魔女の家
旧城壁の門を潜った馬車は、旧市街を走る。こちらの方が王城に近いが、建物の背は新市街より低くなった。
その代わり、道幅は狭くなっている。
「町の雰囲気が変わったな」
「ええ。この辺りは、帝都になる前の町の面影が残っているの」
「あれはなんだ」
アルマが進行方向の左にある、ひときわ大きな建造物を指さした。建物の上部だけが、他の建物の上に覗いている。大通りからは幾分距離があるようだが、それでも充分に巨大だ。
「円形闘技場よ」
メリザンヌは振り返らずに答える。聞かれるのが分かっていた様子だ。
「ほう。戦うのか?」
「戦うわね。剣闘士とか、猛獣とか、幻獣とか。大昔の戦車戦を再現したりもするわよ。水を入れて海戦なんてのも」
「それはちょっと、俺でも気になる」
「ふふっ。男の子ね」
シャイードの発言に、メリザンヌが目を細めて微笑んだ。彼女は続けて、左手を掲げる。
「で、反対側にある丸いドームの立派な建物は劇場ね」
彼女の手の先、右前方には古い神殿を模した円柱が全面に並んだ、これまた大きな建物が見えた。こちらは大通り、いや広場に面しているようだ。建物自体は四角いが、ドーム天井は丸い。
「戦うのか?」
と、再びアルマ。メリザンヌは片手を頬に添え、僅かに首を傾げた。
「演目によっては、かしら。ああ、でも……言われてみれば確かに、大抵戦うシーンはあるわね。戦いながら歌って踊ったり」
「なんだそれ。そんなんで戦いになるのか?」
「歌劇だもの。知らない?」
「見たことねぇ」
「我も」
「あら。じゃあ、次の公演は、是非見て貰わなくてはね。きっと夢みたいに楽しいわよ」
身を乗り出して言った後、何かを思い出したようにメリザンヌは少し表情を曇らせた。馬車の外に視線を向ける。
シャイードは片眉を上げた。しかし、こちらに向き直った魔女が元通りの表情だったので、気のせいかと思う。
「この辺には娯楽施設が集まっているのか?」
「娯楽というより、中央広場の東側はいわゆる文教地区ね。近くに術士ギルドもあるし。歓楽街は西の方よ。……興味あったりする?」
このからかいにシャイードは鼻を鳴らした。
「あるわけねーだろ、この俺が」
「何があるのだ、カンラクガイとやらには」
「お前も気にしなくて良いから!」
馬車は広場の手前で右に曲がった。
シャイードとアルマはしばらく無言で、右と左、それぞれの景色を眺める。何度か細かく曲がるうち、建物の敷地が広くなってきた。道を歩いている人間も、きちんとした身なりをしているものが多い。
やがて馬車は、瀟洒な邸宅の前で止まった。
「お疲れ様。到着よ」
馬車から降りたシャイードとアルマは、メリザンヌが建物正面にある木製扉を開く間、周囲を観察する。この辺りは住宅街なのか、静かで落ち着いた雰囲気だ。メリザンヌに導かれて両開きの扉を潜るとトンネルがあり、その先は庭になっていた。周囲をぐるりと建物に取り囲まれたその空間に、樹木や花が所狭しと植えられている。
丁度、建物が「回」の字の形だ。
アルマが庭石を踏みながら、左右の植物を一つ一つを指さす。
「トネリコにハリエニシダ、ヘンルーダ、ニガヨモギ、イヌホオズキ、ドクニンジン……」
「あら、アルマは流石に魔術師ね」
「俺だって、それくらいなら分かるぞ!」
メリザンヌがアルマの知識を褒めると、謎の対抗意識でつい口にした。魔女はシャイードを振り返り、避ける暇を与えずに彼の頭を撫でた。
「ふふっ。シャイードちゃんも、良い子良い子」
「別に、そういうつもりじゃねえ!」
シャイードは顔を赤らめた。客観的に振り返り、褒めて貰いたいがゆえの発言に聞こえると自覚したのだ。
「どう? ここは身体が楽でしょ」
「ん……。あ、そう言えば」
深呼吸する。ここの魔力量は正常だ。周囲の建物を見回す。壁にぐるりと描かれている装飾は、何らかの魔法かもしれない。漆喰には所々、水晶らしき透明の石まで埋められている。
「さ、こっちにいらっしゃい。精一杯、おもてなしするわ。苦手なものはある?」
「シャイードはお化けが怖い」
「怖くねーよ! てか、食い物のことを聞かれてるんだっつーの」
「我は何でも喰うぞ」
「……アルマに皿やテーブルを喰われないように気をつけてくれ」
◇
客室だという二階の部屋に案内され、シャイードは荷物を下ろし、マントを外して楽な格好でくつろいだ。
部屋にはベッドが二台あり、広々としている。窓は先ほどの中庭に面していた。部屋の外の廊下は、道路に面している。
アルマは帽子も脱がずに、クローゼットや小机の引き出しを開いたり、書棚の本を物色したり、好奇心の赴くままにあちこち弄っていた。マントから追い出されたフォスは、火のない暖炉の中に入っていき、出てきた。再び入っていくと、今度は出てこない。暖炉の床を照らす光が揺れているので、中で遊んでいるのだろう。
日没まではあと少しあったが、庭はすっぽりと建物の影の中だ。しかし、地面の所々に畜光石が置かれていて、蛇行する庭石を照らしている。
「古そうだけれど、なんか落ち着くな、この家」
シャイードはベッドに腰掛け、背後に手をついて天井を見上げた。初めて来た場所なのに、我が家に戻ってきたような安心感がある。
アルマは特に答えず、書棚から見つけた本をぱらぱらとめくっていた。
「何の本だ?」
「古い詩のようだ。”曙に逍遙し、白樺の木立に入りぬ。朝霧のヴェールを貫き、響く郭公の呼び声……”」
「ふーん」
シャイードは興味なさそうに相づちを打ち、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。アルマが淡々と詩を読み上げていく。
抑揚のないその声は、眠気を誘った。シャイードはいつの間にか、うつらうつらしている。
静かな水面に浮かび、一定のリズムで揺らされているような心地よさだ。
どれくらい経った頃か。
ガシャーンという音が階下から響き、女性の悲鳴が聞こえた。アルマは本を取り落とし、シャイードはバネのように飛び起きる。フォスはマントの陰に隠れてしまった。
「なんだなんだ!?」
廊下に飛び出し、階段へと走る。
音の発生源はキッチンだった。メリザンヌが床から食器の破片を拾い上げ、身につけたエプロンの上にまとめているところだ。
二人の姿が入口に現れると、メリザンヌは立ち上がった。長い髪を三角巾でまとめた彼女は、普段よりも清楚なイメージだ。
「あ、あら。驚かせてごめんなさい。お皿を落としてしまっただけよ」
「なんだ」
シャイードは息を吐き出して脱力する。
「ふふっ。心配してくれたのね。……優しい子」
メリザンヌは破片を片付け、笑顔で隣の部屋を示した。
「もう、お夕飯が出来るわ。そこで手を洗って、テーブルに着いていて」
「ああ」
示された水場へ行き、たらいに貼られた水で手を洗う。
そこから、火に掛けられた黒い釜で、何かがぐつぐつしているのが見えた。パンの焼ける良い香りが空腹を刺激した。




