ナイトメア
両側を高い本棚に挟まれた大理石の廊下を、シャイードは歩いている。夢の中の図書館は迷宮化していて、数々の分かれ道、回転する書棚に隠された道、無数の階段や重なり合う回廊、そして行き止まりがあった。
歩いても歩いても、書棚の列には果てがない。手近の本を開いてみると、見たこともない不思議な文字が列をなしていた。
目印にするため、通ってきた通路の一番端にある本を一冊ずつ、背表紙が下になるように倒して書棚から飛び出させてみる。だが不思議なことに、何度道を折れ曲がっても、目印の本に再びは出会わない。進んでいるのならいいことだが、シャイードの勘は何かがおかしいと告げていた。
歩き疲れてイライラしはじめたとき、唐突に大きな円形の広間に出た。シャイードがやってきた道を含め、そこからは八本の道が放射状に延びている。
床には魔法陣めいた巨大な幾何学模様が描かれており、中央に何かの柱が建っていた。
警戒しながら近づいていくと、その陰から三角帽子を被った黒い姿が現れる。象牙色の髪は解かれ、風もないのにゆっくりと波打っていた。
「アルマ……? お前、情報は喰い終わったのか?」
迷っていたところに見知った姿を発見し、ほっと息を吐いて距離を詰める。
アルマは答えない。帽子の広い鍔に顔の半ばまでが隠れてしまっている。シャイードは周囲を見回しながら中央に歩み出た。
「この図書館、こんなに広かったか? 出口がどこかお前、分かるか?」
広場の中程までやってくると、唐突に自分の声が反響して戻ってきた。思わず天井を見上げる。
「うわ……」
星空があった。呆然と見回した後、ふと足元を見下ろすと、そこもいつの間にか星空になっている。靴底に当たる硬質な感触はそのままなので、見えない硝子板に乗っているかのようだ。
書棚は宇宙空間に浮き上がって、ゆっくりと離ればなれになっていく。
(これは、夢……か?)
漸く、自分が夢を見ているのではないかと思い至る。
「おいアル」
「シャイードよ。我は、力を取り戻したぞ」
アルマが腰の高さで両の掌を上に向け、腕を大きく開いた。いつもは服の下に隠されている手枷と戒めの鎖が、今は外に顕れていた。
鎖は水の中のもののように、不自然に浮いてゆらゆらと揺れている。
「情報を喰って……?」
「そうだ」
そこでアルマは顔を持ち上げた。シャイードの背中を冷たい衝撃が走り抜けた。反射的に距離を取り、小剣を抜いて低い姿勢で構える。
アルマの光のない黒い瞳が、完全な深淵になって渦巻いていた。深い、昏い、黒い、どこまでも落ち込んでいくような……
恐怖に全身がこわばる。剣を持つ右手が震えた。
「……お前……?」
アルマが掌を握りしめる。そして目を閉じた。長い白髪がふわりと持ち上がり、鎖が白熱する。
彼の身体から漏れ出した膨大な魔力が奔流となってシャイードの身体を後ろに押す。顔の前に左腕を翳し、両足に力を入れて踏みとどまろうとするが、床を滑って少しずつ距離が開いてしまう。
「何を……!!」
疑問が全て口にされない間に、パーンという高い破砕音がした。腕の下から瞼を細めてアルマを見遣ると、戒めの鎖が砕け散って彼の周囲に浮いている。キラキラと輝く、小さな星屑のようだ。それらはやがて、アルマを中心に楕円軌道を描き始めた。
「お前……、まさか、まさか……!」
「サレムの課した制約を破壊した」
こともなげに口にして、手首をさすっている。
シャイードは瞠目した。
「嘘、だろ……? だって、お前には、ビヨンドには……」
「もう汝の手伝いはしなくてもいい。人に危害を加えることも出来る」
アルマはゆっくりとシャイードに近づいてきた。片手を持ち上げてシャイードに向ける。
「あとは汝の持つ鍵さえ手に入れればよい。さあ」
「駄目だ! お前は俺を手伝って、」
「もう汝は我に必要ない。汝は足手まといだ」
言葉の槍が、シャイードの心を貫く。
欲しくない言葉だった。
最も傷つく言葉だった。
痛みと衝撃で、息が出来なくなる。
シャイードは無意識に胸に片手を当てた。そこから、血が噴き出してしまわないように。
「俺は……っ」
溺れる人間が空気を求めてあえぐように、口を開いても言葉を紡ぐどころではない。アルマは絶対零度の瞳のまま、一歩、また一歩と近づいてくる。
シャイードは小さく首を振りながら後退った。
「足手まといなんかじゃない!! お前は……、お前は約束したのに! 一緒に、世界を滅びから救うと! 約束、」
「汝はいらない。必要なのは鍵だけだ。ずっとそうだった。……寄越すのだ、鍵を」
「――嫌だ! ……駄目だ……っ、これは、絶対に!!」
シャイードは踵を返して走った。
走りながら肩越しに振り返ってみたが、アルマは追いかけてこない。その姿がどんどん遠ざかっていく――。
突然、足元から硬質な感触が消え失せた。
「うわあああ!!」
虚空に投げ出されたシャイードは、真っ逆さまに落下する。深淵に落下する。
自分の下――今は頭上――には、巨大な漆黒がある。落下していく。
落下の速度は上がり、無限大になり、時間の進みは遅くなり、無になる。
永遠に落下し続ける。永遠に落下できない。
動けない。息も出来ない。重い。
身体は縦に引き延ばされながら、自分の中に小さく折りたたまれていく。
(夢だ! 覚めろ、夢!! こんなのは、ただの悪夢だ!!)
シャイードは鍵を握りしめた。
(これだけは、……絶対に渡せない!!)
闇の中に、光が見えた。
光は近づくほどに大きくなり、目の前に広がって――
◇
「………っ!! はあっ、はあっ」
目覚めた。顔の真上に、フォスがいる。このせいで目覚めることが出来たらしい。
「やっぱり、夢……」
身を起こし、肩で息を整える。心音がとても早い。裸の全身に、びっしょりと汗をかいていた。左手の甲で、額の汗を拭う。
フォスが心配そうに漂っていた。
「心配するな、嫌な夢を見ただけだ。もう大丈夫」
疲れた顔で、片手をフォスに向けた。フォスはぽとりと枕の隣に落ちて、静かに明滅する。
シャイードは両足をベッドからおろした。
額に手を添え、俯く。
「嫌な夢だ」
(―――夢……)
思い出そうとする程に、夢の詳細は断片化していく。だが、アルマの言葉だけは覚えていた。胸騒ぎがする。
「ただの夢、だよな……? まさか、アイツ……」
アルマは夢に干渉できる。今までにも何度か、シャイードの夢に干渉してきた。
あれがもし、ただの夢でなかったなら。汗が冷えて悪寒に変わる。
窓の外からは相変わらず雨音がしている。眠りについてから、どれくらい時間が経ったのだろう。長かった気もするし、すぐだった気もする。
「とりあえず、汗を流してくるか」
シャイードは借り物のバスローブを羽織る。前を閉じる前に、胸の鍵をぎゅっと握りこんだ。まだ、しっかりとそこにある。
僅かな安堵は、だがしかし、大きな不安を打ち消すには足りなかった。




