嘆きの井戸
案内された別室とやらは狭く、とても快適と言えるものでなかった。天井も低い。アルマはまっすぐに立つと三角帽子の天辺が折れ曲ってしまうので、帽子を脱いでいる。
「こういうところでは、汝は良いな。余裕がある」
「くっそ、こいつ。嫌みまで覚えやがった」
「単なる事実の描写だ」
「………。まあいいや。少なくともベッドがある。メリザンヌが来るまで、寝てればすぐだろ」
「シャイード。これはもしかしたら汝が気づいていない、重要な事実なのだが」
アルマが真面目な顔で――というか、いつも通りだが、マントの留め金を外し始めたシャイードに詰め寄る。
「なんだよ、改まって」
「うむ。天井に頭が詰まりそうな我が立っているより、沢山余裕のある汝が立って、我が横になった方が空間の利用効率として」
「うるせー。寝るのは俺だ」
アルマの言葉を遮って宣言すると、シャイードは脱いだマントをベッドに広げ、その上に仰向けになってしまった。中にいたフォスが、ふわふわと浮かび上がる。アルマはそれを目で追った。
ここはシャイードのような身元不明の旅人を、一時的に拘束するための場所だ。
彼らは知らなかったが、案内された部屋は中でも比較的良い方の部屋だった。
鉄格子つきではあるが小さな窓があったし、シーツはいつから換えていないか分からなかったものの、ベッドもあった。
アルマは主が早々にベッドを占領してしまったので、頭を擦りそうになりながら窓際に移動し、外を眺めた。
眼下に午前中に歩いてきた農耕地が広がり、その遙か向こうには小さな森が見える。昨晩泊まった村は、あの森の傍だ。
フォスは遅れて窓の縁に降りてきて、ひなたぼっこを始めた。
シャイードは本当に眠かったらしく、横になるなり寝息が聞こえてきた。
「やはり、相当怖かったのか」
窓の外を眺めながら、小さく呟く。
「こわくねーよ……」
ジャストなタイミングで返事が返り、アルマはシャイードを振り返る。寝たふりかと思い、息が掛かるくらい間近に顔を近づけてみたが起きない。
「寝言か? 寝ている者と会話をすると、そやつは死ぬと聞くが。シャイード、怖くなかったのは本当か?」
返事はない。シャイードはすやすやと寝息を立てている。
しばらく無言で主の寝顔を観察しても特に変化が見られなかったので、実験に失敗したアルマはベッドに腰を掛けた。
昨晩聞いた話を思い出す。
それは帝都に一番近い村落の、宿の食堂で、目つきの鋭い男から聞いた話だ。
村の傍の森は禁足地になっている。理由は単純で、入った者の多くが出てこられないからだ。
大きな森ではない。にもかかわらず、行方不明者が後を絶たないのは、森が呪われているからだという。
この平原の地下には鉄や血石などの鉱床が広がっていて、大昔はあちこちにドワーフの採掘場があったのだそうだ。あるとき採掘権を巡る戦いが起こり、付近でも戦死者が出た。弔う時間のなかった彼らはやむを得ず、森の中の涸れ井戸に仲間の死体を隠した。野犬に喰われることを避けるためだ。そして、近いうちに弔いに戻ると約束して撤退した。
しかし彼らは戻ることはなく、井戸に投げ込まれた死体はそのまま放置された。
異変が起こり始めたのは戦が終結して、しばらく経ってからのことだという。
森に入った村人が、武装したドワーフたちが道を横切っていくのを見かけたが、足跡が全くなかったとか、旅人が野営中に霧が出てきて、同時に地面の底から響くような苦しげなうめき声を聞いた、などと噂し始めた。
いつものように薪を取りに入った老人が迷って出てこられなくなり、気づいたら村はずれに倒れていたこともあった。老人は子どもの頃から森に親しんでいたはずなのに、初めて迷ったのだという。「まるで別の森にいるように感じた」と身震いし、以後は二度と森に近づかなかった。
「村人たちは、それらはみな、井戸に投げ込まれたドワーフたちの呪いに違いない、と結論づけた。そしてヨルの神官を呼び、『嘆きの井戸』に囚われている怨念を、成仏させて欲しいと依頼したのだ」
「ところが、意気揚々と森へ入っていった骸狩りの神官が、待てど暮らせど出てこない。事ここに至って村人は、漸くドワーフの呪いの深刻さを悟った。死者の霊を慰めることを得意とし、多くの加護を身に纏うヨルの神官ですら、嘆きの井戸の呪いには打ち勝てなかったのだ……。村長は村人を守るため、森に入ることを禁じた。その後も、禁を犯して肝試しに入った若者たちが戻らなくなる事故などは希に起こったが、今ではもう、誰もあの森に近づこうともしないのさ。あんたらも、馬鹿なことは考えるなよ」
これを聞いたシャイードは、部屋に引き上げてからも衣服を脱がず、そのままベッドに横たわった。アルマにも珍しく、そのままでいるように命じていた。
その後も、主はベッドの上で輾転反側し、無為に時間を過ごしたようだった。寝付きの良い彼にしてはやはり珍しい。
朝方になって漸く眠れたようだが、お陰で村を出るのが予定よりも遅れ、帝都到着が昼近くになってしまった、と言うわけだ。
出発時にも、アルマは「嘆きの井戸を見てみたい」とシャイードに提案したのだが、怒濤の勢いで却下された。
一応、ビヨンドの気配があるのか問われたが、感じられなかったのでそう答えたら、「なんでお前は関係のない面倒事にまで首を突っ込みたがるのか」と呆れられた。
アルマにも、特に事件を解決しようという気はなく、ただドワーフの幽霊を見てみたかっただけなのだ。出来れば話も聞いてみたい。死ぬとき、どれくらい痛かったか、とか。どうやったら幽霊になれるのか、とか。
メリザンヌがやってきたのは、午後も遅い時間になってからだ。
頑丈な扉に鍵が差し込まれる音がすると、シャイードはむくりと起きた。ひなたぼっこをしていたフォスが、素早くシャイードの陰に隠れる。
「俺、どのくらい寝てた……?」
「三時間半ほどであろうか」
シャイードは答えを聞いて頷き、目を擦って伸びをした。扉が開く。
「あらまあ! 本当にシャイードちゃんだわ。嬉しい!」
質素なドレスに薄手のショールを巻いた姿で、メリザンヌは口元に手を当てた。背後に門番が控えている。喜びを顔中で表現するメリザンヌとは対照的に、シャイードは不機嫌そうに唇をとがらせた。
「わざわざこんなとこまで来てやったのに、入都を拒否されるとはな」
「あの時は時間がなくて、失念していたわ。予め何か、書類を渡しておけば良かったわね。ごめんなさい。機嫌を直して頂戴、私の可愛い子」
ベッドのそばへ来て、アルマの隣に腰を掛けると、メリザンヌはシャイードの頭を撫でようとした。シャイードはその手を払い、むすっとしたままベッドの足元側へ移動してそこから降りた。マントを身につけ、フォスを招き入れて荷物を背負う。
メリザンヌはアルマの方を振り返り、彼に両腕を回してしなだれかかった。
「謎の美形さんも、無事だったのね。良かったわ」
「我に魅了の魔力は通じぬぞ」
「まっ! 失礼。こういうときはお世辞でも優しくするものよ?」
すげなく言われ、メリザンヌは眉を怒らせて身を離す。しかし、すぐにうっそりと微笑んだ。
「でも分かっているわ。貴方には心に決めたただ一人の子がいるのですものね。それで毛先ほども揺らがないのね……。大好物よ、そういうの」
うふふ、とまた口元に手を当て、メリザンヌは思わせぶりな視線をシャイードに送る。
シャイードは門番の方を見ていて気づかない。
「大好物?」
アルマは真顔で繰り返す。「それは美味いのか」「ええ、美味しいわ」などというやりとりを背後に聞きながら、シャイードは扉に手を添えた。
「何でもいいから早く行こうぜ。腹減った」
「汝も大好物か?」
「何が!?」
意味不明の問いかけに突っ込むと、メリザンヌがころころと笑いながら立ち上がった。
「外に馬車を待たせてあるから、道すがら、何か軽いものでも買いましょう。お夕飯は、腕によりを掛けるわね」