焦燥
「地獄を見た……」
ユークリスは真っ青な顔をして、テーブルに突っ伏していた。たった今、悪夢の時間を乗り切ったところだ。
目を開いているが、その瞳は何も映していない。おそらく、言葉通りの世界を見ているのだろう。
「スープが……スープがあんな色になるなんて……。それにメインの、肉……。なんの料理、いやそれ以前に、なんの肉だったんだ。……口の中で、蠢く……。馬鹿な! 幻覚か?」
ピリピリとしてチクチクとして、イガイガとする奇妙な感触が舌の上に残っている。味覚は最初の方で死んだ。あとは湯に溶けた砂をすすっているようなものだった。
唇に指を四本添えて、そのおぞましい感触を忘れようとした。今は胃袋の中身を考えるのが怖い。
好奇心はロビン族を殺す、という使い古された言い回しを、ユークリスは今、身をもって体験していた。彼自身は人間だが、その近い祖先に絶対にロビン族がいると仲間からよく揶揄されていたのだ。
メリザンヌが厨房から戻ってきたので、ユークリスは慌てて姿勢を正す。彼女は銀のトレイを抱えていた。
新たな地獄の扉が開く予感で、ユークリスはがたがたと震える。
「お腹はいっぱいになったかしら? もしまだ……」
「いえいえいえ!! もう何ひとつ、ひとかけら、入る余地はありません! 充分です、本当に」
「遠慮しなく」
「ひっ! いや、遠慮ではありませんので! ごちそうさまでしたっ!!」
無意識に両手を顔の前で打ち合わせ、目をぎゅっと瞑っていた。
メリザンヌはきょとんと首を傾げた後、トレイをテーブルに置いた。
蒸らし終えた紅茶を、ポットからカップへと注ぐ。そしてそれをユークリスの目の前に差し出した。
目を瞑ったままだったユークリスは、カップが皿にこすれる小さな音でびくりと肩を跳ねさせたが、鼻腔をくすぐるお茶の香りがまともであることに気づいて片眼ずつ開く。
湯気を立てる紅茶は、美味しそうに見えた。
テーブルの角を挟んだ隣の椅子を引き、メリザンヌが腰を掛ける。彼女の前にも、同じ紅茶が用意されていた。
「それで? 何のご用だったかしら?」
カップを口元に持ち上げながら、魔女が尋ねた。ユークリスはまだ早い鼓動を、努めて落ち着かせようとしながら言葉を探す。
もはや探り合いをする気力は失われていた。
「……ここに来ればシャイード君に会えると思っていたのですが。彼は今、どこに?」
メリザンヌはカップに口をつけようとしたところで手を止め、ユークリスを見つめた。
「ああ、訝しむのも当然でしょう。私は、クルルカンの遺跡で彼と言葉を交わしたんです。それに昨日、図書館で偶然再会しました。いや、必然の再会だったのかな? 彼も私も、同じものの答えを探して図書館に来ていたから」
「……そう」
言葉少なに答え、メリザンヌはカップを傾けた。
「彼はここにいますね? リュジーニ伯」
「メリザンヌでいいわ。今は貴方の上司じゃないのよ」
「ではメリザンヌさん? 彼に会わせてくれませんか」
「………」
メリザンヌはゆっくりと瞼を閉じてカップを置いた。それからまた、物憂げに開く。
「昨日、図書館で会ったばかりなのに、どうしてまた彼に会いたいと思ったのかしら?」
「彼は何者なんです? どうして帝都に連れてきたので?」
「ずるいわ。私ばかりが答えなくてはいけないの?」
メリザンヌは艶やかな赤い唇をとがらせた。
「ずるいですよ、メリザンヌさん。むしろ貴女は、何も答えてませんけれど?」
「そうだったかしら?」
魔女は鼻から息を逃すようにして、色めいた笑みを浮かべた。
ユークリスは肩をすくめる。そしてカップを手にした。ふわりと立ち上った湯気を、息を吹きかけて散らす。
「煙に巻こうとしても無駄です、幻惑の魔女殿。貴女が彼の庇護者であることは分かっているのですから」
カップを傾けて一口。意外なほどの美味しさに目を見開き、皿に戻す。
「あらそう? ただ単に、図書館に入れずに困っていた可愛らしい少年に、便宜を図ってあげただけだとは思わなくて?」
「思いませんね。ご主人は、彼のお陰で無気力病から回復したのでしょう?」
「……随分お耳が早いこと」
「さきほど、貴女自身が教えて下さいました。眠る男は、スープを必要としませんから」
「確かにそうね。でも貴方は、その前にここに来ていたじゃない」
反論するメリザンヌに、ユークリスは笑みを返す。そして眉間に、右手の人差し指と中指を揃えて添えた。
「知識神セズのランプにかけて。簡単な推理ですよ」
「うふ、そうだったわ。貴方は小さな情報の断片から、大きな絵を復元するのが得意だったわね」
賞賛の言葉を受け止め、ユークリスはにっこりと微笑んでまた紅茶をすすった。
「どうしても彼が必要なんですよ、メリザンヌさん」
「いつもより強引ね、ユークリス。いいわ、私も推理をしてあげる。……そうね。さしずめ、皇帝陛下が無気力病で倒れられた、ってとこかしら。それも今日になって」
「!」
「当たりでしょう? だって貴方、沢山ヒントをくれるのですもの。簡単だったわ」
「これは一本取られましたね」
ユークリスは満足げにカップを傾ける。舌先に残っていたイガイガが洗い流されて、大分楽になってきた。
「いいえ。貴方の掌の上で、踊ってさしあげただけよ。どう? 私、上手に踊れたでしょう?」
「お話が早くて助かります。実を言えばその通りです。シャイード君はあの病気の治し方を知っている、ただ一人の人間ですから。彼自身、あの病気を何とかしたいようで、私にも協力を約束して下さったのですが、今日になって事情が変わったのです」
”人間”という部分でメリザンヌの眉が小さく動いた。ユークリスはそれを見逃さない。
彼の瞳が鋭く光ったことで、メリザンヌは自分の失敗を悟った。しかし、彼女はもう平静の仮面をかぶり直している。
「そうねえ? 皇帝陛下が不治の病に倒れた、なんて、噂が広まるだけでも大変なことになるでしょうから」
「ええ。なので可及的速やかに、彼には王宮に来て貰わねばならないのですよ」
「事情は分かったわ。けれど、残念。彼はここにはいないわ」
「えっ!?」
「そんなに驚くことないでしょ。首輪をつけて飼っているわけじゃないもの」
そうしたいのは山々なのだけど、とぼそりとメリザンヌは付け加える。ユークリスは笑うところかと一瞬考えたが、今の呟きは冗談には聞こえなかった。
「貴方も聞いているのでしょう? 彼には何か、大きな目的があるようなの。私にも詳しくは話してくれないわ。帝都に来たのもその手がかりを探すため。私はここで、彼が戻って来るのを待っているしか出来ないわ」
魔女は首をすくめる。テーブルに両肘をつき、組んだ手の甲に顎をのせて上目遣いで相手を見た。スミレ色の瞳に間近から覗き込まれると、朴念仁と形容されがちなユークリスの心にさえ、さざ波が立つ。
どこからともなく、えもいわれぬ良い香りが漂ってきて、思考に霧が掛かるのを自覚した。
「なんなら貴方も、ここでお待ちになる? 今夜、帰ってくるかは分からないのだけれど、お茶菓子くらいご用意」
ユークリスは勢いよく立ち上がった。倒れそうになった椅子を、慌てて片手で押さえる。
頭の霧が、一挙に覚めた。
「失敬。たった今、突然、ものすごい急用を思い出しまして、その」
「あらそう? 残念ね」
少しも残念な気配なく、魔女はさらりと言ってのける。彼女も席を立った。優雅に。
預かっていたコートを取ってきて、内側を彼に向けて掲げる。
ユークリスはそれを断り、ただ受け取って脇に抱えた。口元に手を当て、咳払いする。
「んんっ。シャイード君が戻った暁には、必ず王宮に出頭するように伝えて下さい。あるいは使いを送っていただければ、迎えを寄越します」
「伝えはしてみるけれど……」
「音沙汰がなければ、また寄らせていただきます」
「次は大部隊で来るのかしら?」
「まさか! 精々、一個小隊くらいですよ!」
「そんなに来られても、家に入らないわよ!」
やめて、とメリザンヌは眉を怒らせる。
「それくらいの気持ちでいる、という事ですよ、リュジーニ伯。では、また。ご連絡、くれぐれもよろしくお願いしますね」
帝国貴族のつとめを果たせと言わんばかりに、ユークリスは魔女の呼称を元に戻した。
彼を玄関まで送り、メリザンヌは扉を閉じた。一人になると、彼女は扉に背を沿わせて寄りかかる。
ため息をついて、天井を仰いだ。
豊かな胸に、握り拳を添える。
「迷っている場合じゃないわ、メリザンヌ。あの子の正体に、いつかは誰かが気づくでしょう。そうしたら、誰も彼もが彼を欲しがるわ。――彼がまだいるうちに……、私の目の前から消えてしまう前に、……やらなくちゃ」