かっているようだ。町なかを流れる川と連動しているのか、或いは別の流れなのかは分からない。
南に向かう予定だから、どこかでこの流れを渡る必要があるだろう。
「下流へ向かうと、途中で通路が消えてしまうから、一旦上流へ向かうつもりだよ」
セティアスが指を差す。
(というと、西の方角だな。鍛冶工房街の下か)
シャイードは頷きながら、頭の中で町の地図を展開して現在地と照らし合わせてみようと試みた。
「渡れそうな場所に、心当たりはあるのか?」
「ああ。一カ所、橋があるんだ」
「よし。なるべく急ごう」
スティグマータたちは周囲を珍しそうに見回しているが、不安げな様子はない。既知の領域から足を踏み出したのだから、恐れるだろうと予想していたシャイードは意外そうに瞬いた。彼らはただ静かに、手を繋いで支え合っている。
再びセティアスとシャイードが先頭に並び立ち、下水道に沿って歩き始めた。スティグマータたちが続く。
下水道には時折、別の水路が接続した。そういう場所は、通路がアーチ状に盛り上がっている。水は流れ込んでいる場合と、流れ出ている場合の両方があった。
下水道の天井の中央に穴が開いていて、そこから水が流れ込んでいる場所も幾つもあった。セティアスによれば、そういった水はほとんどが雨水なのだという。
通路の壁は幾度も途切れ、別の方向へ道が続いている。壁自体にもあちこち穴が開いており、内部を覗くと空洞があった。
「まるで住居みたいだな」
「その通りだよ。かつてはドワーフたちの採掘都市だったから。彼らの都市の最上層だった場所を、下水道として再利用しているんだ」
「ああ、そうか。鉄鉱石が取れたんだったな」
「今でもね」
シャイードが疑問を浮かべてセティアスを見遣ると、彼は眉根を寄せ、口元には笑みを結んだ。ふふふ、と低い声で笑う。通路の壁に反射し、その声は不気味に響いた。
「そう……何故かドワーフたちは、ある日突然、この都市から忽然と姿を消したんだ」
「鉱脈も町も放置して、か?」
「不思議なことにね……。彼らと交易していた人間の武器商人が久しぶりに訪れたときに、鎚音が聞こえないことに気づいたんだ。町の様子は以前と変わらぬままに、住んでいた者たちだけがいない。どこもかしこももぬけの空だ。精錬所の火は消え、酒場には空の樽が転がり、路上のテーブルに放置された盤上遊戯のコマは、ゲームの続きを静かに待っていた」
シャイードはごくりと唾を飲み込んだ。
セティアスの語りは淡々として、いつの間にかささやくような声量になっていた。
「商人は住居区画を見て回った後、好奇心に駆られるまま下層へと足を踏み入れた。町は鉱脈を追って、下へ下へと広がっていたからね。誰かいるかも知れないと思ったんだろう。涸れた鉱脈が住居として利用されているんだ。上層の住居はこの通り、平らに加工された石造りだけれど、下に行くほど削りだした岩そのままだ。――果たして、坑道には採掘道具が放置されていた。トロッコに鉄鉱石が山と積まれたまま。やはりそこにも、ドワーフの気配だけがない。さらに進んでいくと、どこからともなく『ぼう、ぼう、ぼう』と低い音が聞こえてきたんだ。何かの鳴き声のようでもあり、洞窟を吹き抜ける風の音のようでもある。そして生暖かい風が吹いてきた。商人は嫌な予感に背筋を撫でられていた。進むべきか、引き返すべきか。彼は躊躇した。その時、地面が大きく揺れた……」
セティアスは不意に言葉を句切った。
彼は足を止め、背後を振り返る。スティグマータたちは黙々と、そして整然と歩いていた。光を翳して合図すると、少し離れたところで松明が横に振られた。何か不具合があった場合は縦に振って貰う約束だ。遅れている者はいないようだ。
シャイードはその間も、前方を警戒している。下水道の天井から落ちる水が、先ほどよりも増えている気がする。雨が酷くなっているのだろう。
水音はこちらの気配を消してくれるだろうが、潜んでいるかも知れない敵の気配もかき消してしまう。
その時、ばしゃりと水音がした。
シャイードは身を硬くして下水道にクロスボウを向ける。目を細め、異変を探した。
黒々とした水は、うねりながら流れている。セティアスの持つランタンの光を反射して、所々がちらちらと光った。
(気のせいか……? 魚か何かか?)
フォスがいないことがもどかしい。光精霊なら気になるところに飛んでいって照らしてくれるし、それ自体、ときおり危険に気づいて警告してくれる。
小さく息を吐いて肩の力を抜くが、警戒は緩めないままだ。
セティアスが隣に並んだ。再び歩き始める。しばらくは無言だ。
ランタンの光が、暗闇の中から下水道や住居の壁を次々に切り出してくる。濡れた石畳を踏みしめつつ、シャイードはそれが、たったいま創造されたもののように感じていた。光に照らされる前までは、混沌の闇に沈んでいたもの。これは夢なのだろうか、それとも現実なのだろうか。下水の臭いにも、とうに鼻が慣れてしまった。
シャイードは迷った末に、口を開く。
「……さっきの話だが……」
「うん?」
「武器商人は死んだのか?」
「あは、なんだ。ちゃんと聞いていてくれたのかい? 反応がなかったものだから、興味がないのかと」
「下手な聞き手で悪かったな」
「分かってる。君は周囲を警戒してくれていたんだよね、シャイードくん」
セティアスの視線を横顔に感じたが、シャイードは前方を警戒するふりで無視した。
「……咄嗟に身を低くして、柱の陰に隠れた武器商人は、揺れが収まると舞い上がった砂埃に咳き込んだ。視界がきかない。地震の衝撃でランタンを落としてしまい、周囲は真っ暗になってしまっていたんだ」
バシャリ。
再び水音がした。確かに、何かが跳ねた。
セティアスにも聞こえたようで、彼も黙ってランタンを水路に掲げている。
「おや? 先ほどよりも水位が……」
「ふぁあっ!!」
セティアスの言葉を遮るように、間の抜けた悲鳴が後続から上がった。
スティグマータたちの列が、前後に割れる。シャイードはそちらに目をこらした。光に照らされ、一抱えもありそうな黒々とした塊が下水から上がって来るところだ。
シャイードは通路のきわに片膝をつき、黒い塊にクロスボウを向ける。しかし、付近のスティグマータが右往左往して射線を塞いでいるため、撃てない。
「チッ」
「シャイードくん!」
セティアスの鋭い声が飛ぶ。
シャイードは振り向きざま、気配に向けて撃った。狙いをつけている余裕はなかったが、すぐ背後に迫っていた”それ”に当てるのは容易かった。
ギュギッという甲高い声を上げて、それは水に落ちる。その際、長い尻尾が見えた。
「巨大ネズミだ!」
まさしく下水道だ。二の矢を継ぎながら、シャイードはもう一度、スティグマータたちを見遣った。火かき棒を持つスティグマータが、ネズミを殴っていた。ネズミはたまらずに水に逃げた。だが一匹撃退する間に、新たに三匹が通路に這い上がっている。
(この狭い場所で、やっかいな!)
シャイードは再び舌打ちした。
巨大ネズミは、強さ自体はたいしたことがない。ただ、群れる習性がある上、噛まれると病気に感染する可能性が高い。
治癒魔法の使えるものがいればそれほど恐れることはないが、ここにはいない。下手をすると、一噛みが命取りになる。
「子どもと怪我人は壁際へ! 武器を持っている奴はとにかく手近のネズミを叩け! 絶対に噛まれるなよ!? それと松明を低い位置で振り回せ。牽制にはなる」
シャイードは指示を飛ばしながら、通路に向かって泳いでくる巨大ネズミをクロスボウで次々に射ていく。
スティグマータたちは素直に従い、組織だってネズミに反撃し始めた。ネズミはよほど空腹なのか、スティグマータたちのむき出しの脛に食らいつこうと、果敢に攻撃を仕掛けている。今は何とか耐えているが、いつかは誰かが防衛に失敗してしまうだろう。
「くそっ。数が……!」
矢が尽きる。シャイードはその場にクロスボウを置き、しゃがんだ姿勢のまま小剣を抜いた。丁度上ってきたネズミたちをまとめて横になぎ払う。勢いで水に落とすことは出来たが、代わりにそれぞれへの斬撃は浅かったようだ。特に端のネズミへは、硬い毛皮に阻まれてほとんどダメージになっていない。
無傷のネズミは少し泳ぎ、下流でまた岸に上がろうとした。
(アルマがいてくれれば……!)
あの凍らせる魔法があれば、勝負は一瞬だっただろうに。ついでに反対側にも楽々渡れる。
(いると鬱陶しいが、いないと不便だな!)
シャイードは理不尽な苛立ちを、不在の魔導書にぶつけた。