無と暗黒の宴
ダイニングに移動すると、大きな長テーブルには明るい色のテーブルクロスが掛けられ、一輪挿しに薄紫の花が飾られていた。キッチンと同じく、部屋の一辺は中庭に面しているはずだが、既に雨戸が閉められていて様子はうかがえない。
長テーブルの一方の端に、向かい合う形でナプキンと銀食器とグラスが二人分セットされている。中央に置かれたカラフェには水滴が発生していた。
天井には魔法灯が据え付けられていたが、今は消えている。光源はテーブル上だ。水盤の上にフローティングキャンドルが幾つか置かれ、微かに揺らぐ温かい光を放っている。天井に水面の光が反射して幻想的な雰囲気を醸し出していた。
壁には暖炉があった。当然火は入っていない。そのマントルピースの上に、綺麗な小瓶や銀の燭台、ミニチュアの天球儀の他、見開きの細密画が立てられていた。
興味を引かれ、そちらへ向かおうとしたところで、トレイに皿を乗せたメリザンヌが入口に現れる。
「さぁさ、座って頂戴な」
シャイードは椅子の背を引き、一方に腰掛けた。アルマは向かいだ。
彼は三角帽子を被ったままだったので、脱げと指で示す。アルマは素直に従った。
二人の間に位置するテーブルの短辺に、もう一つ椅子が置かれていたが、その前に食器はない。
魔女はシチューの皿とパンを二人の前に置き、カラフェから冷たい水をグラスに注いだ。
「アンタは食わねぇの?」
一度キッチンの方へ戻ろうとしたメリザンヌに、シャイードは声を掛ける。
メリザンヌは半分だけ振り返り頷いた。
「味見をしてたら、お腹がいっぱいになってしまったの。今、お肉も焼けるから、遠慮なく食べていてね」
「ふーん」
軽食はとうの昔に消化されていたため、シチューを目の前にしてシャイードの腹が鳴った。リーキ、ニンジン、タマネギ、キャベツなど、小さくカットされた野菜がたっぷり入った、美味しそうなスープだ。澄んだ黄金色の中に、刻まれたパセリも浮いている。豆と芋まで入っていて、空腹にも効きそうだ。
「そんじゃ、頂こうぜ」
スプーンを取り上げ、たっぷりの野菜をすくい上げる。思い切り口に入れた。
バターの良い香りが、鼻に抜け……
「………?」
口にスプーンを突っ込んだまま、シャイードは固まった。飲み下した後、もう一度、スープを掬って口に運ぶ。舌の上で転がして味わった。
「………」
(なんだこれは? どういうことだ?)
シャイードは難しい顔でスープを見下ろす。
(味が、……ない……?)
これだけ素材が入っていて、美味しそうな匂いがして、それなのに、何というか……
「無の味がする」
アルマが向かいから言う。
「それだ」
口の中のスープを飲み下し、スプーンをアルマに向けて突き出した。
「俺の舌がおかしいのかと思って、焦った」
「これはこれで、興味深い」
アルマは無表情ながらも、ペースを落とさずに食べ進めている。シャイードは食べたことのない味(味?)に頭を抱えた。何をどうやったらこうなるのか、謎が過ぎる。
食材の味が打ち消し合って、……無。調味料はどうなった。バターの味を打ち消すって、どうやって!? 味見したんじゃなかったのか。
続けて口に入れてはみるが、食感だけあって味がないというのは何とも不思議だ。
「パンは味がするぞ」
アルマが向かいから報告してくる。
なるほど、と頷いて、パンを手にして口に入れた。
確かに、パンは普通の味だった。無でもないし、変な味がするわけでもない。むしろ外はぱりっとしていて、中はふわふわしていて甘みがあり、美味しい。
シャイードは無のスープとパンを、交互に食べた。
メリザンヌが湯気を立てるプレートを運んできて、食事を進める二人の隣に置いた。
ステーキだ。熱々の鉄板の上で、皮付きの小芋や茸と共に湯気を立てている。
メリザンヌは三角巾を外してエプロンのポケットにしまうと、椅子を引き、腰を掛けてテーブルに肘をついた。にこにこしながら、二人が食べる様子を交互に伺っている。
「美味しい? ねえ、美味しい?」
「え……あ、……まぁ、いいんじゃねぇの?」
シャイードは彼女の指に手当の跡を見つけてしまい、歯切れ悪く答えた。慣れない料理を、一生懸命してくれたのかも知れないと想像すると、毒舌も幾分引っ込む。自分とて昔、酷い料理を師匠に食わせたものだったが、師匠はいつも美味しいと褒めてくれた。
「ふふっ。良かった」
「特にこのパンとか? プロ並みじゃないか」
「お気に入りのお店のよ」
パンは温め直しただけだったようだ。
その間、アルマは無言だ。メリザンヌは看過できなかったのか、彼へ視線を向ける。
「アルマはどうかしら? お口に合う?」
「美味しいかどうか、我には判別できぬのだが……、興味深い料理ではあるぞ。今までに食べたどれとも違う」
「あら、そうなの? ただの野菜スープなのに?」
「うむ。非常にユニークだ」
「まあ、それって褒め言葉で良いのよね?」
メリザンヌは両手を頬に当てた。頬がほんのり赤らんでいる。嬉しいらしい。
「単なる事実だ」
「ふふ、ありがと。こんなに褒められたのって、久々よ」
そらそーだな、とシャイードは冷静な頭でそう思った。むしろ前例があることに驚く。
「ステーキも、食べてみて。丁度、良いお肉を手に入れたところだったのよ」
「ああ、うん……」
シャイードはあらかた食べたスープの皿を遠ざけ、ステーキを正面に移動した。見た目は凄く美味しそうだ。
ソースが掛かっているが、ナイフを使ってまず、ソースのない部分を削り、口に入れてみる。
「……美味い」
普通に、肉を焼いた味がする。柔らかく、良い肉だ。焼き加減も良い。
これは期待できる、とソースを絡めて大きく切り取り、口に入れた。
「ごふっ」
咽せた。
苦い。ソースがはちゃめちゃに苦い。濃縮し、とろみをつけた焦げという以外、表現しようがない。肉が、肉のうまみが、暗黒に吸い込まれる……
「やめろ、俺の肉を離せ……返してくれ……」
シャイードはうつろな目で呟いていた。メリザンヌが顔を覗き込もうとしたが、アルマが声を上げたためそちらを振り向く。
「凄く濃厚なソースだな」
「そうでしょう? ワインとスパイスと、隠し味にジャムも入れてあって」
(ワイン? ジャム? ……隠れるどころか、欠片も存在を残さず、闇に消えてるけどな!?)
シャイードは脳内で突っ込んだ。
「その全てが渾然一体になって、一つの強烈な個性に融け合っておる。まるで宙の高みに存在する、光を閉ざす石炭袋のような」
「そんなに褒められると、恥ずかしいわ」
「単なる事実だ」
アルマはもくもくとステーキを食べていた。ソースを絡めて。
(アイツ、すげーな……)
シャイードは心底感心した。
暗黒に浸食された肉を、何とか救い出そうと無駄な努力をしつつ、ステーキを腹に収めていく。芋と茸は、ソースの掛かっていない部分は比較的食える味だ。
「アンタ、なんというかその……、普段あんまり料理はしないのか?」
「そんなことないわよ。旦那様のために、作ってるわ」
「これで……、はっ!? 旦那?」
彼女の口からさらっと飛び出した言葉に、料理への驚きが追突されて吹っ飛ばされた。
「結婚してるのかよ!?」
「そうよ。あら、まだ言ってなかったかしら」
「聞いてねぇ!! ……いや……」
口元に指を添えて思い出す。
門で聞いた話だ。その時は右から左にスルーしてしまっていたのだが、何とか夫人とか。
「リュジーニ伯夫人メリザンヌ」
「そう、それだ」
アルマが助け船を出し、シャイードは彼を指さした。
「あらあ、それは大分以前の話ね?」
彼女はあっけらかんと言い放つ。
「離婚したのか?」
シャイードの質問に、魔女は首を振った。
「病死してしまったの、二人とも。……今の旦那様は、三人目」
「さんにん……」
結婚しているという事実だけでシャイードには驚きだったが、さらに三人目とは。
「男に破滅をもたらす淑女」
アルマが続けて言うと、メリザンヌは眉根を寄せた。唇が尖っている。
「その二つ名、大嫌いだわ。どこで聞いてきたの?」
「門で」
メリザンヌは大きくため息をついた。彼女は色っぽい仕草で髪をかき上げる。
「美人の定めよね……。独り身の時はちやほやされるのに、誰かと結婚した途端、他の誰かから妬まれるのよ。相手が貴族とか金持ちの男だと尚更ね」
「俺にはよく分からんが……、アンタは確かに美人だしな。苦労もあるんだろう」
美しい容貌が必ずしも祝福だけでないことは、アルマを見て学んでいた。本当は深く傷ついているのに、彼女は強がっているように思え、シャイードは同情の言葉を向けた。
「………。貴方のこと、やっぱり好きだわ。可愛い子」
メリザンヌは投げキッスを送ってきた。
シャイードは赤くなる。
「あのなぁ! そういうことすっから、男が誤解して、あとから恨まれるんだろ?」
「あらぁ? 私、貴方になら誤解されても良いわ、可愛い子。いっそ、ここの子になっちゃえば良いのに」
「ここの子……」
アルマはそっと繰り返した。
「ぜってーからかってるだろ……」
メリザンヌはシャイードの正体を知っている。人間の女性には興味を示さぬと分かっていて、からかっているのだと理解していた。
「そやつはどこにおるのだ?」
アルマが唐突に尋ねた。きょろきょろしている。
メリザンヌの表情がこわばった。彼女はスミレ色の瞳に蔭を落とし、しばし沈黙する。組み合わせた両手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと顔を上げて二人を交互に見た。
それからため息をつく。
「あのね……。病気で伏せっているの」