帝都図書館
翌日の午前中。
約束通り、メリザンヌはシャイードとアルマを図書館へと案内した。
図書館は、彼女の家から徒歩で十分ほどだ。隣には術士ギルドの塔が建っており、ランドマークとしても分かり易い。
石造りの重厚な建物に入っていくと、内部は幅の広い回廊になっていた。そこかしこに椅子が置かれ、ゆったりとしたローブ姿の人々が何事かを熱心に語り合っている。太い円柱や観葉植物が適度な陰を作っていて、語り合うには居心地が良さそうだ。しかし、ここに本棚はない。
正面の大扉の脇にカウンターがあった。亜麻色の髪を耳の下で切りそろえた女性が座っている。
メリザンヌは軽く片手を上げながら、カウンターに近づいた。女性が気づき、椅子から立ち上がる。
「おはよう、リーリエ」
「おはよう、メリザンヌ。少しぶりね」
「ちょっと忙しくてね。私の権限で、ゲストを二人入れたいんだけどいいかしら」
メリザンヌはスカートのポケットからカードを取り出した。金色のカードで、表面に文字や図案が刻印されている。
リーリエと呼ばれた女性は頷いた。
「貴女のグレードはゴールドね。勿論、問題ないわ。……その後ろの方たち?」
受付の女性は、身体を少し傾けてメリザンヌの背後を見る。三角帽子を深く被ったアルマのことは一瞥したのみだが、シャイードの方でしばし視線を止めた。
好んで図書館に来るタイプに見えなかったのだろう。
今日のシャイードは手持ちの中では比較的こぎれいな服を着てきたのだが、周りを見回せばローブ姿や学者風が多い。見た目の年齢的にも、浮いている感は否めなかった。
ボディバッグは身につけていたが、マントはメリザンヌが衣服と共に洗濯してくれたので置いてきている。夕刻までには帰宅するつもりだったので、フォスも留守番だ。
「どういう知り合い?」
「んー、遠い親戚の子。少しの間、うちで預かってるのよ」
「そうなんだ、初耳!」
リーリエは何度か瞬きはしたものの、特に不審とまでは思わなかったのだろう。少し身を屈ませてカウンターの下に手を入れると、二枚のカードを取り出した。
木製の薄い板で、なにやら図案と番号が焼き印されている。メリザンヌのものとは異なり、穴が空いていて革紐を通してあり、首から提げられるようになっていた。リーリエは後ろの二人に視線を合わせ、それを差し出した。
メリザンヌが身体を横にずらしたので、シャイードとアルマは前に進み出て一枚ずつ受け取る。
「そこの大扉を開くのに必要だからなくさぬよう注意して下さい。館内でも区画を移動する際に必要ですが、ゲストだけで入れる場所はごく限られています。カードを翳しても開かない扉の先は入れない区画です。帰るときには、忘れずにここに返却して下さい」
「中で司書に提示を求められることがあったら、それを見せて。提示できないと即退館させられるから気をつけてね」
リーリエとメリザンヌから相次いで説明を受け、シャイードは無言で頷く。カードを首から提げた。
「さあ、それじゃあ」
メリザンヌが先に立ち、大扉の取っ手に金のカードを翳す。扉が音もなくゆっくりと開かれた。そこを潜って彼女は振り返る。
「ようこそ、帝都の図書館へ」
内部の中央は吹き抜けの広い空間になっていた。
静かだが、静寂ではない。さわさわという衣擦れの音と、控えめな硬い足音、そして人の気配が、書架の間から漏れ出ていた。
古書独特の少し埃っぽい、それでいてどことなく安堵する匂いが微かに漂っている。
床には磨き上げた大理石のタイルがはめ込まれていた。色の違いを用いて巨大な幾何学模様が描かれているようだ。
シャイードはその模様を見て、巻き貝を連想した。
空間の中央付近には円形に並んだ書棚付きの机があり、柔らかな光が降り注いでいる。微かに空間に舞う埃が、キラキラと輝いていた。机の輪に、片手を上げた白い石像が囚われている。
机は書見台のようで、こちらに背を向けて大きな本のページをめくっている学者風の姿があった。視線を持ち上げていくと、幾重にも重なった回廊と、その奥に続く山のような本棚が見えた。
階層は六つ――つまり六階もの高さに渡って本で埋まっている。光は天井から注ぐ自然のものと、回廊のそこここに据えられた魔法灯のものとがあった。
シャイードは言葉を失っていた。
この建物の中には世界中の本があるかのように見える。
「ふふ。驚いたわね?」
メリザンヌがすぐ傍で、小さな声でささやいた。口を開けて見上げていたシャイードは、我に返って顎を引く。
「想像以上だ」
水平に視線を巡らせても、幾つもの書棚が整然と並んでいた。書棚にはそれぞれ記号がつけられて、分類名が併記されている。
「ここにならもしかしたら」
アルマに語りかけているつもりで後ろを振り返ったが、いつの間にかいない。
シャイードは焦って辺りを見回した。
いた。
今にも、書架の間に姿を消していくところだ。その歩みに迷いがない。
「ア……」
思わず大声で名を呼びそうになり、慌てて飲み込む。代わりに足音を忍ばせ、滑るように彼を追った。
アルマは立ち止まり、本の背表紙に視線を滑らせていた。
シャイードはアルマを見上げ、それから目の前の本を見比べる。見ている前で、アルマは一冊の本を手に取った。随分と分厚い本だ。覗き込んでみると、字がとても細かく、項目が沢山ある。
アルマは調べる場所がどこか分かっている様子でページをおおざっぱに繰り、目的の項目が近づくと一ページ一ページ確かめつつめくった。
「何か手がかりがあったか?」
とあるページで手を止めたアルマに、待ちきれずに小声で話しかける。アルマはちらりとシャイードに瞳だけを動かし、またすぐ文面にもどしたが、間もなく顔を上げた。
「何か……」
「納得した」
アルマはページを開いたまま、まっすぐ書架を見て呟いた。それからシャイードの方を振り返る。
「我は変態で合っていたぞ」
「………。………へ?」
何の話だ。突然の告白に思考が追いつかず、ぽかんとしているシャイードに向け、アルマは本を立てて文面を見せた。そして項目の一つを指さす。
「ここだ。『変態とは形や状態を変えること。またその形や状態』とある。今の我は確かに、本来とは違う形状であるから、汝の我に対するこの形容は合っておるな」
「………」
「だから汝は、これからも我のことを変態と呼んで良いぞ」
「………」
アルマは本を閉じ、顎に片手をやって首を傾げた。
「しかし不思議だ。汝は我を幻夢界で見たときからそう呼んでいた。まだ我をアルマと認識していなかったにもかかわらず」
「………」
「もしかして汝には隠れた予知能」
「はっ! あまりのことに意識が飛んでいた。一応確認するが、まさかお前、……それを調べたくてここに来たいと言ったわけではないよな?」
「何を馬鹿なことを。当たり前であろう」
アルマは本を書架に戻した。シャイードは安堵して息を吐き出す。
「それはきっかけに過ぎぬ」
「つまり目的だったのかよ!」
シャイードは声を殺して突っ込む。こほん、と咳払いした。
「まあいい。ともあれもっと重要な目的は、当然ビヨ」
「今は食事だ」
「食事ぃ!?」
思わず声が出てしまった。たまたま近くの通路を通りがかった男性に、じろりと睨まれる。シャイードは手近の本を取り出し、顔の直近に立てて知らぬ振りをした。
足音が遠ざかっていくのを確認した後、本を眼前に広げたままアルマに小声で語りかける。
「お前のせいでいきなりつまみ出されるところだっただろうが!」
「我のせいか? 図書館ではお静かにだぞ、シャイード。古よりの常識だ」
「俺はお前に常識とか語られたくねーぞ!? まあともかく……ビヨンドや厄災に関する情報を何とかして見つけなくちゃならないだろ。お前、心当たりは?」
「ない」
シャイードはがっくりと肩を落とした。
「だが、落胆することはない。我はここで、全ての情報を食べる」
「全てって……ここの本のをか!?」
「うむ。流石に少し時間は掛かるがな」
「ここの本の情報を……全て……。嘘だろ……」
シャイードは呆然として周囲を見回す。
「嘘ではない。我はここに住む。つまり、ここの子になる?」
「いや、住めねーから! てか今なんで言い換えた? お前、朝メリザンヌが言っていたことを聞いていなかったのか? 夕方には閉館だぞ」
「本に戻って書棚に紛れれば、ばれないであろう」
「マジかよ。これはどうするんだ?」
シャイードは首から掛けた木札を示した。
「退館するときに返却しろって言われてるだろうが。返却されなければ不審に思われるし、調べるだろ」
「汝、何とかするが良い」
アルマは木札を首から外し、シャイードに手渡した。
「首から提げてなくていいのか? 部屋の移動に必要だと言ってたぞ」
「良かろう。正規会員はカードを首から提げなくても良いようだ。我は魔術師に見えるであろうし、不審な動きさえせねばカードの提示を求められることもあるまい。部屋の移動に関しては、どのみち、そのカードでは入れる場所は限られておる。閉館後に勝手に入る」
「よくお前、自分が不審者に見られないと堂々と思えるよな」
今までの経験を覚えていないのだろうか。受け取った木札を掲げ、シャイードは眉根を寄せる。
「これを何とか、か。うーん……」
頭を抱えた。ぶつぶつと口の中で何かを呟く。
「汝には、どうせここで出来ることなど何もないであろう。あとは我に任せよ」
この物言いに、シャイードは口元をこわばらせた。確かにアルマがここの本の情報を全て読み取るというなら、自分に出来ることは何もない。
だが言い方が気にくわない。役立たずだと言われた気がしたのだ。すぐにでも言い返したかったが、大声を出すことがはばかられる場所のため、一瞬言葉に詰まってしまった。
その隙に、アルマの興味は本の方に移ったようだ。もはやシャイードの存在を忘れたかのように、本の背表紙を指で順になぞっている。
目をこらせば見える程度の微かな光が、本から指先に吸い込まれていくのが見えた。
(コイツ……ちょっと得意分野だからっていい気になりやがって)
シャイードはもやもやした気持ちを抱え、大股で書架の間を出た。




