落ち着かない入浴
シャイードは石造りの湯船に浸かって浴室の天井を仰いだ。熱めの湯温が、疲れと汚れを溶かしてくれる。
「ふーー……」
心地よさそうに吐息をつくと、湯気がくるくると渦を巻いた。
手足を伸ばし、頭を湯船の縁にのせて水に体重を預ける。思考は、先ほどまでの会話をたどった。
『病を癒やす方法を知っているなら、劇団員のことも助けて欲しい』
リモードがそう乞うたのも当然だろう。シャイードとて相手がビヨンドである以上は、そうするべきであろうし、そうしなくてはならない、と思う。
だがメリザンヌは、無気力に陥る病は、既に帝都全体に広がり始めているのではないかと懸念していた。
リモードがこの病に陥った際、メリザンヌは真っ先に治療師や、神殿の奇跡にすがった。
しかし病状を聞くやいなや、彼らから「打つ手がない」と宣告されたのだ。それは既に彼らが同じ症状を何度も看ていたからではないか、と。
アルマが無数のビヨンドを検知した事実とも符合する。
「くそっ。楽勝だと思ったら、今までで一番やっかいだぞ。数で攻めてくるなんて」
一体一体は何と言うこともない。他人の夢に入るという特殊な条件が必要であり、かなりの疲労を伴うけれど、勝てない相手でないことは分かった。
だがそれを、何度繰り返せば終わるのか?
いたずらに日数を費やして、ここ以外のビヨンドに世界膜を食い荒らされたら何の意味もない。
シャイードは湯船の底に尻をつき、両手で湯を掬った。顔を洗う。
(考えろ。きっと何か、打開策があるはずだ)
「図書館……か」
手を止め、顔を上げた。前髪から水滴がしたたり落ちて、水面に王冠を作る。
(ここの図書館になら、何かビヨンドに対する手がかりが残されているかも知れない。師匠もあの金髪の魔術師も帝国にいた。そしてどちらも、ビヨンドについて調べていた。1000年前の厄災の記録とか、弱点とか。……何でもいい)
思い返せばアルマは、クルルカンで帝国行きの話をした際、すぐに図書館に行きたがった。
(アイツ、なんか心当たりでもあんのか?)
「あら、アルマ。どうしてこんなところにいるの?」
脱衣所の方からメリザンヌの声が聞こえ、シャイードは物思いから引き戻される。身体を反転させ、そちらに耳を澄ませた。
「我は濡れるのを好まぬ」
「お風呂が嫌いなのかしら。でも、ザルツルードでは公衆浴場に……」
アルマに話しかけながら、メリザンヌは浴室の扉をがらりと開いた。
「わーーーっ!」
シャイードは驚き、湯船に肩まで沈む。
「な、な、何いきなり入って来てるんだよ!」
「お湯加減はどうかしら、と思って」
メリザンヌはドレスの裾を持ち上げ、裸足で湯船へと歩いてくる。そしてしゃがみ、湯に片手を突っ込んだ。すぐに手を引っ込める。
「あっつ! 何これ、熱すぎじゃない? まさか置いてあった温熱石、全部入れたの?」
「熱い方が好きなんだよ! つーか、早く出てけ!」
「あらあ、恥ずかしがっているの、可愛い子」
メリザンヌは手の甲を口元に添え、ころころと笑う。
「お姉さんが背中を流してあげるわ。髪もねばねばしているのではなくて? 洗いましょうか? 遠慮しないでいいのよ、貴方のカラダの事はもうよく分かっているんだから」
「やだよ。下手な変身を見られたくねぇ! おい、アルマ。ぼさっと見てないで、メリザンヌを連れてけ」
「ぼさっととは何だ。我はぼさっとなど……」
「いいから!」
脱衣所で成り行きを見守っていたアルマは、反論しつつ浴室に入ってきた。
「んもう。もう少し、心を許してくれても良いと思うわ。私は貴方のこと、こんなに好きなのに」
「なに言ってるんだ、この既婚者」
「もちろん、旦那様への愛情とは別よ。勘違いしないで」
メリザンヌはぴしゃりと言い、唇をとがらせて立ち上がった。アルマの手はやんわりと振り払う。そして両手を腰に当てて前屈みになった。
「私は! ……心配してるのよ、可愛い子。貴方、一人で問題を抱え込みすぎてない? どうして何でも秘密にするのよ。あの大きな秘密だけでも充分に重たいでしょ?」
「………」
「貴方はまだ子どもなんだから、私たちを頼ってよね?」
「子どもじゃねーけど!?」
思わず、シャイードは湯船から立ち上がった。
「………」
「………。あっ!」
メリザンヌの平坦な視線を下腹に感じ、慌てて湯船に沈む。彼女はどこか勝ち誇ったように目元を和らげて微笑んだ。
(なんか分からんけどくっそ腹立つ!)
シャイードは真っ赤になった。
「んっんっ。変身も未熟だし、人としてはともかく、ドラゴンとしてはまだまだ子どもの年齢でしょ?」
「ぐっ……」
変身のことを言われると反論が出ない。無表情のアルマにさえ、生暖かい視線を向けられているような被害妄想をした。
「ビヨンドっていうのが、貴方たちの敵?」
「………」
「帝都に現れることは知ってたのかしら?」
「……っ! 知らねぇ。俺たちだってここに来て、初めて知ったんだ」
シャイードが言葉を絞り出すと、メリザンヌは片眉を上げた。彼女は姿勢を戻し、長い髪を指先でくるくると弄ぶ。
少しの間をおいて、魔女はにっこりとして頷いた。
「ええ、信じるわ。貴方たちには三度も助けられたもの。クルルカンの氷の魔物と、海に出た銀色の魔物。あれもみんな、ビヨンドっていう魔物だったって事かしら?」
シャイードは大きくため息をついた。浴槽の縁に頬杖をつく。
「そーだよ。そういやアンタ、全部に居合わせていたんだったな」
観念してぶっきらぼうに答えた。メリザンヌはゆっくりと頷く。
「これで大分繋がってきたわ。そのビヨンドというのを倒すのが、貴方が亡くなった師匠さんから受け継いだ仕事なのね。分からないのはなぜ貴方がそれを隠すのかということと、アルマの存在だわ」
「………。言ったってどうせ信じて貰えないと思った。いや、今だって信じて貰えないと思っている」
「どうしてよ!? 私だって実際に目にしたし、見た以上は信じるに」
「そうじゃない! ……俺だってビヨンドについてはまだ確信が持てないんだ」
メリザンヌは瞬いた。その表情に沢山の疑問が浮かんでいる。
シャイードは彼女に背を向けた。
「悪ぃけど。もう独りにしてくれ」
メリザンヌはそっと吐息して目をつぶった。腿の横で両手が握り拳を作っている。やがて諦めたように力を抜く。
「そう……。邪魔して悪かったわね。これ以上嫌われないうちに、立ち去ることにするわ」
どこか固い声で言い、彼女はきびすを返した。
最後に戸口で一度振り返ると、
「着替えとタオルはここに置いておくわね。ごゆっくり!」
と言い捨てて立ち去った。
その足音が遠くなるのを確認して、アルマが口を開く。
「そこまで頑なに秘密にしなくとも、聞かせてやれば良かったであろうに」
「ビヨンドのせいで世界が滅ぶって? 言ってどうなるってんだよ。アイツはビヨンドのことすら初耳だったようだし、興味本位の詮索に、いちいちつきあってられるか」
シャイードは勢いよく湯船から上がった。
頭から何度も湯を被ってべたべたを流すと、戸口を開き、脱衣所へと戻っていく。
「詮索……。果たしてそれだけであろうか」
アルマは主を目で追い、独りごちた後に彼に続いた。
「とはいえ、あやつとて隠し事をしておるからな。汝が信じきれずとも仕方あるまい」
「メリザンヌが? 何を……、ああ。亡くなったとかいう元の旦那の話か?」
タオルで身体を拭う手が止まる。彼女が言い淀んだことを思い出し、シャイードは鼻を鳴らした。
「んなこと、どーだっていいわ。言いたくないことくらい、誰にだってあるってことだろ」
「隠されるほど知りたくなる気持ちは、我にも理解できるぞ」
「お前が? 人の気持ちを?」
「うむ」
「それは……、だいぶ進歩したな」
アルマは無言で両手を上げた。
「そこまでは褒めてねえ」
両腕が下げられた。
「ところでカンラクガイには何があるのだ?」
「理解できたのはそれのせいか」




