深層領域
巨大蜘蛛は押しつぶした獲物を確認すべく、脚を持ち上げた。
そこでは哀れな木こりが、血しぶきをまき散らして圧死している。
……はずであった。
だが彼の死体の代わりにあったのは、舞台の床に開いた四角い空隙――舞台装置の”奈落”だ。
消えた獲物を探して右往左往する巨大蜘蛛。
「はっはっは!!」
そこに笑い声が響く。照明が、舞台の上空を丸く照らした。緋色の緞帳を背景に、丸い光の中を、ブランコのような舞台装置に乗って降りてくるシャイードの姿があった。
「どこを見ている、化け蜘蛛め! これでも喰らえ!」
シャイードは小さな足場でくるりと回転した。するとその衣装は、狩人のものに早変わりする。彼は背に負った矢筒から矢を取り、つがえた長弓を引き絞って放った。
矢は過たずに飛び、蜘蛛の赤い目に突き刺さる。巨大蜘蛛は後ろ四本の脚で立ち上がり、悶えた。
観客席から、「わあー!」という喚声が響く。シャイードは得意げに胸を張って、ブランコの上でポーズを取った。
だが蜘蛛はその間に苦痛から回復する。そして八脚で高く伸び上がり、腹部を前に突き出して尻から勢いよく糸を吐き出した。
「おっと、そうくる……よなっ! アルマ!!」
シャイードは弓を捨て、緑色の羽根つき帽子に片手を添えて、ブランコから飛び降りた。直後、ブランコは蜘蛛の糸で真っ白に絡め取られ、緞帳に張り付いてしまう。
一方、落下したシャイードの下には、黒馬アルマが駆け込んだ。
シャイードはアルマの背に飛び乗り、書き割りの木々の間を駆ける。舞台上とは思えない広さだ。蜘蛛は立て続けに糸を吐き出した。シャイードは腰の長剣を抜いて、前方に切っ先を翳す。
「アルマ、炎だ!」
「炎?」
「お前は炎を吐ける馬だ!!」
「なるほど。我をそう定義したか」
言うなり、アルマは炎を吐いた。降りかかりそうだった蜘蛛の糸は、炎に溶ける。残った破片を剣で左右に切り開いて蜘蛛に接近した。
「我は本来、炎には弱いのだが。……む、口が焦げたぞ、シャイード!」
「余計な設定を考えるな、アルマ!」
「設定?」
「だってここは幻夢……、ぅおっと!」
手綱でアルマを操り、蜘蛛の脚の攻撃をかいくぐる。
「くたばれ!!」
身を低くして蜘蛛の下に入り、その腹の下で長剣を突き上げた。そのまま、柔らかい皮膚を切り裂きながら蜘蛛の尻方向へ走り抜ける。
数メートル離れ、馬のアルマの手綱を引いて反転する。蜘蛛は苦痛に暴れていた。周囲の書き割りを壊し、見失った敵を探して脚を振り回している。
「やったか?」
「……いや……」
蜘蛛が不意に動きを止めた。
その巨体が、キラキラとした光に包まれる。二人の見ている前で、蜘蛛の傷がみるみる癒えていった。先ほど目に突き刺したはずの矢も、いつの間にかなくなっている。
「なっ!? 不死身なんてずりいぞ!!」
「シャイード。舞台が」
目の前に広がっていた劇場と舞台が霞んで消え、薄暗い空間に転移する。シャイードは元の服に、アルマは人型に戻った。
「なんだこ……うわ!」
足元の覚束なさに下を見たシャイードは、自分が白い網の上に立っていることを自覚する。その遙か下方に、黒く泡立つ海が広がっていた。泡はシャボン玉のように、海の表面から生まれて空へと浮かび上がっていく。虹色に輝く膜も、シャボン玉にそっくりだ。中には夢が揺らめいている。
「幻夢界の深層領域。集合的無意識の海だ。落ちるなよシャイード」
「落ちるとどうなる?」
「……最悪、自我を失う。つまり汝が汝であることを、認識できなくなる、ということだ」
シャイードはぞっとして視線を戻した。白い網の上から足を踏み外さぬよう、慎重にバランスを取る。
「アイツはどこ行った?」
何もない薄暗がりの空間に、白い蜘蛛の巣だけがぼんやりと浮かび上がっている。雨上がりのそれのように、巣のそこかしこにきらきらした水滴が見えた。その煌めきに、シャイードは見覚えがある。リモードの夢の中で、彼の中から取り出された”夢”によく似ていた。似ているだけではなく、実際そのものだろう。
アルマもシャイードと共に周囲を見回し、最後に「上だ」と指し示した。上空にも、幾つも同じような蜘蛛の巣が見える。その空隙を縫い、巨大蜘蛛は急速に視界から遠ざかっていくところだ。尻に繋がった糸に引っ張られている。
「あっ、くそ! 待て!」
背中からドラゴンの皮翼を飛び出させたシャイードを、アルマの手が制止する。
「待て。今、あやつに攻撃をしても、またすぐに回復されるであろう。回復力が強すぎる」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ!!」
「落ち着け。あやつが回復したときに、尻に繋がる糸を見た。そこから力を得ている」
「何だと」
アルマはシャイードの肩に手を置いたまま、空を見上げる。
「あやつの去った向こう……誰かの夢がある。見えるか?」
シャイードは再び顔を上げ、目を細めた。今や小さな黒い点となった蜘蛛の向こうに、明るくてもやもやとしたものが見えた。
「あれは……!」
「うむ……。あの夢の主に、本体が寄生しているのであろう。かなり大きな”夢”の持ち主だ。まずそちらをなんとかするのだ、シャイード」
◇
シャイードはハッと目を覚ました。
視界の端に、アルマの白い美貌がある。天井を背景に、それはぬっと中央に飛び出てきた。
「やっと起きた」
シャイードは勢いよく身を起こす。頭の芯に、鈍い疲労が残っていた。
アルマは床の上に正座をしていた。フォスがすぐ傍に浮いていて、周囲を冴え冴えとした白い光で照らしている。
「なんだ……? ここは……」
シャイードは目を擦りながら、あぐらをかいて周囲を見回した。整然と並んだ椅子と椅子の間、通路上に寝転んでいたようだ。ゆっくりと記憶が、戻ってくる。
「げほっ。そうだ、巨大蜘蛛を」
「うむ。うまく幻夢界から記憶を持ち帰れたようだな」
「思い出してきたぞ。あっ、役者達は……?」
問いかけながら、舞台上に倒れている彼らを視界に捉える。観客席の一番前では監督が、倒れたときそのままの姿勢で首を傾けているのがシルエットで分かった。
「起こしていない。起こしたら却って面倒だと思ったのでな」
「そうかも知れんが……。放置して大丈夫なのか?」
アルマは首を振った。
「さあな。本体に認識されておるから、無気力病の子蜘蛛をまかれたかも知れぬ」
シャイードが目を剥く。
「それって俺たちのせいか……?」
「気になるのか? 見知らぬニンゲン達だぞ?」
「そりゃ……。まあ、そうだけど」
シャイードはばつが悪そうにターバンに手を添え、やや俯く。
「俺たちが知らない奴でも、あの人達を知ってる人はいるだろう、っつーか……」
リモードを心配するメリザンヌの表情や、彼が無事に戻ってきたときの彼女の喜びを思い出し、シャイードは唇をとがらせた。アルマがまじまじと見つめてくるので、次第に頬が熱っぽくなる。
手を下ろし、眉を怒らせてアルマを睨んだ。
「別に、心配してるわけじゃねーけどな!? ただの好奇心だ!」
「そうか。仮に子蜘蛛が取り憑いていたとしても、すぐに発症するとは限らぬし、発症したとしてもすぐには死なぬ。その前に、汝が親蜘蛛を倒せば良いだけのことだ。気にするな」
「気にしてねーっつーの! それに、俺が、じゃなくて俺たちが、だろ」
「うむ。まあ、手伝ってやらぬでもない」
「………」
シャイードはアルマの帽子を無言で取り上げた。そしてそれを、皿を投げる要領で遠くに放り投げた。
アルマはそれを目で追う。
余り堪えなかったようで、シャイードはぐぬぬ……と唸った。
「それよりも奇妙だシャイード。我らが眠らされたとすれば、蜘蛛はその前に現世界に現れていたはずだ。世界膜を超えて、直接魔法をかけることは出来ない」
「俺、ビヨンドが現れるときの気持ち悪い目眩を感じたぜ? 世界膜を喰い破られたんじゃねえのか?」
アルマは首を振る。
「汝が眠っている間に、我は世界膜の破れを探したのだ。だが見当たらなかった。ここは完全に現世界だ」
「ならあの蜘蛛は、世界膜を超えて眠らせることが出来るんじゃねえ?」
アルマは返事をせず、顎に手を添えて目を瞑った。