がらくたを紡ぐ
蜘蛛は糸をたぐり、逃げる。
それ自身が今、養分にしている夢に向かって。
ヒトの夢の領域に入り込むと、蜘蛛は姿を変えた。夢の主が望んだ姿だ。今日の役名は、”母親”というらしい。
木漏れ日の美しい森の中を二本の足で歩いて行くと、夢の主がいた。彼はまた、弓を引いている。
傍らには父親がいて、幼い彼の頭を優しく撫でていた。それから片膝をついて子どもと目線を合わせ、的を指さして何かを言う。
子どもは熱心に頷き、直後に夢に入り込んだ”母親”に気づいた。
「母上! 来て下さったのですね!」
子どもは弓を手にしたまま、駆け寄ってきた。”母親”は身を折り、両腕を広げて子どもを迎える。夢の主がそう望んだからだ。
子どもは”母親”を抱きしめ、頬にキスを送った。”母親”も、同じ事を返した。
挨拶を終えた子どもは腕の中から一歩下がる。そして目を丸くした。
「母上……? 怪我をされているのですか?」
”母親”の片眼は閉じられたままで、そこから血が流れ出ていた。腹もだ。にじみ出した血で服が濡れている。
子どもはもう一度、母に手を伸ばし、小さな両手で顔を挟んだ。
光が溢れ、傷は一瞬で癒やされる。
夢の中では、因果の逆転は容易く起きる。治癒という果は過去のこと、そしてその因を今、夢が再現しているのだ。
「これでもう大丈夫です。僕が母上を傷つけるあらゆるものから、守ってみせますから!」
『ありがとう。頼りにしていますよ、レムルス』
頼もしい子どもの言葉に、”母親”は微笑んだ。相手がそれを望んだからだ。
父親が歩み寄ってくる。彼は子どもの肩に手を置いた。
「レムルスの弓の上達には、目を瞠るものがある。もうこの距離の動かぬ的では、相手にはならないようだぞ。このまま力をつければいずれ、国一番の弓の名手になるだろう」
男の低い声には愛情が溢れていた。誇りに満ちた表情で、子どもは父親を振り仰いだ。
「はいっ! 父上と一緒に、戦場で功績を立てたいです」
「ははっ! 頼もしい奴だな!」
父親は子どもの両脇に手を差し入れ、頭上高くに持ち上げた。
その風景を、蜘蛛は貪る。
甘い理想で飾られた夢がはぎ取られてしまうと、その素材である記憶が残された。
夢と比べると取るに足りない、何の輝きもないがらくただ。そのがらくたから、この主は滋養に富んだ夢を紡ぐ。
無から有を。
絶望から希望を。
その希望を、”夢”を、蜘蛛は好んでいた。
がらくたの山の上に、そびえ立つ椅子が一つ。
そこに、大きすぎる王冠を頂いた子どもが座っていた。表情は影に沈んでいて分からない。
「一番古い記憶の中で、母はとても優しかったよ」
子どもは、誰にともなく語り始めた。がらくたの中に仰向けに倒れていた、ボロボロの人形が一体、立ち上がる。
毛糸の髪はほつれ、ボタンの目玉は片方が取れそうで、あちこち綿が飛び出している惨めな人形だ。
「寂しそうに笑う人だった。いつも、困ったような眉をして」
その傍に、小さな人形が立ち上がる。壊れてはいないが、顔のない人形だった。
ボロボロの人形が、顔のない人形を抱きしめて頭を撫でる。
「やがて奇妙なことが起き始めた。母には僕が、見えなくなってしまったんだ。代わりに、見えない人が見えるようになった。母の子ども時代、いつも共にいて、彼女を支えてくれた人が。……母は心労から、子どもに返ってしまった」
ボロボロの人形は、小さな人形から手を離し、虚空に向けて手を振った。一人で踊り、一人で笑った。人形なので声は立てない。ただ口元に片手を当て、身体を揺らした様子から笑ったと分かるだけだ。
「僕はここにいるのに、母は僕を見てくれない」
小さな人形は何度もボロボロの人形の前に回り込むが、ボロボロの人形はすぐに別の方を向いて歩いたり、そこにいない誰かに向けて身振り手振りをする。
「のちに僕は理由を知った。人は刃物を使わずに、人を壊すことが出来る……。何て恐ろしいのだろう。父は母を守ってくれなかった。乳母にも守る力がなかった。誰も母を守れなかった。僕にもっと力があれば、母を守ってあげられたのに」
ボロボロの人形の周りに、綺麗な服を着た人形たちが立ち上がる。ボロボロの人形を丸く取り囲み、手で殴り、足で蹴り、立ち上がれなくなった人形をさらに踏みつけた。
ボロボロの人形は、動かなくなった。
冷たい風が吹いて、霧が出てきた。
がらくたを全て包み込み、新たな夢が始まる。
王城前の広場には、数え切れないほどの民衆が押し寄せていた。色とりどりの髪や衣服、種族、老若男女。目がチカチカしそうな程、多様だ。
それらはしかし、一様に若き皇帝を讃えていた。
「皇帝陛下に、栄光あれ!」
「その御代に、神の祝福あれ!」
バルコニーに立ち、片手で応えながら見下ろすレムルスは、満ち足りた表情をしていた。夢の中の彼は光り輝くように美しく、力に溢れた立派な青年に成長していた。
彼は嘱望されて皇帝の座に着いた。現実では死んだはずの兄姉からも、貴族や臣からも、兵士からも。
民衆は彼を敬愛し、彼の言葉に従い、彼の庇護の元、平和に幸せに暮らしていた。地上の楽園だ。
誰も飢えることはなく、争うことはなく、健康に働き、夢を叶え、子を育て、沢山の孫達に看取られて生を終える……。
レムルスの帝国はそうなった。
全てが上手くいっていた。
「余は我が全力をもちて、全ての臣民を守ることをここに約そう。苦しみはもはや汝らを脅かせず、あらゆる喜びの果実は汝らのものである!」
民衆の歓声が、ひときわ大きくなった。
その上空を、悠々と滑空してくる姿がある。エメラルドグリーンに輝く鱗を持つ、一頭の竜――ドラゴンだ。
白亜の城のバルコニーの前で速度を緩めたその背に、皇帝レムルスは飛び乗った。
手綱を引き、彼の民の上を滑空する。
驚嘆に打たれた人々のため息が、風となってドラゴンの翼を天に押し上げた。
レムルスは声を立てて笑った。
誰もが彼を知り、彼の名を讃え、彼に心酔していた。
周辺諸国は傅き、誰も彼を侮ったりしない。彼と、彼のドラゴンが治める帝国を。
民衆に混じり、空を見上げていた蜘蛛は満足げにギチチと歯を鳴らす。
言語を持たぬ動物の思考を、人の言葉に直せばこうだったろう。
大層な”夢”だ。
人の見る”夢”を全てたし合わせたような、とても大きな”夢”だ。
この”夢”も、さぞかし美味しいだろう。
今は腹が満たされているが、いずれ空腹になったら喰らってやるのだ。