姉弟
居室の前で護衛と別れ、広い室内で一人になるとレムルスは安堵のため息をついた。水盤の水で手と顔を洗い、滴を拭う。鏡の向こうに、母親似の青い瞳と淡い金髪を持つ、疲れた顔の少年がいた。
(これが皇帝陛下? 全っ然、そうは見えないなぁ……)
「議会は終わったの?」
不意に声を掛けられ、肩が跳ねた。遅れて声の主に気づき、レムルスは頷きかけた後、首を振る。鏡越しに、双子の姉が眉尻を下げたのが見えた。
「来てたんだ、ユリア」
レムルスは振り返らずに答え、水盤の前を離れる。姉の気配はぴったりと背後を追って来た。
「そうよ。わたくしは貴方の入れる場所へなら、どこへだって好きに入れますもの」
レムルスは姉を気にせず、寝室へと入っていく。彼は歩きながら、身につけていた大仰な衣装を次々に脱いで楽な格好になった。ベッドに腰掛ける。紗の衝立に、姉の影が映った。
「お疲れね? まだ昼前よ?」
「疲れたよ。沢山の人の前で話すのは緊張するんだ」
「でも今日は、六将の方々だって、全員揃ってはいなかったのでしょ?」
「うん。六将はソノスと、ダナット・ダルダーレンだけ」
「お兄様もお姉様もいらっしゃらなかったのね。残念ですわ」
ユリアの影がしなを作るのを見て、レムルスは肩を揺らした。
「イヴァリスはめったに戻ってこないもん。ファティマはどこか、外交に行ってるんじゃなかったかな? 彼女の部隊は派手だから」
ユリアは小さくため息をついたようだ。
イヴァリスもファティマも、当然彼らの本当の兄姉ではない。けれどもユリアは、見目麗しい二人をお兄様、お姉様と勝手に呼んで密かに慕っているようなのだ。
実際は、親しく話しかけたりはしない。立場の違いがあるので、したくても出来ない。
「皇帝って、案外不自由だよな……。僕には友達すらいない。対等に話せるのはユリア、お前だけだ」
「そうね」
「ドラゴンがいてくれたら、ってうっかり口にしたら、みんな笑うんだよ」
「あら? 冗談だと思ったのかしら。先の皇帝だって、必死で探していたのに?」
「父上の発言なら、誰も笑わなかったと思う」
姉は腕を組んだようだ。
「そうかしら? 笑ったのではなくて? 竜殺しが、いまさら竜を欲しがるなんて、一番冗談っぽいもの」
ユリアはからかうような口調で言うが、レムルスは真面目な顔で腿の上の布を握りしめる。
「………。父上はドラゴンを殺したくて殺したんじゃないと思うんだ。ドラゴンが欲しかったのに、自由にならなかったから、殺さざるを得なかったんじゃないかな?」
ユリアはこれに対し、意見を決めかねているようで何も言わない。レムルスは姉の影に向かい、身を乗り出すようにして言葉を継ぐ。
「だってさ、そうだろ? ドラゴンがついていれば無敵だ! 僕はまだ若くて、肉体だって父上より全然華奢で、……頑張ってるけど勉強だって足りてなくて、いろんな人に侮られてる」
レムルスは目を伏せ、唇を噛む。
「僕自身のことだけなら、そんなのどうだって良い。でも、侮られるのはこの国なんだ! 僕のせいで、みんながやりづらくなってる。周辺諸国は、今なら帝国に勝てるって思ってるし、そのせいで、内政に注力したくても時間を作れない」
「平和な時間が貴重ね」
「そうなんだ! でももし、ドラゴンさえ僕の味方でいてくれれば、誰も僕を、帝国を侮ったりしないだろう? しかもそれがもし、世界にたった一頭のドラゴンだったら尚更!」
レムルスは姉に向かい、手振りも交えて力説する。
「防壁なんて何の役にも立たないんだ。ドラゴンは空から、大きな炎で城を焼き払ってしまうのだから! 石も溶ける温度なんだよ? そんなドラゴンのいる国に、誰が刃向かうと思う? 一頭だけのドラゴンがもたらしてくれるのは、昔みたいな争いじゃない。平和なんだ!」
「言うことを聞いてくれればね?」
姉の静かな言葉は、レムルスの興奮を一瞬で冷却した。
「うん……、まあ、そうなんだけど……」
「それこそ絶対に無理。ドラゴンは人間が大嫌いだもの。獣たちの長である地位を、人間が簒奪したと思っているのだわ。貴方の大好きな、歴史で習ったでしょ?」
「うん………」
「奪われたっていう竜の卵だって見つからなかった。でしょ? そもそも本当にあったのかしら、竜の卵。父上が竜退治をしたときに、全部壊されちゃったとも聞いたけれど」
「宝物庫の記録では、」
「だってそれって、記録だけでしょ? 直接知ってた人は、いなくなったか、死んじゃった」
「……そうだね。父上もずっと探していたみたいだけれど」
「有力だって言われていた遺跡も、ハズレだったのですって?」
レムルスは言葉なく頷く。クルルカン遺跡には、密かに期待していたのだ。
しかし、そこに竜の卵はなかったのだという。いたのは見たことのない異形のモンスターだけで。
「兵のほとんどが無事に戻れただけでも、良かったと思わなくてはいけないのだろうな」
「そうよ。ないものねだりをしても駄目。手持ちのカードで、なんとかやりくりしていきましょ? この国を」
「うん……」
他にどんな議題が出たのか、レムルスはユリアに問われるままに答えた。ユリアはひとつひとつを丁寧に吟味し、それについて一言二言意見を述べたり、逆に弟に意見を求めたりした。
話題の区切りに、レムルスは急に眠気を思い出して大あくびをした。目蓋を擦る。
「もう駄目。僕は眠るよ」
「お疲れ様、レムルス。ゆっくり休んで頂戴な」
レムルスは姉の言葉に小さく頷き、羽布団に潜り込んだ。本当に疲れた。身体が泥になったようにベッドに広がっていくのを感じ、速やかに深い眠りに落ちていく。
「安心して頂戴。わたくしがちゃんと、貴方の代わりに……」
ユリアが何か言ったようだが、もはやレムルスの耳には届かなかった。