運命の神
シャイードは目を覚ました。
間近で見守っていたメリザンヌの表情が、ほっとしたものに変わる。
「無事だったのね、私の可愛い子」
魔女はまだぼんやりしているシャイードの頬を両手で包み、その後、頭を優しく撫でた。シャイードはその心地よい感触に少しのあいだ身を委ねていたが、意識がはっきりしてくると「止めろって!」と乱暴に言って身を起こした。顔が赤い。
ベッドから立ち上がろうとした際、蹈鞴を踏む。
「っとと……? おぉ、なんだか足に来てる」
「疲労であろう。なにせ他人の夢に入ったからな」
アルマの言葉で、遅れて幻夢界でのことを思い出してきた。既に記憶が断片化している。覚えている断片を手がかりに、丁寧に言語化していけば、つなぎ合わせられそうだけれども。
「蜘蛛と戦ったっけ? うわ、なんかネバネバしてんだけど、俺」
シャイードは服についたゲル状のネバネバを、嫌そうに指で払った。
「リモードと汝の夢を繋げるのに、我も蜘蛛を召喚した」
「何だと?」
寝ている間に行われた魔法が不安で、シャイードは顔をしかめて服を見下ろす。そしてふと気づいた。
「これ、見覚えがあるぞ! ……そうだ。クルルカンの遺跡で、兵士たちが」
そこまで口にした後、メリザンヌの視線に気づいた。
魔女は微笑みを浮かべている。しかし、その瞳は笑っていない。
シャイードはぞくっとした。
「遺跡の霊に取り憑かれたアイシャちゃんが使った魔法よね? 小さな魔物を喚びだして、兵士たちを昏睡させたとか聞いたわ」
メリザンヌはアルマを振り返った。
「やっぱり、あのアルマはこのアルマなのね。貴方も取り憑かれているの? それとも、貴方が本体だったのかしら?」
メリザンヌはアルマにしなだれかかる。魔導書は無言で主を見た。
シャイードは眉根を寄せて目をつぶる。
そしてため息をついた。
「その通りだ。あのアルマがこのアルマ」
「本体かどうかは、まだ秘密? 秘密にすることが、示していそうね。”まだ隠していることがある”って」
「アンタには関係ない」
シャイードは強い口調で言った。メリザンヌはアルマの顔を見上げる。相変わらず無表情で、何も読み取れそうにない。
「そう。まだ駄目なのね」
魔女は残念そうにアルマから離れた。
そのタイミングで、リモードが喉奥で唸って動いた。全員の視線が眠る男に集中する。
「成功したのよね?」
メリザンヌがどちらにともなく問いかける。
「うむ」
アルマが答えた。リモードが目を開く。
「おお、メリザンヌ! 我が命の光。愛しき妻よ!」
両手を挙げ、大げさに伴侶を讃えた。
メリザンヌはベッドに膝で乗り上げ、リモードを抱きしめる。
「ああ、旦那様! やっと本当にお目覚めね。私、寂しかったんだから!」
人目もはばからず、二人は熱烈にキスを交わし始めた。
シャイードは目を丸くした後、居心地悪そうに視線を逸らす。アルマは、「ほう」と興味深そうに身を乗り出して観察した。
◇
「彼らが私の病を治してくれた、と?」
ひとしきり喜びを噛みしめた後、メリザンヌが二人を紹介した。そこで初めて、リモードは部屋にいる見知らぬ者たちの存在に気づいたようだ。
「そうなの! この子がシャイード、こっちはアルマよ」
「お……おお……!!」
リモードは驚愕する。一応、挨拶くらいはしてやろうかと考えていたシャイードだが、彼の表情を見てたじろいだ。
痩けて落ちくぼんだ眼窩の内で、瞳だけが熱に浮かされたように輝いている。
「あっ……!」
シャイードはアルマを振り返った。今、アルマは帽子を被っていない。食事の時に脱いで、そのままだ。
リモードは片腕を持ち上げてアルマを指さした。指先が震えている。
「見つけた……。ついに見つけたぞ、我が運命の神よ!!」
「!?」
予想と少し違う反応に、シャイードは眉を跳ね上げ、アルマは小さく首を傾げた。
「何の話だ?」
メリザンヌが夫の額に片手を当てる。
「まだ意識がはっきりしないのかしら……」
「いいや、愛しき妻よ。最愛の魔女よ。私は今、これ以上ないくらい、起きているぞ!」
リモードは額に置かれた妻の手を捕まえ、両手で包み込んだ。
「見よ! その……アルマ君と言ったか? 月光を紡いだような髪色のその男! 彼こそ、私が長い間ずっと探し求めていた者なのだ」
「あら。そうだったの、あなた」
「いや、何でだよ! 存在すら知らなかっただろーが!」
思わず裏拳で空を切ってから、シャイードは大きく息を吐き出した。片耳を手で塞ぐ真似をする。
「おっさんも、いちいち表現が大仰だな。声もでけーし。まあ、アルマの顔をまともに見たニンゲンは割と変になるから、もう俺的には慣れたアレなんだが、こいつ多分、そういうんじゃねーから」
「シャイード。我は汝の言わんとすることもよく分からぬ」
「いや、命の恩人の少年よ。私は彼の姿を一目見て、はっきりと分かった。間違いない。これぞ天啓というもの。そう、彼こそ、私が探し求めていた神!」
リモードは握り拳を空に翳す。それからその手を開いて、指先をアルマへと向けた。
「つまり、こういうことだ。私の芝居に出てくれ、アルマ君! 運命の神の役者として!」
「まあ!」
これにはメリザンヌも驚き、口元に手を当てる。シャイードは言葉を失った。顎が落ちている。
しばし沈黙が流れた。
「……それはつまり」と、アルマが漸く口を開く。「出演料が貰える方ということか? 払う方ではなく」
「それ、このタイミングで確認するのかよ!?」
今度の裏拳はアルマに命中した。
病み上がりで急に興奮したリモードが少し疲れた様子を見せたため、メリザンヌは階下にお茶を淹れに行った。
その間、シャイードは書台の前の椅子に腰掛け、アルマは立ったまま詩集を開き、視線を走らせていた。
リモードは枕を背に挟み、ヘッドボードにもたれていたが、漸く落ち着いたのか顔を持ち上げて二人を見る。
「礼が遅れて申し訳ない。シャイード君、アルマ君。改めて、治療をありがとう。……ところで、私は一体、どういう状態だったんだね?」
アルマは詩集を閉じた。シャイードと視線を交わし合う。主が顎をしゃくったので、アルマが口を開いた。
「汝はとある魔物に、夢を喰われておったのだ。そのため無気力となり、深い眠りに落ちていた。おそらく、合間に目を覚ましても、意識ははっきりしていなかったことだろう。我は幸い、その魔物の対処法を知っていた。そこでシャイードに眠って貰い、汝の夢へと導き、直接干渉して魔物を倒した、という訳だ」
「何と、そんなことが出来るのか、君たちは。一体何者なんだね? 妻とはどこで知り合った?」
「何者かという問いに答える権限を、我は持ち合わせていないが、魔女とはクルルカンという町で会った」
「ああ、もしかして例の兵役期間の……。そんなところに行っていたのか、妻は」
「知らなかったのか?」
と、これはシャイードだ。
リモードは首を振る。
「私が聞いてしまったことは、妻には秘密にしておいてくれ。知らされなかったということは、私が知ってはいけないことだったのだろうから。私も忘れよう」
「我には特に異論はない」
「兵役ってのは?」
リモードは僅かに首を傾げ、口元を緩めた。
「帝国は初めてかな、シャイード君。帝国貴族には兵役、もしくは戦費を負担する義務があるんだ。時にはその両方を課されることもある。私自身は貴族ではないが、妻は以前、貴族と結婚していたことがあってね。亡くなったご主人から爵位を受け継いでいるんだ」
「ああ、何とか伯夫人?」
「リュジーニ伯夫人」
アルマが補完する。
リモードは少し表情を陰らせた。
「本当なら爵位など、返上して貰いたいんだがね……。妻を危険な戦地へ赴かせるのは気が進まない」
「じゃあ、金を納めればいいんじゃねーの? アンタ、さっきそう言っただろうが」
「あー、うぅむ。それはそう、なんだが……」
壮年の男は歯切れが悪い。そこにメリザンヌが戻ってきた。手に銀のトレイを持っている。
「お待たせしたわね。何なに? 何の話をしていたの?」
「いや、たいした話ではないよ。愛しい人」
メリザンヌは「そう?」とにっこり微笑み、トレイを書台に置いた。重ねていたカップにポットからお茶を注ぎ、シャイード、アルマと順に手渡していく。
クッキーの載った籠を下ろした後は、トレイにカップを一つ載せたまま、リモードに渡した。リモードはそれを膝の上に置いて、カップを手にする。
シャイードは湯気を立てる液体をじっくりと眺めた後、恐る恐る口をつけた。
「あれ?」
紅茶は、ちゃんと美味しかった。
(煮出すだけなら出来るって事か? 夕食のアレは、ただの失敗作だったって事かも知れないな)
温かい液体を一口ずつ飲み干していくのは、気持ちの落ち着く作業だった。
「それで、やはり役を引き受けては貰えないものだろうか」
紅茶を飲み干して落ち着いたリモードが、改めてアルマに問うた。
アルマは脇に詩集を挟み、左手にカップ、右手にクッキーを持っている。口の周りを粉だらけにしたまま、頷いた。紅茶を飲み込み、口内のぱさぱさを解消してから返事をする。
「我は我以外の者になりたくはない」それに、と魔導書は続ける。「我らにはここでやらねばならぬ事があるのでな。図書館に行かねば」
「それは明日にでも案内できるわ」
「そうでなくても、劇になんて関わってる暇はねーんだよ」
リモードはあからさまに消沈した。メリザンヌがベッドに腰掛け、彼の肩に手を添える。
「ただでさえ、人手が減ってしまって、これでは上演など……」
「他に何人か、あなたより先に病に倒れた人がいるって話だったわね」
「それって、同じ無気力になる病か? まさか、感染するわけじゃないよな!?」
シャイードは驚き、アルマを振り返る。
「どうであろう。もしそうであるなら、逆に興味深いぞ。どういう感染経路なのだ? 一緒に昼寝をしたとかか?」
「俺が聞いてるんだが」
「考察の余地はある。だがまあ、一つ分かったことがあるぞ」
アルマは目を閉じ、顎に手を添えた。
「あの時、雲の中に足を踏み入れたように感じたのは、そのせいであろう」
アルマはシャイードだけに伝わるようにぼかして言う。
「つまり……」シャイードはごくりと唾を飲み込んだ。「あいつ一体だけじゃなく」
「おそらく。無数にいる」